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Portal:ロシア/特集項目/7

典型的なコサックのイメージを示すコサック・ママーイ

コサック[1]ウクライナ語: козакロシア語: казак、日本語では哥薩克とも表記)は、ウクライナロシアに存在した軍事的共同体、およびその共同体に属した人々を指す語である。周囲の封建国家や遊牧民に対する防衛のため、一種の軍事共同体を組織した[2]。特定の民族を示す語ではなく、チュルク系民族タタールスラブ人など様々な民族的出自の人々がその構成要素となった[3]

15世紀にはウクライナ中南部の「荒野」と呼ばれる草原地帯に住み着いていた。16世紀半ば以降、ドニエプル川の中流を中心とするザポロージャ地方やドン川の下流に根拠地を築き、それぞれザポロージャ・コサック(ウクライナ・コサック)およびドン・コサックと呼ばれた。

オスマン帝国スルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサックイリヤ・レーピン、1880年)
コサックの遊び(ティモフィ・カリンシキーウクライナ語版、1786年)
出陣へ(ニコライ・ピモネンコ、1902年)

当初のコサックは周辺国家に依存しない独立した集団であったが、16世紀以降ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランド・リトアニア共和国、ドン・コサックはロシア・ツァーリ国に属し、軍務を提供する見返りに自治権を与えられた。コサックは自治権を守るためにしばしば保護国に対して叛乱を起こした。1648年のフメリニツキーの乱はウクライナにおけるザポロージャ・コサックの国家を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した一方、帝政ロシアの庇護を求める結果となった。18世紀、ザポロージャ・コサックはロシアからの離脱を図るもののこれに失敗し、18世紀末にロシア帝国によって廃止された。ドン・コサックによる反乱はいずれもロシアによって鎮圧され、結果ドン・コサックはロシアの体制に取り込まれた。

帝政ロシアはコサックを国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動の鎮圧などの任にあてた[4]19世紀以降、コサックはロシアにおいて貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除と引き換えに兵役義務が課され、植民政策における開拓、国境防備、治安維持などに従事した。ロシア内戦中の1919年から1920年にかけては弾圧の対象となり、多数のコサックが離散した。

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  1. ^ コザーク、カザーク、コザックとも。ウクライナ語: козак コザーク、複数形はкозаки コザクィーロシア語: казак カザーク、複数形はказаки カザキーポーランド語: kozak コザーク、複数形はkozacy コザーツィ。
  2. ^ コサックとは”. コトバンク. 2022年10月16日閲覧。
  3. ^ 何者?ゼレンスキーも語るウクライナの自由の民コサックとは”. NHK NEWS WEB (2022年9月21日). 2022年10月16日閲覧。
  4. ^ 遠藤良介 (2018年5月24日). “デモ参加者に襲いかかるコサック ロシアに漂う危険な兆候”. 産経新聞. 2018年5月25日閲覧。