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Wikipedia‐ノート:井戸端/subj/あらすじ紹介における文体について

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「主観的」「客観的」

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本筋ではないので、こちらで。

「主観的」とか「客観的」とかいう言葉を不用意に断定的に使うのは、あまり生産的ではない、むしろ生産的な議論を阻害するのではないでしょうか。

こういった議論で使われる「主観的」「客観的」というのは、おそらく、合意できそうかどうかや、合意することに価値があるのか、といった程度問題なのだと思います。そういった程度問題について、いきなり「主観的」とか「客観的」とかいう言葉で断定的に反論されてしまうと、ある程度の数の支持が集められることを期待しているはずの提案者にとっては、とりつくしまもないといったことになってしまいます。

おそらく、合意できそうかどうかや、合意することに価値があるのか、比較的明確な基準を作ることができるのか、副作用はないのか、といったことが問題なのですから、そういった問題提起だけしておいて、その問題を説得力をもって解決できるのかどうかは提案者の課題にしてしまえばよいのではないでしょうか。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年2月8日 (日) 02:36 (UTC)[返信]

主観については根拠を具体的に呈示することができません。具体的に根拠を示すというのは共感する以外の手段で理論が正しいことを論述できるということです。したがって、主観と客観とが区別できないというのは根拠を具体的に論述しうるかどうかで判別は可能です。つまり「自明」とか「当然」とか自己言及によって論述の正当性を根拠とする主張は主観に基づく主張の例になります。したがって生産的な議論を阻害する主観に基づく主張と、論述を検証することで根拠を共有し、共有した根拠を合意点とすることで生産的な議論に寄与する客観的な論述とは区別可能です。--あら金 2009年2月8日 (日) 02:48 (UTC)[返信]
仮にその区別が成り立つとして、その区別に従うならば、誰かが何かを気に入ったり、気に入らなかったりというのは客観的な事象ないしは主張なのではないでしょうか? 他人の心理状態を他者は「直接」知ることはできないかもしれませんが、十分なデータがあれば検証が可能であり、それによって根拠付けることができるでしょう。そして、かなりの数の利用者がある表現を気に入らないということが客観的に示されたならば、その表現を抑制する根拠となるのではないでしょうか。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2009年2月8日 (日) 03:13 (UTC)[返信]
「気に入らないと表明している人が存在している」いう事実は単なるシンボル(記号)に過ぎません。「×」というシンボルを見て、「禁止」という意味と関連付けた認識が成立するのは、前提として「×というシンボルは禁止を意味する」というロジックの共有が根底に必要です(客観的な根拠とは共有する認識を「これとこれの関連からこうである」と言語として言い表すということで、存在の有無の表現ではないです)。それとは別に感覚を共有されている場合もあります。たとえば「げろを見ると胸糞が悪くなる」などは共感です(「げろ」と「胸糞」の関連からこうであると論述できないです。まさにそうであるとしか共感を求める以外に方法はないです)。感想の表明であれば主観に基づくものであれ、客観に基づくものであれ主張する権利はあると考えます。しかし、共感が他人に同一の認識として伝達されるという保証はないです(とくに感覚から離れた抽象的な概念では「先入観」という言葉が示すように認識の共有が困難になります)。合意というのは相互に主張を保証しあうプロセスなので、認識の保障という点で完全性を欠く主観的な主張を議論に持ち出されても確実性がないので根拠というには不適当と考えます。--あら金 2009年2月8日 (日) 10:10 (UTC)[返信]