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Category‐ノート:仏教の聖遺物

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聖遺物に関する改名・統合提案

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上記2件を提案します。Category:仏教の聖遺物en:Category:Buddhist relicsの翻訳・移入であると推測します。『和英対照 日本美術用語辞典』(東京美術、1990)を見ると、「舎利塔」の解説には次のように書かれています。「A miniature stupa in which the relics of the Buddha (shari) are enshrined.」つまり、「the relics of the Buddha」は日本語で「仏舎利」といいます。『小学館 精選版 日本国語大辞典』(小学館、2006)を見ると、「聖遺物」の解説には次のように書かれています。「カトリック教会で、聖人の遺骨や着衣などの遺物の尊称。崇敬の対象とされる。」つまり、「聖遺物」はキリスト教でしか使われない用語です。以上の理由で、Category:仏教の聖遺物Category:仏舎利に改名すること、Category:キリスト教の聖遺物Category:聖遺物に統合することを提案します。--Focaccia会話2019年6月19日 (水) 00:19 (UTC)[返信]

私の日本語がぺらぺらではありませんから、少々我慢してください。Category:仏教の聖遺物が大丈夫だと思う理由は仏舎利に加えて、仏教には他の聖遺物の種類があります。私の理解では「仏舎利」とはは如来や羅漢(悟りを開いた者)の遺品で、「舎利」とは一般的な用語で大師や菩薩などの遺品を指すと思いますが、それは違いますか?
『浴仏功徳経』によると舎利を二種に分類する「二種舎利」ということがあります。一生身舍利とは一般的な仏舎利(この中に骨舍利と髮舍利と肉舍利に分かれる)を意味します。法身舍利とはお釈迦様から伝えられた経典がを指します。
サンスクリット語で「遺物」は「Caitya(チァイティヤ)」を翻訳でき、4つの種類があります。
  • Dhātu (ダードゥ、塔の別名) 舎利を指す。
  • Paribhoga (パリボガ、僧が受けたものを楽しむこと) とはお釈迦様の使用器。袈裟や鉢が含む。
  • Uddeśa (ウデシャ、提示) とは奉納のような物、あるいは仏を思い出させる物。仏像や仏足、法輪や色々なシンボルが含む。
  • Dharma、前述の法身舍利に基本的に同様ですね。
つまり、仏教世界には仏舎利は遺物の一つのタイプです。Category:仏舎利はサブカテゴリーでいいと思いますが。--Invokingvajras会話2019年6月19日 (水) 17:40 (UTC)[返信]
Invokingvajrasさんがご意見を書いてくださり、ありがとうございます。
言語間リンクで、en:Category:RelicsCategory:聖遺物がリンクしていましたが、これは間違いで、Category:聖遺物en:Category:Christian relicsがリンクすべきなので、私はこのリンクを修正しておきました。現在の日本語版には、en:Category:Relicsとリンクすべきカテゴリがないようです。
Category:宗教用具en:Category:Religious objectsがリンクしていますが、これは少しおかしいです。「宗教用具」を英語に翻訳すると、「tools used in religious ritual」というような意味です。例えば、数珠は「宗教用具」の一つです。「Religious objects」を日本語に翻訳すると、「信仰対象」(または「礼拝の対象物」)になります。例えば、仏像は「礼拝の対象物」ですが、「用具」(道具)ではない、と日本語では大抵、考えます。現在の日本語版と英語版には、これらのカテゴリとリンクすべきカテゴリがないようです。
私はen:Category:Buddhist relicsは、Category:仏舎利と翻訳すべきだと思います。「仏舎利」も「舎利」も、現在の日本語では、両方とも釈迦en:Gautama Buddha)の骨という意味です。釈迦以外の人の骨を舎利とは呼びません。
サンスクリット語の「: Śarīra」は、元々の意味は「身体」という意味です。サンスクリット語の経典を中国語に翻訳するとき、「: Śarīra」を「舎利」という漢字にしました。漢字で書かれた経典(漢訳経典)を読んだ日本人は、「舎利」という言葉を「釈迦の骨」だけの意味に使いました。なぜなら、日本人は釈迦以外の人の骨は、骨と呼んでいたからです。
日本人は、「: Christian relics」を「聖遺物」と翻訳しました。「聖」という漢字は、現代の日本語では、「キリスト教の」という意味合いでよく使われます。en:Christmasは、日本語で「クリスマス」という場合が多いですが、「聖誕祭」という場合もあります。en:Holy Familyは「聖家族」と翻訳します。
サンスクリット語のチャイティヤ(: Caitya、漢字:支提)は、元々の意味は「墓(tomb)」「礼拝堂、祠堂(chapel)」「神聖な樹木(holy tree)」などの意味です。一番最初の意味は「火葬のための積み上げられた」だとする説もあります。ストゥーパ(: Stūpaen:Stupa)の意味で使うこともありますし、ストゥーパの一部分(この写真の大きな丸いところ)の意味で使うこともあります。これらはすべて、「釈迦に関わる聖なるもの」(Holy things related to Budda )「礼拝の対象物」(Objects which peaple pray to)であるから、「釈迦に関わる聖なるもの」「礼拝の対象物」という意味でチャイティヤという場合もあります。現在の日本では、アジャンター石窟群などにある洞窟の礼拝堂のことを「チャイティヤ」と呼ぶことが多いです(cf. オンライン辞書)。
: Caitya(支提)には、たくさんの意味があります。英語版ウィキペディアのen:Cetiyaは、一つの意味しか説明していないので、記述が充実していないと思います。
英語版ウィキペディアのen:Cetiyaが説明しているのは、パーリ仏典の中にある『ジャータカ』(: Jātaka)のうち、『カーリンガボーディ・ジャータカ』(No.479, Kaliṅgabodhi-jātaka, 迦陵誐王菩提樹供養本生物語)に書いてある物語を基礎にしています。この物語は、釈迦が昔、祇園精舎(Jetavana-vihāra)にいたころの物語です。阿難: Ānanda)は釈迦に「釈迦が祇園精舎にいない時、: Ceitya(支提)は何ですか?」と質問しました。釈迦は「Ceitya(支提)には3種類ある」と答えました。仏教学者の高田修博士は、Ceityaの意味は建築物(祠堂)という意味だけではないので、ここでいうCeityaは「礼拝の対象物」という意味であると解説しています(cf.『南伝大蔵経 第34巻 小部経典十二』大蔵出版、pp.171-172)。釈迦は、「チャイティヤには、サーリーリカ(sārīrika)、パーリボーギカ(pāribhogika)、ウッデーシカ(uddesika)の3種類がある」と言います。そして、釈迦は「サーリーリカは私が滅後(涅槃に入った後)でなければ、チャイティヤ(礼拝の対象物)とすることはできない。ウッデーシカは具体的ではないから、心の中で想像して礼拝する。しかし、仏の使用した大菩提樹(釈迦が悟りを開いたときに使用したブッダガヤの菩提樹)は私が現世にいるうちでも、滅後でも、チャイティヤである」と言います。高田博士は、サーリーリカは舎利、パーリボーギカは釈迦が日常に使用していたもの(錫杖、鉄鉢、袈裟、水瓶、仏座、道樹、仏足跡など)の意味であると説明しています。ウッデーシカの意味については諸説あり、ストゥーパ(仏塔)・精舎(寺院・僧院)・法輪: dharma-cakra)などとする説と、仏像であるとする説の2つを紹介しながら、高田博士自身は記念碑的な聖地(ブッダガヤ: Buddha-gayā)など)だと考えると言っています。仏教美術学者の宮治昭博士は、サーリーリカは舎利とストゥーパのことであり、パーリボーリカは衣や鉢などの釈迦が使用した物や、特に菩提樹のことであり、ウッデーシカは象徴的な図像表現(Symbolic iconography representation)であると言っています(cf.『仏教文化辞典』佼成出版社、1989)。このあと、阿難はチャイティヤにするために、パーリボーギカである大菩提樹の種を祇園精舎に植えます。
この物語は、仏教ができる前から、インド人は「聖なる樹木」を礼拝する習慣を持っており、その習慣を仏教が取り入れたことを、理論的に説明するための物語です。スリランカタイには、これを真似して植えた菩提樹がたくさんあるそうです。日本の寺院にも菩提樹は植えられていますが、インドのものとは種類が違ってしまっているそうです。
『浴仏功徳経』(『仏説浴像功徳経』、経典へのリンク)は、仏像を洗う方法を解説した経典です。その経典には「我滅度後,有二種舍利,一者法身,二者化身.」と書いてあります。義浄が翻訳したバージョンでは、「一者身骨舎利,二者法頌舎利.」となっています。仏教学者の望月信亨博士は、この部分について、「是れ肉身の遺形に対して不滅の法身を法頌舎利と称したるなり」と言っています(cf.『望月仏教大辞典 第3巻』世界聖典刊行協会、1980年、p.2186)。簡単な日本語にすると、「この文章は、釈迦の滅後に残る肉体(body left after death = bones)と比較して、滅びることのない法身(釈迦の教え、法)を『法頌舎利』と呼んでいるのだ」になります。要するに、サンスクリット語の「Śarīra」は、元々の意味では「身体」という意味ですから、ここの「舎利」は「遺体(肉身の遺形)」のことであると、望月博士は言っています。
サンスクリット語の「Dhātu」の元々の意味は、「層」(stream)、または「身体の要素」(parts of body)の意味であり、Śarīraと同じ意味で使われることもあります。Śarīraを納めたStūpaの意味に使う時もあります。
最後に私の意見をまとめます。英語のRelicsは聖人の遺体・遺品という意味ですが、サンスクリット語のCaityaは、Religious objectsの方が意味が近いです(Religious objectsが礼拝堂を含むならば)。日本語にはChristian relicsとBuddhist relicsをひとつにまとめるような、Relicsと完全に同じ意味の単語がないので、Category:聖遺物en:Category:Christian relics)とCategory:仏舎利en:Category:Buddhist relics)を一つにまとめる上位カテゴリを作ることは難しいです。Template:Catlinkを使ってカテゴリ同士をリンクする方法が最適であると、私は思います。
私は英語で文章を書けなくて、ごめんなさい。なるべく簡単な日本語で書きましたが、分からないところがあったら、質問してください。--Focaccia会話2019年6月21日 (金) 02:26 (UTC)[返信]

仏教のものについても「聖遺物」という表現が使用される例があります:

  • 奈良康明、下田正弘『仏教の形成と展開: インド2』佼成出版社, 2010、329頁に「仏教聖遺物容器」
  • ひろさちや『仏陀の教え』鈴木出版、1986年、79頁に「一種の聖遺物崇拝」
  • 多田伊織『日本霊異記と仏教東漸』法藏館、2001年、229頁に「仏教を根付かせるためには、聖跡や聖遺物が必要だったのであり、」
  • 中村元, 福永光司, 田村芳朗『岩波仏教辞典』岩波書店、2002年、472頁に「遺骨や遺髪などの具体的聖遺物」
  • 高崎直道、木村清孝『仏教の東漸』春秋社、1997年、270頁に「具体的なブッダの「聖遺物」にブッダの現存を認めゆく系統」

など、

また、「聖遺物」と日本語に訳されるものは、キリスト教にもありますし、イスラームにもあります (ただし、日本語版のタイトルになっているアーサール だけで「聖遺物」という意味があるのかには疑問を持っています)。「聖遺物」をキリスト教の聖遺物だけのものとするのはどうなのかなぁとも思います。したがって、統合には 反対で、Category:仏舎利が必要なカテゴリであるとのコンセンサスが得られれば、Invokingvajrasさんのおっしゃるように、Category:仏教の聖遺物のサブカテゴリとすればよいと考えます。--Takabeg会話2019年6月25日 (火) 12:08 (UTC)[返信]

提案 調査ありがとうございます。色々用例を挙げていただきましたが、一方で辞書類が聖遺物の第一義に「キリスト教の」を挙げているのも一面の事実かと思います。用例のうち、わざわざ「仏教の」という修飾を伴ったり、「一種の」と断りを入れているあたりは、キリスト教の用法の方が一般的であることを念頭に置いているようにも読み取れます。わざわざ仏舎利を聖遺物と呼ぶのは、何だかキリスト教視点で中立的じゃないなぁと思ったりもするのですが、ここで聖遺物の定義について云々するのは、現在のカテゴリ構造の解決にあまりならないので、Category:聖遺物に「聖遺物に関するカテゴリ。聖遺物はカトリックの用語とする場合もあるが、ここでは他宗教の聖遺物も含む」と但し書きするのはいかがでしょうか? ウィキペディアのカテゴリの名前にするにあたり、Category:衣料のように、便宜的な定義を但し書きしている例もありますし。
Category:仏舎利Category:仏教の聖遺物のサブカテゴリにすることについては、今現在Category:仏教の聖遺物内にあるものはほとんどCategory:仏舎利に入ってしまい、Category:仏教の聖遺物Category:仏舎利過剰なカテゴリ他のカテゴリと大部分が重複しているものになってしまうため、現状では併存は難しいと思います。Category:仏教の聖遺物の定義文に「仏舎利・舎利塔・舎利容器などの仏教の聖遺物に関するカテゴリ」と書くのはどうでしょうか? ただ、現在仏教の聖遺物に仏足石が入っているのですが、仏足石が聖遺物なのかどうか、非常に判断しかねるところです。マンディリオンが聖遺物になるのと同じようなもののような、違うような。仏足石が入るなら、ゴータマ・ブッダの菩提樹も入るんじゃないかと思ったり。Category:仏教の聖遺物だと何が入るのか判断するのが非常に難しい(例えば岩波仏教辞典の「仏舎利」の説明に「仏舎利は仏教の聖遺物」なんて書いてある訳ないですし)。Category:仏教の聖遺物という名前だと、Wikipedia:カテゴリの方針の「中立的な視点での分類が難しく、個々の記事の分類に異論の出る余地が大きいもの」なのではないか、Category:仏舎利に改名して仏舎利関係に絞った方が定義が明確で分かりやすくていいのではないかというのが私の正直な気持ちです。ただ、まぁ、色々な考え方もあるかと思いますので、定義文の書き換えで対応する方向を改めて提案します。仏足石や菩提樹は聖遺物かどうかもご意見をお聞きしたいです。--Focaccia会話2019年6月29日 (土) 15:12 (UTC)[返信]

提案 Category:聖遺物の定義の変更については反対意見がないようですので、定義文の変更を実施し、Category:キリスト教の聖遺物の統合廃止については取り下げとさせていただきます。一方、Category:仏教の聖遺物については、上記提案を提出させていただいた後、色々調べてみたのですが、Category:仏教の聖遺物の一般的な定義を見出せません。Category:仏教の聖遺物については、やはりWikipedia:カテゴリの方針の「中立的な視点での分類が難しく、個々の記事の分類に異論の出る余地が大きいもの」として、Category:仏舎利への改名を提案します。--Focaccia会話2019年7月19日 (金) 23:07 (UTC)[返信]

1)Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないについて。このガイドラインの要旨は、「自分の意見が正しいと思っても、その意見を通すために何か別の問題を起こしてはいけません。自分の意見を率直に述べて議論するなど誠実に行動してください。」ですよね。私は今回の改名提案に関して、自分の意見を押し通すために、このカテゴリの編集とは別のところで破壊的な編集をしたりはしていません。私の編集の中に破壊的なものがあったとしたら、具体的にご指摘ください。私としては、実力行使の一方的な編集ではなく、きちんと改名提案を行い、常に誠実な議論を心がけてきたつもりです。それとも、私の議論の進め方が誠実でないとお感じなのでしょうか? カテゴリの運用に関して、Wikipedia:カテゴリの方針に照らして考えることは、誠実な議論であると私は考えています。このガイドラインの意味する「誠実でない行動」とは、カテゴリの方針が間違っていると主張し、方針を無効化するために、無関係なところで破壊的な編集をすることのはずです。TakabegさんはWikipedia:腕ずくで解決しようとしないについて、私とは異なった見解をお持ちなのでしょうか? どのようなお考えなのか、私には推測しかねるので、ご説明いただけると助かります。
2) 私は再三述べているように、「仏教の聖遺物」というカテゴリは、「中立的な視点での分類が難しい」「個々の記事の分類に異論の出る余地が大きい」「価値判断の入るもの」であると考えます。その理由が伝わりづらかったようですので、説明します。小牧幸代「インド・イスラーム世界の聖遺物信仰 ―「遺されたもの」信仰の人類学的研究に向けて―」(「人文學報」第87号、2002年12月、京都大学人文科学研究所、機関リポジトリ)p.106に「彼(引用者注:Arnold,T.W)が言及するように、インド世界ではイスラーム以外の諸宗教においても足跡信仰が盛んである。たとえば山頂に大きな足跡の刻まれた岩を頂くスリランカのアダムズ・ピークは、ムスリム、仏教徒、ヒンドゥー、キリスト教徒の聖地として有名である。また、仏足石、ヴィシュヌ神の足跡、シヴァ神の乗物である牡牛ナンディンの足跡、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラの足跡なども各宗教の信奉者から崇敬されている。しかし、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教において信仰対象となっている足跡が彫刻のほどこされたものであるのに対して、預言者ムハンマドの足跡は多くの場合、石板に残った単なる窪みである。」とあるように、ムハンマドの足跡は「石板に残った単なる窪み」であるが、仏足石は「彫刻のほどこされたもの」であると区別しています。仏足石は釈迦の足跡の彫刻であり、足跡そのものではないので、聖遺物ではないともいえます。つまり、仏足石を聖遺物に分類するかどうかで、私とTakabegさんで異論が出ているのです。このカテゴリが「個々の記事の分類に異論の出る余地が大きい」可能性を私は指摘します。なぜ異論がでるかといえば、このカテゴリ分類には「価値判断が入っている」からです。今、私は「仏足石」が聖遺物かどうかを考えるために、ムハンマドの足跡と比較しました。比較とは価値判断です。何かと比較しないと分類が決められないようなカテゴリは、「中立的な視点での分類が難しい」のです。
3) カテゴリの有用性について。カテゴリの方針は「有用性が少ないと思われるもの」は不適切としています。私は仏足石が仏教の聖遺物に含まれるかどうか調べるために、キリスト教の聖遺物やイスラム教の聖遺物について調べる羽目になりました。仏教関係の記事を書く人が、その記事を「Category:仏教の聖遺物」に含めるかどうか決めるためだけに、そこまで調べないとカテゴリ付与できないのではあまりに煩雑で有用性を欠くと思います。そこで考えたのですが、Category:舎利信仰に改名するのはいかがでしょうか? 「舎利信仰」なら、前3世紀〜前2世紀の仏教僧10人の遺骨を納めるサーンチー第二塔、舎利弗と目犍連の遺骨を納めるサーンチー第三塔など、羅漢舎利信仰に関する事物の記事が将来的に単独立項されたとしても(現在のサーンチーの記事に第二塔や第三塔についてほとんど言及がないのは残念ですが)、「Category:仏舎利」に含めることができない問題をクリアできます。この世に確固としてあるようでないような、「仏教の聖遺物」とは何かに頭を悩ませずに済みます。仏足石が聖遺物かどうか議論せずに済みます(Category:舎利信仰ならば除かれるからです)。ついでに、即身仏も聖遺物かどうか異論が出るものだと思います。即身仏を遺体とは見ない(仏そのものである)とする意見もあるでしょう(Category:舎利信仰ならば除かれます)。
4) Wikipedia:過剰なカテゴリについて(項目数が少なく、成長の余地もないもの)。Takabegさんにご紹介いただいた大原眞弓論文が参照しているブライアン・小野坂・ルパート「舎利信仰と贈与・集積・情報の日本中世史」(『中世仏教の展開とその基盤』大蔵出版、2002、p.132)には、「東アジアにおける日本の舎利信仰の位置付け」の節において、「仏教における聖人遺骨信仰も、キリスト教のそれと極めて似ていた。イエスの周辺にいた聖人と同じように、羅漢は釈迦の弟子であり、死んだ後には遺骨崇拝の対象になった。しかし、仏教の遺骨崇拝を考えると、教祖である釈迦の荼毘に付された遺骨、すなわち仏舎利に対する信仰は舎利信仰の中心であり、羅漢舎利信仰より大変盛んであった。そして仏舎利やそれらを安置した舎利塔は、仏教史の中で独特な信仰の対象になったのである」とあります。この論文は日本の中世仏教に関するものなので、結局、羅漢舎利信仰は仏教東漸において仏舎利信仰ほど伝播しなかったんだろうということだろうと思います。この先、羅漢舎利についての何かしらの記事が日本語版Wikipediaで単独立項されることがあるのかどうか疑問に思わなくもないところです。記事がないのにカテゴリを作るのはWikipedia:過剰なカテゴリだとする考え方もあります。将来的な立項を見越してカテゴリの範囲を広く取っておくのは、私としては「過剰なカテゴリ」には当たらないとは思いますが。私としては、Category:仏舎利でも現状の記事状況を見る限り十分だと思いますし、羅漢舎利に関する記事ができて、それを仏舎利と同じカテゴリに入れる必要があるとなった時にまた考えればいいんじゃないかと思っていましたが、羅漢舎利の記事ができることを見越すTakabegさんのお考えを積極的に否定するつもりもないので、「Category:舎利信仰」への改名を改めて提案します。また、Takabegさんは釈迦や羅漢の遺品についての記事ができる可能性を考慮していらっしゃいますが、それは流石に立項されてから考えればいいんじゃないでしょうか? これといった立項の可能性のある事物を私が思いつかないだけですけれども。何かあったら教えてください。
0) 蛇足ですが、Takabegさんの挙げてくださった「仏教の聖遺物」の用例のうち、『新アジア仏教史02 インドII 仏教の形成と展開』(佼成出版社、2010)は、マイケル・ウィリス(大英博物館アジア部学芸員)のコラム「古代インドの仏教聖遺物容器-用語の問題を中心に-」の部分で、英文の原稿を島田明(ニューヨーク州立大学ニューパルツ校助教授)が翻訳したものでした。サンスクリット語やパーリ語の用語に関するコラムなので、「reliquaries」を英文直訳で「聖遺物容器」と訳したんでしょう。しかし、同じものを指して「舎利容器」という語も全体で頻出していて、ウィリスの原文で用語が違ったのか、島田が意訳してるのか、よく分からないです。ただ、このコラム中では完全に「聖遺物容器」=「舎利容器」ですね。また、釈迦の髪と遺骨の容器の話しか出て来ず、遺品や羅漢舎利について言及はないです。--Focaccia会話) 2019年7月21日 (日) 14:10 (UTC)(誤字脱字修正)--Focaccia会話2019年7月21日 (日) 14:25 (UTC)[返信]
コメント Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないの解釈が違うということはないと思いますが、読んでいる場所が違うのかもしれません。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないのうちのWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないの「ときに悪意ある編集者や、自説を何とか通したい編集者は、自分の主張や観点が否定された後もぐだぐだと固執し、いつまでも言い続け、他者の言葉を受け入れたり自らの過ちを認めたりすることを拒否して、いつまでも論争を続けようとします。」からはじまる箇所を読んでみてください。なお、Focacciaさんのことを「悪意のある編集者」とは考えておりません。--Takabeg会話2019年7月22日 (月) 11:07 (UTC)[返信]
ご説明ありがとうございます。私も(Takabegさんが言いたいのは)そっちかもなぁと思ったりもしたのですが、私としては、今はまだ私の提案に対するTakabegさんやInvokingvajrasさんのご意見を聞いて、全員が納得できる着地点を模索している段階という認識におり、その項目には該当しないと考えます。私なりに色々着地点を提案しているが、しかし何もレスポンスがつかなかった状態を「いつまでも納得しない」と言われては、三者の折り合いの付けようがないかと思います。意見の対立状態として、合意形成のためのコメント依頼を出した方がいいのではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか? このまま私とTakabegさんで話し合っても、私が「いつまでも納得しない」の領域に足を踏み入れているのかどうか、水掛け論になることを私は危惧しています。--Focaccia会話) 2019年7月22日 (月) 20:18 (UTC)(下線部追記)—Focaccia会話2019年7月22日 (月) 23:29 (UTC)[返信]

コメント 「親カテゴリ」「上位カテゴリ」が「Category:仏教の聖遺物」で、「舎利」とか「仏舎利」というのは「子カテゴリ」「下位カテゴリ」になります。「親カテゴリ」を「子カテゴリ」に改名して結果的に「親カテゴリ」を無くしてしまうのは、そもそもカテゴリ構造に逆行しているばかりでなく、破壊的な試みなのではないかと感じています。また、「親カテゴリ」が無くなることで、あぶれてしまう記事が出てくるのも問題です。「子カテゴリ」であるCategory:仏舎利を新たに作成することに積極的に反対している利用者はいないわけですから、無理矢理改名しようとせずに、新規作成すれば済む話ではないのでしょうか? 「意見の対立状態」というよりむしろ、Focacciaさんだけが他の利用者の指摘に納得できていないだけなんじゃないかと思います。Wikipedia:コメント依頼/アナキズム研究会などを他山の石としていただければ幸いです。「合意形成のためのコメント依頼」を出すな、などとは言う立場にもないし権利もないですが、個人的には「出さないほうがいいんじゃないかなぁ」と感じています。--Takabeg会話2019年7月26日 (金) 12:11 (UTC)[返信]

「合意形成のためのコメント依頼を出さない方がいい」ということは、私とTakabegさんの2人で話し合いを進めても合意形成に至れるとお考えなのかもしれませんが、話し合いが改名議論からメタな領域にいっていて、私はもう2人では無理だと思います。勝手ながら、合意形成のためのコメント依頼を出させていただこうと思います。--Focaccia会話2019年7月26日 (金) 21:14 (UTC)[返信]

聖遺物に関する改名・統合提案(区切り1)

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  • コメント コメント依頼から来ましたが、まだ議論の全部は読めていません。なので、『一般人の感想のサンプル』として述べさせていただきますが、『舎利』という言葉になじみはなく、『仏舎利』や『舎利信仰』への改名には賛成できません。舎利を見ると、骨だけのようですし、骨以外の聖遺物(仏足石など)を含めるには不適切なのではないかと思います。--お好みでタピオカをおかけください会話2019年7月26日 (金) 22:26 (UTC)[返信]
  • 一応流し読みしましたが、理解が追い付きません。というか、普通に読もうとしたのですけども、仏教について疎い為、理解しきれません。そういうレベルなので、あくまでもコメントですし、賛成できない=反対という訳でもない(強いていうなら、中立)のですが。仮に改名したとして、『仏教の聖遺物の方が分かりやすいし、聖遺物は仏教だけの用語でも無いのだから、そちらの方が良い』という事で、再度改名提案される可能性が低くないのではないかと思います。その結果、どうなるかは別として。
これ位の理解度ですので、これ以上この議論に参加するつもりは現時点では有りません。合意形成に貢献できるとは思えませんので。ただ、素人の認識の参考になればなと思います。それでは、失礼いたしました。--お好みでタピオカをおかけください会話2019年7月26日 (金) 22:40 (UTC)[返信]
  • コメント 結局のところ、ポイントを絞れば
  1. 「仏舎利」以外の「仏教の聖遺物」はほとんど存在しないから、「仏教の聖遺物」と「仏舎利」は実質的には同一のものを指す言葉であり、より一般的な用語である「仏舎利」に改名すべき
  2. 「仏舎利」と「仏教の聖遺物」とは異なった概念なのだから、改名は適切でない
という意見の対立のようです。
これまでの議論を見る限り、サブカテゴリーとして「仏舎利」を立てることには反対が無いようですから、取り敢えずサブカテゴリーを立てて様子を見てはいかがでしょう?それぞれのカテゴリーが別のものとしてそれぞれ充実・成長していくなら、それで良し。もしそうならない場合には、1年か2年後に「随分時間を掛けて様子を見たけど、やっぱり実質的には同じ意味だから、別のカテゴリーとして成長していく見込みはなさそう」という議論にして、親カテゴリーの削除を提案する。その方が今よりずっと合意形成が容易だろうと思います。--Dwy会話2019年7月27日 (土) 02:54 (UTC)[返信]
論点整理ありがとうございます。「聖遺物」という言葉はキリスト教中心主義で「中立性」に問題があるのではないかと私は先に指摘しており(差分)、その辺りも論点に加えていただければと思います。その辺りについてはノート:アーサールでも私の方から指摘しているところです。
Dwyさんがまとめてくださった2つの論点についてですが、私は元々「訳語不適」としてこの改名提案を出しました差分。Google Scholorで「buddhist relics」を検索してみたのですが、例えばJohn S. Strong『Relics of the Buddha』(Princeton University Press、2004、GoogleBooks)の目次を見ても、これはほぼ「舎利信仰」についての本といっていいと思います。難しいのがp.15の「"secondary" relics such as his footprint, his bowl, his robe, and his bodhi tree.」のあたりだと思います。私は最初、この辺りは通常舎利に含めないかと思っていたのですが、Takabegさんが挙げてくださった大原眞弓「即位儀礼に見える仏舎利信仰: 一代一度仏舎利使について」(京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編」第15号、2016、機関リポジトリ)p.51に「本来、「舎利」は釈迦の遺骨であるが、その弟子や菩薩、羅漢の中でも自力で悟った縁覚(音写で辟支仏・独覚)の 遺骨・遺品も含むようになり」とあり、釈迦の遺骨だけでなく、釈迦の遺品、仏弟子などの遺骨と遺品も舎利に含むと捉えていいようです。なので、「Buddhist relics = 舎利」といっていいと私は思います。
釈迦の「footprint」についてですが、これには2種類あります。アダムスピークの足跡のような地面のくぼみであるものと、サーンチー第1塔東門第2横梁にある「出家踰城」の物語を表現している浮彫彫刻で、釈迦を人物像ではなく「仏足跡」で表しているようなものです。サーンチーで用いられているこのような表現は「仏陀の象徴的表現」「仏陀不表現」などと言われますが、釈迦の超越性を表すためにこのような表現方法をとっているのだろうと考えるのがほぼ定説だと思います(cf.ヴィディヤ・デヘージア『岩波世界の美術 インド美術』岩波書店、2002、pp.51-55。宮治昭『仏像学入門 ほとけたちのルーツを探る 増補版』春秋社、2013、pp.7-13およびpp.331-336)。サーンチーの場合は、実在の釈迦が歩いた「痕跡」であるとは捉えがたいものです。アダムスピークの場合は、釈迦の足跡であると考えている人たちが、それを実在の釈迦が歩いた「痕跡」であると考えているのか、ちょっと調べてみた限りでは分かりませんでした。丹羽基二『図説 世界の仏足石 仏足石から見た仏教』(名著出版、1992)のpp.147-150に著者がアダムスピークを訪れた体験記があるのですが、「実在の痕跡か象徴的表現か」という問題意識がこの本全体に「ない」ため、何ともいえません。「仏足石」は「仏の足形を刻んだ石」と丹羽前掲書p.97に定義されていますが、これも「実在の痕跡」と考えられているらしいものもあるし、「象徴的表現」のものもあるし、大半はどちらともつかないものです。私は「実在の痕跡」なら「聖遺物」だろうという憶測でここまで書きましたが、このような考え方は私の独自研究と指摘され得るような視点です(そういう言及を既存の文献上で発見できませんでした)。以上の事情から、「仏足石」に関しては、独自研究を回避して「仏教の聖遺物」というカテゴリを付与するのは運用困難だと思います。--Focaccia会話) 2019年7月27日 (土) 05:49 (UTC)(下線部追記)--Focaccia会話2019年7月27日 (土) 09:52 (UTC)[返信]
「仏足跡」と「仏足石」の違いですが、サーンチーの浮彫のような象徴的表現としての足形は普通「仏足跡」と呼び、私の認識ではこれが一般的な用語法だと思います。足形の石彫のことを「仏足石」と呼び、足形を絵に描いたものなら「仏足図」と呼びます。丹羽基二は前掲書で「仏足石」は「仏の足形を刻んだ石」と定義し、特に石でない場合と足跡であることを強調する場合に「仏足跡」の語を使うと前置きした上で、アダムスピークの足跡を「仏足跡」と呼んでいます。Takabegさんが「仏足跡」は「聖遺物」だと言われるのは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の記述に拠っているのだろうと思いますが、ブリタニカがどういう意味で「仏足跡」の語を使っているのか、私にはよく分かりません。また、「仏足石」は足跡部分が凹んでいるものもありますが、足跡部分が盛り上がっているものもありますし、スリランカの仏足石は壊れたら作り直して、古いものは廃棄するとの記載があります(丹羽前掲書、p,137およびp.149)。それがキリスト教的な「聖遺物」の範疇に収まるのか、私は疑問に感じます。--Focaccia会話2019年7月27日 (土) 09:52 (UTC)[返信]