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Category‐ノート:サッカーの試合

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Wikipedia:削除依頼/カイザースラウテルンの悪夢Wikipedia:削除依頼/サンドニの悲劇での議論を読み、思うところがありましたので、問題提起させて頂きます。(本来なら自分も当時の削除議論に加わりたかったのですが、仕事が忙しかったので議論に参加する余裕がありませんでした。すみません、言い訳です。)

自分が上記の削除議論で問題だと感じたのは、サッカーに関する項目であるにも関わらず、サッカーに余り詳しくない(と思われる)方々の意見で削除が決定したということです。カイザースラウテルンや重慶はともかく、サンドゥニの試合の重要性は日本サッカーに興味がある人ならきっと熟知されてるはずです。それまで数年をかけて順調に地道に積み重ねてきたものがあっさりと跡形残らず崩壊したときの衝撃と絶望感。それがサンドゥニの試合が持つ日本サッカー史的意義であり、だからこそ報道だけでなくサッカー評論家からも日本サッカー史に深い爪痕を残したエポックメイキングな試合と認識され、あまりの絶望的な試合内容から「サンドゥニの惨劇」「サンドゥニの虐殺」との名称で言及されるに至った経緯があるのです(ネットでは「サンドゥニの悲劇」が多いようですが、サッカー史的な観点を持たない人たちによる誤用です)。このように、その試合の重要性が議論の中で十分認識されないまま、結論が出てしまった事例があるわけです。ここで自分が言いたいのは「サンドニの悲劇」を「サンドゥニの惨劇or虐殺」として復帰しろ、ということではなく(若干思わないでもありませんが)、サッカーの項目に関することなのだから、サッカーをあまり知らない人たちの観点ではなく、サッカーをめぐる報道・評論の観点で決定されるべきだであり、サッカーをあまり知らない人たちの観点による決定が悪しき前例とならないようにしよう、ということです。

今日(2006年7月29日)現在、Wikipedia:削除の復帰依頼にて重慶の奇跡の復帰議論が行われています。これもサッカーに関する報道や評論においてあの試合がどのように位置づけられているか、評価されているか、に基づいて判断されるべきだと思います。また、項目名を「~の悲劇」とか「~の奇跡」のような愛称(?)とすることにどなたかが疑義を出されておられましたが、これもサッカー報道や特にサッカー評論の場で使用例が一定以上存在している限りにおいては問題ないと思っています。サッカー雑誌やサッカー評論などを読むと、これらの愛称が意外と多く使われていることに気付くはずです。

とりとめのない内容になってしまいましたが、ご意見やご反論などいただけましたら、大変嬉しく存じます。--shimoxx 2006年7月28日 (金) 20:00 (UTC)[返信]

サッカー雑誌やサッカー評論以外の一般に広く知られていてなおかつ一過性でなく定着した愛称(例えばドーハの悲劇)以外はウィキペディアでは使用反対です。ウィキペディアが「一部でしか使われていない愛称を一般に広める」という方向になりかねませんしそれは百科事典であるウィキペディアの役割ではないと思います、また試合の単独記事作成理由に関して「サッカー史的な観点」や試合結果に対する「衝撃」や「絶望感」などを挙げておられますがその辺はかなり個人の主観が入ってくる要素でありウィキペディアで単独記事を立てる理由としてはそぐわない部分が大きいと考えます、あくまでその試合単独に対しての個人の感情的な側面は排除した客観的な内容を考慮して単独記事を立てるに足りれば単独で、そうでなければその大会の記事内に記載する等を考えるべきだと思います。220.211.75.63 2006年8月17日 (木) 04:10 (UTC)[返信]
ご意見をいただきまして、どうもありがとうございます。反駁を加えますけれども、お気を悪くなさらないでくださいませ。
まず、その試合の呼称・異称(~の悲劇、~の歓喜など)が世間一般に広まっているかは重要な論点でないように思われます。サッカー報道・評論で一定の評価が与えられている事象であるならば、その事象について記述するのがむしろ百科事典=ウィキペディアの役割であると考えます。自分がよく執筆している日本史分野では、治天の君西園寺寧子国司苛政上訴などといった概念・人物・事象がありまして、これらは世間一般にはほとんど知られていませんけれども、日本史研究の世界では「知らないとモグリ」とされる超重要な事項です。もっと話を拡げれば、今日たまたま成歩堂龍一という項目を見つけまして、あるコンピュータゲームの一登場人物に過ぎないので、私からすれば不要な項目のように見えましたけれども、どうも斯界では一定の認知度と評価を得ている人物のようです。であれば、ウィキペディア上に存在しても悪くない項目だと言えるでしょう。これらの例が示すように、世間一般の尺度は必ずしも重要ではなく、その世界での重要度をもって、項目の必要性を計るべきであろうなあと思うのです。
次に、『「衝撃」や「絶望感」など・・・その辺はかなり個人の主観が入ってくる』とのご懸念についてですが、当然のことながら、執筆者本人の主観をもって「~の悲劇」といった項目を書くことは厳に戒められるべきです。ただし、しっかりした方法論に基づいていて、一定の水準に達している評論・批評を元に執筆するのであれば、問題ないのではないでしょうか。個人のブログなどではなく、金子達仁氏・後藤健生氏・二宮清純氏・馳星周氏・サッカーマガジン誌・サッカーダイジェスト誌などのように一定水準に達している評論・批評であれば、実際のところ、「衝撃」「絶望感」といった一見主観的な表現にも、客観的な裏付けが明確に与えられているのです。
そもそも批評・評論という営為に完全中立ということはあり得ず、何らかの立場に拠らざるを得ません。ですので批評・評論に「一見主観的な表現」が入り込むのは不可避的なことです。それはサッカー試合だけの話でなく、例えば文学作品にも同様に言えることです。ウィキペディアには多数の文学作品項目がありますが、完全中立・客観的な事項のみ記述するのであれば、作者・発表年・ページ数程度のことしか書けますまい。その作品の歴史的異議だとか社会的評価だとかは、程度に差こそあれ何らかの主観が入り交じった文芸批評を通じてでないと書けないものです。
翻ってサッカー試合項目ですが、文学作品項目と同じことだと思います。しっかりした方法論に基づいている評論・批評を通じて、サッカー試合項目を執筆することは十分可能なはずです。文学作品項目の存在は許されるが、サッカー試合項目の存在は許されない、といった言説が果たして成立しうるでしょうか。文学作品項目と同じように、サッカー試合項目も「執筆者個人の感情」を排し、一定水準に達している評論・批評を根拠として執筆されているならば、ウィキペディアはそれを受け入れるに吝かでないはずなのです。
もとより自分は、無理にサンドゥニの惨劇済南の奇跡といった項目を立てたい訳ではありません。「カイザースラウテルンの悪夢」なぞはもっての他です(数ヶ月・数年を経て一定の評価が定着した後で執筆しても十分間に合うし、評価が定着してなかったら執筆しなければよい)。しかし、例えば仮にサンドゥニの惨劇が「中立な観点」「検証可能性」「独自の研究の排除」「信頼できる情報源」といった条件をクリアしているにも関わらず、機械的に削除の判断が下されるのであれば、それはとても容認できるものではありません。どうも例の削除依頼の議論を拝読する限りでは、その虞が極めて高いように感じられました。そうではなく、サッカー報道・評論の観点も十分に尊重された上で、適正な判断(すなわち存続の判断)が下されるべきであると考えています。それはひとえに「なぜサッカーならダメで、歴史や文学やゲームなら許されるのか?百科事典とは、それほど了見の狭いものでなければいけないのか?」という素朴な疑問に発しているのです。
--shimoxx 2006年8月17日 (木) 15:48 (UTC) 一部改稿shimoxx 2006年8月17日 (木) 18:42 (UTC)[返信]

「サンドニの悲劇」はサンドニのレイプとして復活させました。--210.4.168.55 2006年10月8日 (日) 09:13 (UTC)[返信]

Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト サッカーで悲劇・奇跡シリーズの整理に関する意見を募集しています。--fromm 2009年9月18日 (金) 04:54 (UTC)[返信]