Portal:バスク/人物伝/一覧
イニャキ・アスクナ(1943年 – 2014年)は、ビスカヤ県ドゥランゴ出身の政治家。バスク民族主義党 (PNV) に属していた。医師やバスク州政府保健大臣などを経て、1999年にビルバオ市長に就任すると、3度再選されて死去する2014年まで市長を務めた。就任前にはビルバオ・グッゲンハイム美術館が開館しており、就任後には2002年のメトロ・ビルバオの新路線開業、同年のビルバオ・トラム開業、2014年のエスタディオ・サン・マメス建て替えなど大型公共事業による都市活性化を進めた。工業都市から観光都市へと大きく変貌したビルバオは「奇跡の街」と呼ばれ、2012年には世界市長賞を受賞した。在任中の2014年に死去し、葬儀にはアストゥリアス公フェリペ夫妻などが参列した。……
ホセ・アントニオ・アギーレ(1904年 - 1960年)は、バスク民族主義党の政治家。デウスト大学卒業後に弁護士となり、27歳でゲチョの首長となった。1936年にバスク自治政府初代レンダカリ(政府首班)となってゲルニカの木の下で就任宣言を行うと、スペイン内戦ではバスク軍を結成して反乱軍と戦った。1940年代には亡命先のパリとニューヨークで亡命バスク政府を組織したが、1950年代にはアメリカ合衆国や国連がフランシスコ・フランコ政権を承認し、亡命バスク政府は影響力を失っていった。亡命後には故郷バスクの地を踏むことなく、1960年にパリで亡くなった。……
サビノ・アラナ(1865年 – 1903年)は、ビスカヤ県・アバンド出身の民族主義者、著作家。バスク民族主義党(PNV)の設立者であり、「バスク民族主義の父」(バスク・ナショナリズムの父)と呼ばれる。敬虔なカトリックのブルジョワ家庭に生まれ、バルセロナ大学在学中にカタルーニャ独立運動に共感し、ビスカヤに戻るとバスク地方の独立を主張した。1895年にはバスク民族主義党(PNV)を設立し、イクリニャ(バスクの旗)をデザインし、バスク地方を意味する「エウスカディ」などの新語を作った。アラナの思想がバスク民族主義運動に火を付けたと考えられており、死後にはバスク民族主義運動が花開いた。……
ベルナルド・アチャーガ(1951年 - )は、ギプスコア県・アステアス出身のバスク語作家。長編小説や短編小説に加え、児童や青少年向きの物語、ラジオ脚本、戯曲、作詞、エッセイなどの幅広い分野で活動している。バスク地方の自然や人間を描くことをライフワークとしている。1988年に出版した短編集『オババコアック』で一躍有名となり、スペイン国民小説賞などを受賞した。この短編集は20言語以上に翻訳されており、2004年には中央公論新社がカスティーリャ語版(アチャーガによるセルフトランスレーション)から訳した日本語版を出版している。1999年にはイギリスのオブザーバー紙によって「21世紀に活躍が期待される書き手」に選出された。……
ホルヘ・オテイサ(1908年– 2003年)は、ギプスコア県・オリオ出身の彫刻家。バスク地方ではエドゥアルド・チリーダと並ぶ彫刻家であり、チリーダとともにスペイン内戦後のスペイン彫刻の出発点をなすとされる。バスクの現代美術についての主要な理論家のひとりとしても知られている。1957年の第4回サンパウロ・ビエンナーレでは彫刻部門グランプリを受賞し、1988年にはアストゥリアス皇太子賞芸術部門を受賞した。スペインにおける彫刻の幾何学的傾向を推し進めたとされ、幾何学的な面を複数組み合わせて鉄素材の緊張感を引きだした。死去後の2003年にはアルスサに個人美術館のオテイサ美術館が開館した。……
チェ・ゲバラ(1928年 - 1967年)は、アルゼンチン・ロサリオ出身の革命家・政治家。キューバのゲリラ指導者。父親がバスク系である。裕福でリベラルな家庭に生まれ、ブエノスアイレス大学医学部卒業後、ラテンアメリカを放浪する過程で社会主義に共鳴した。1956年にフィデル・カストロとともにキューバの反独裁闘争に加わり、ゲリラ指導者として1959年のキューバ革命成立に導いた。その後はキューバの国立銀行総裁、工業大臣などを歴任。1967年の死後にはその生涯と思想が南アメリカの若者の間で英雄視され、今日でも第三世界では絶大な人気を誇る。……
フランシスコ・ザビエル(1506年頃 - 1552年)は、ナバラ王国ハビエル(現ナバラ州)出身のカトリック教会の司祭・宣教師。バスク人であり、イエズス会の創設者のひとり。1541年、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、1549年に日本の薩摩国に渡った。日本に初めてキリスト教を伝え、1550年には肥前国の平戸で、1551年には周防国の山口で宣教活動を行った。インド・日本では聖パウロを越えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたとされている。カトリック教会の聖人であり、記念日は12月3日。……
ミケル・ラボア(1934年 - 2008年)は、ギプスコア県パサイア出身のシンガーソングライター。バスク音楽でもっとも重要なシンガーソングライターのひとりであり、ほぼすべての曲をバスク語で歌った。1965年頃にカタルーニャ地方のノバ・カンソ運動に共感し、1967年頃に『エス・ドク・アマイル』という音楽グループで「新バスク音楽」の担い手としての地位を確立。『鳥よ、鳥』などの曲がバスク地方で広く愛されている。2006年、ジャサルディアの一部として開催されたボブ・ディランのコンサートでオープニングを務めた。……
ミゲル・デ・ウナムーノ(1864年 - 1936年)は、ビスカヤ県ビルバオ出身の哲学者・文学者・詩人。「98年の世代」の一員であり、その実存主義的な思想はスペイン思想界に大きな影響を残した。「南欧のキェルケゴール」とも呼ばれる。マドリード大学で博士号を取得し、1891年にはサラマンカ大学ギリシア語教授に、1900年にはサラマンカ大学総長に就任した。プリモ・デ・リベラ独裁政権時代にはカナリア諸島への島送りやフランスへの亡命も経験した。……
Portal:バスク/人物伝/フアン・セバスティアン・エルカーノ
フアン・セバスティアン・エルカーノ(1476年 - 1526年)は、ギプスコア地方ゲタリア出身の探検家。バスク人であり、スペイン王国に仕えた。1519年、航海士としてフェルディナンド・マゼランの遠征に加わり、コンセプシオン号の船長を任された。1521年にフィリピンでマゼランが死去すると、エルカーノは5隻の船団のうち唯一残ったビクトリア号の船長となって残りの航海を指揮し、1522年に世界一周を果たしてスペインに帰国した。265人中18人が帰国を果たし、彼らは確実な記録の残る初の世界周航者となった。……
シモン・ボリバル(1783年 - 1830年)は、スペイン帝国のベネズエラ総督領・カラカス出身の軍人・革命家・政治家。ボリバル家は16世紀にビスカヤ地方からベネズエラに渡ったバスク人の家系である。1810年代から1820年代初頭に南米大陸のアンデス5か国をスペインからの独立に導き、ベネズエラ第二共和国大統領、ベネズエラ第三共和国大統領、大コロンビア初代大統領、ボリビア初代大統領、ペルー第8代大統領などを歴任した。ラテンアメリカでは「解放者」(リベルタドール)とも呼ばれる。「ボリバル」という姓はボリビアの国名の由来となり、ベネズエラの通貨単位として使用されている。……
ベルナト・エチェパレ(15世紀後半–16世紀)は、ナバーラ王国領サン=ジャン=ピエ=ド=ポル近郊出身の司祭・詩人。1545年、バスク語で書かれた書籍(『バスク初文集』)を初めて出版した人物であり、バスク語の幅広い認知を目指した。詩の中に散見される低俗的な愛の表現などが理由で、エチェパレの名は長らく低く評価されていたが、20世紀後半にバスク社会で再評価が進んだ。エチェパレに捧げられた曲などが登場し、『バスク初文集』は英語や日本語を含めて10言語以上に翻訳されている。エチェパレの名はバスク地方の通り、学校、団体などに冠されており、2007年にはバスク語とバスク文化の対外普及を目的とするエチェパレ・インスティテュートが発足した。
ソーヴール・カンドウ(1897年 - 1955年)は、バス=ナヴァール・サン=ジャン=ピエ=ド=ポル出身のカトリック司祭。バスク人。パリ外国宣教会所属。1925年に宣教師として日本に到着し、1926年には28歳で東京教区神学校の初代校長となった。日本人司祭の育成に励み、上智大学やアテネ・フランセなどでフランス文学などの講義を担当した。第二次世界大戦ではフランス軍の従軍司祭となったが、第二次大戦終結後には再び訪日し、講演、雑誌や雑誌への寄稿などで忙しい日々を過ごした。著作よりも談話や講演に重点を置き、その日本語能力は「日本人以上」と評された。1955年、カトリック府中墓地に埋葬された。
モーリス・ラヴェル(1875年 - 1937年)は、フランス・シブール出身の作曲家。バスク人。『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、バレエ音楽『ボレロ』の作曲や『展覧会の絵』のオーケストレーションでよく知られた。クロード・ドビュッシーと共に印象派(印象主義)に分類されることが多い。「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」と言われる卓越した管弦楽法と「スイスの時計職人」と評価される精緻な書法が特徴的。母方の血筋であるスペインへの関心は様々な楽曲に見出だされ、『ヴァイオリン・ソナタ』、『左手のためのピアノ協奏曲』、『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。……
ドロレス・イバルリ(1895年 - 1989年)は、ビスカヤ県ガラルタ出身の政治家。「ラ・パショナリア」(受難者)の別称を持つ。スペイン共産党の歴史的指導者であり、スペイン第二共和政とスペイン内戦における政治指導者として頭角を現した。1936年から1939年まで続いたマドリード包囲戦におけるスローガン、「奴らを通すな!」や、「跪いて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」を語ったことで知られている。スペイン内戦終結後にはソビエト連邦に亡命し、1942年から1960年までスペイン共産党の書記長を務めた。フランコ死後の1977年にスペインに帰国し、初の民主選挙でスペイン国会下院議員となった。……
パブロ・ネルーダ(1904年 - 1973年)は、チリの詩人・外交官・政治家。バスク系チリ人。チリの国民的詩人として知られる。外交官として赴任したスペインでスペイン内戦を目の当たりにし、共産主義に接近して人民戦線とスペイン共和国を支援した。代表作にチリの自然の美しさをうたった「マチュピチュの高み」や「女のからだ」などがある。ガブリエル・ガルシア=マルケスは「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称えている。1970年に社会党のサルバドール・アジェンデ政権が誕生すると、アジェンデ政権では駐仏大使を務めた。1971年にノーベル文学賞を受賞した。……
ホセ・ムヒカ(1935年 - )は、ウルグアイ・モンテビデオ出身の政治家。バスク系ウルグアイ人であり、祖先は1840年にビスカヤ県ムヒカからウルグアイに渡った。当初は極左ゲリラ組織で活動していたが、1995年に下院議員に初当選し、2005年に拡大戦線のタバレ・バスケス大統領の下で初入閣した。2010年に第40代ウルグアイ大統領に就任し、2015年まで大統領を務めた。政治思想的には中道左派であり、人工妊娠中絶や同性結婚の合法化、大麻の合法化などに取り組んだ。2012年の国連持続可能な開発会議(リオ+20)での演説は日本でも取り上げられ、「世界一貧しい大統領」として話題となった。……
ハビエル・アギーレ(1958年 - )は、メキシコ・メキシコシティ出身のサッカー選手・サッカー指導者。バスク系メキシコ人であり、父親・母親ともにスペイン・バスクからメキシコへの移民である。選手時代にはフォワードからディフェンダーまで様々なポジションをこなした。メキシコ代表としては通算59試合に出場して14得点し、1986 FIFAワールドカップに出場した。選手引退後は指導者となり、2002 FIFAワールドカップと2010 FIFAワールドカップでメキシコ代表を率いた。2014年には日本代表監督に就任したが、2011年のリーグ戦で八百長を行った疑いでスペイン検察当局に告発されたため、2015年に日本サッカー協会に解任された。……
エバ・ペロン(1919年 - 1952年)は、アルゼンチン出身の女優・政治家。バスク系アルゼンチン人であり、父親・母親ともにバスク系である。通称エビータ。フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入するようになった。当初はモデル・声優・女優などの仕事をしていたが、1943年に知り合ったペロンの愛人として民衆向け政治宣伝をになった。ファーストレディとなると積極的に国政に介入し、女性参政権を導入するなどした。労働者階級を主な支持層としたペロン政権の安定に貢献し、アルゼンチンでもっとも影響力のある人物となった。一方でペロン政権のバラマキ政策はアルゼンチンの経済に悪影響を与えた。33歳だった1952年に子宮癌が原因で死去した。……