Wikipedia‐ノート:削除依頼/かさねとは八重撫子の名なるべし

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記事再作成の是非について[編集]

本削除依頼と主題を同じくする『かすみとは八重撫子の名成べし』という記事を立頁すべく、草稿を準備しております。審議中に加筆できれば良かったのでしょうが、遅筆にて間に合いませんでした。門外漢ゆえ大した記事も書けませんでしたが、これ以上遅くなるのもどうかと思い現状でご照覧いただきます。

審議においてはケースEに基づく削除票が大勢を占めております。私自身も存続票を投じてはいるものの、加筆は望めず一旦削除でも異存は無いとさせていただきました。本議論におけるケースEの主題は『百科事典的な記事に成長する見込みのないもの』であったと考えますが、管理者の山田晴通さまは『百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事』にあたるとしておられるようです。

依頼クローズの際に山田晴通さまより、

「現状で俳句の作品で独立記事になっている例には、(中略)例はごく少数に留まっており、また記事化されている句は、「俳句の代名詞」と評される句や、大きな論争を呼んだ句だけです。再立項を考えられる場合には、特にこの句を記事化するというだけの特筆性の論証が重要になると考えます。」

とのご意見をいただいております。管理者としてのご発言ですので、私見ではなく一定の強制力を持つものと理解しております。しかし私としては、現在Wikipediaにおいて記事が少ない分野について、立頁を制限するようなルールや合意事項は寡聞にして存じ上げません。この分野の記事が少数に留まっているのは単にまだ書かれていないだけであり、ごく当たり前に第三者言及などの資料を示せば立頁に問題ないと考えております。

本記事主題を『特筆性がない記事』とされてしまいますと、何せ300年以上前の事象でもあり、改善のし様がありません。立頁に先立ちまして、本主題による再作成の是非を問うべく、この場を設けさせていただきました。ご意見宜しくお願いいたします。--LudwigSK会話/記録2012年5月29日 (火) 00:02 (UTC)[返信]

会話ページにご連絡をいただき、ありがとうございました。
前記事の削除の段階で「Wikipedia:削除依頼/かさねとは八重撫子の名なるべし」に申し上げたように、前期時の削除理由はケースEであり、特に絞るならば「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性がない記事」という判断であり、実際の削除の操作ではHelp:管理者マニュアル ページの削除にあるようにプルダウンメニューから「単独項目化するほどの必要性がない項目」を選択しました。(なお、現状において、Wikipedia:削除の方針に列挙されている内容とHelp:管理者マニュアル ページの削除のプルダウンメニューに若干の文言の不統一があることは事実ですし、山田もこれについて微妙な問題が生じる可能性があると認識しております。)
記事の主題に特筆性があるかどうかは、判断する時点での記事内容によって左右されます。不十分な記事内容で多くの方々が「特筆性がない」と判断した主題について、加筆によってその判断が変わることもありますし、いったん削除された記事が、改めてより充実した内容で立項されて存続することもあります。いったん主題としての特筆性が否定されたからといって、その後の記事作成ができなくなるわけではありません。できないのはWikipedia:即時削除の方針の全般5に示された、(プルダウンメニューの表現で言えば)「削除されたページの改善なき再作成」です。
なお、「管理者としてのご発言ですので、私見ではなく一定の強制力を持つものと理解しております。」というご理解についてですが、管理者権限をお預かりしている立場として、特に管理者としての発言は十分慎重にしております。上記のコメントも、ごく少数の句例しか現時点で記事として存在しないこと、また、実際に前記事に削除依頼が提起されたことを踏まえて「特にこの句を記事化するというだけの特筆性の論証が重要になると考えます」と申し上げております。特筆性の論証が重要になる、というのは、どんな記事に関しても同様です。しかし、類似の記事例が多い場合は先行例準拠でとりあえず立項してもそのまま容認されやすいですが、句作のように先行例が少ない場合は特にこの点をしっかり示さなければならないという認識で特に申し上げました。もちろん、特に俳句の作例について立頁を制限するような「ルールや合意事項」は存在していません。存在していれば、このようにコメントする必要はそもそもありません。しかし、一般的に記事の立項にはWikipedia:記事を執筆するにも説明されているように「ルールや合意事項」が存在しています。
以上で申し上げましたように、「本主題による再作成」は「削除されたページの改善なき再作成」に当たらない形で、Wikipedia:記事を執筆するにも説明されている「ルールや合意事項」に沿ってなされる限り大いに歓迎されると思います。その上で、実際に作成された記事の内容を踏まえて、記事主題に特筆性が認められるか否かはその段階でコミュニティが判断することであると考えます。
なお、念のためですが、もし、(山田に限らず)管理者がコミュニティの総意と見なせる範囲から逸脱して発言をしているとご疑念をお持ちのケースがあれば、Wikipedia:コメント依頼#利用者の行為についてのコメントの活用などもご検討ください。引き続きよろしくお願いいたします。--山田晴通会話2012年5月29日 (火) 01:20 (UTC)[返信]
コメント LudwigSKさま、草稿を拝見いたしました。まず、本記事が削除されたのは、「発展性なし」「特筆性なし」が主な理由でしたが、少なくともこれくらい出典豊富にまとまった記事であれば、もはやそう言われることはないと思います。少なくとも、ケースEで再度削除依頼に出されることはないでしょうし、依頼に出されても削除反対票が多勢になると思います。この程度の記事であれば、「『削除されたページの改善なき再作成』に当たらない」と思われますので、再立項には何の問題もないと考えます。
ただし、草稿を拝見する限り、「このくだりは独自研究じゃないか」などと言われそうな突っ込みどころがまだまだ多いと感じました。一度ケースEにより削除された記事ですから、その辺は慎重にチェックして、少なくともそのような突っ込まれ所は完全になくしてからアップされるのがよいと思います。--Loasa会話2012年5月29日 (火) 02:54 (UTC)[返信]
コメント 『おくのほそ道』に登場する句ですから、国文学の観点から研究され続けているという事実はあります。しかしですね、現状の草稿を拝見して思うには、この句が記事として立項されるなら、芭蕉関連の句すべてを記事として立項して良いということにならないか、という危惧です。それはちょっと百科事典の在り方としてはおかしいような気もするのです。この句の特筆性を証する資料とされるべきなのは、『おくのほそ道』研究というものである以前に、この句自体の芸術性が他の句と比較して突出したものである、とする論考なのではないでしょうか?--アイザール会話2012年5月29日 (火) 03:07 (UTC)[返信]


終了ご意見をお寄せいただき、ありがとうございました。コメントを読ませていただき、私が大きな心得違いをしておりましたことを認識しました。まず第一に、削除依頼についてはあくまでその時点で存在する記事について審議されるものであり、記事主題そのものについてではないことに思い至っておりませんでした。これを勘違いしておりました故に、山田晴通さまからは特筆性をきちんと示すことで再作成できることをご案内していただいていたにも拘らず、真逆に捉えてしまっておりました。誠に申し訳ありません。
さて、私の用意しておりました草稿についてはLoasaさまより充分存続できるであろうとご評価をいただき、ありがとうございました。しかしながらアイザールさまよりは、第三者言及があることは長年にわたって研究されてきた分野であるから当たり前であって、中でも特筆性を担保する有意な言及と言うべきは、この句が傑出した芸術性を有すると示すものでなければならないとの厳しいご意見を戴いております。
この句は数ある中から『蕉門名家句選』などにも収録されており、芸術性はともかく曾良の代表作の一つではあろうと、特筆性についてはそこまで厳密に考えてはおりませんでした。正直なところ芭蕉関連の句が全て立頁されても、現在のWikipediaの規模であれば百科辞典としておかしいとも思いません。しかし私ではまだ感得しえない、雰囲気のようなものがあるのだろうと思います。実際のところ、執筆に当たっては独自研究に陥らないようにしつつ丸写しを避けるようにするのに苦慮しておりました。Loasaさまからも、独自研究にみえる部分があるとご指摘をいただいております。これに加えて芸術性にまで言及するとなると、記事自体の構成も大きく変わることになるでしょうし、出展からも主観的な記述を取り入れざるを得ません。独自研究に陥る虞はより大きくなり、詳しく学んだわけでは無い私の手には余るものと思います。
記事主題そのものが特筆性無しとされたわけではなく、私の心得違いであった訳ですから、あるいはより専門的な知見を持つ方が立頁されることもあるかもしれません。私の用意しておりました草稿は破棄して立頁は諦め、その時を楽しみに待ちたいと存じます。--LudwigSK会話/記録2012年5月30日 (水) 00:23 (UTC)[返信]
確かに厳しい論評をしましたが、そう足下にあきらめなくてもいいかとは思いますよ。論争があるのでしたら、それを丹念に掘り起こせば「論争の議題となる=特筆性がある」ことは証する事も出来るかと思います。私が申し上げたのはあくまでも、「現状の草稿」に関してですから、まだ改善の余地はあるかと思います。--アイザール会話2012年5月30日 (水) 06:59 (UTC)[返信]
また、別方向の解決策ですが、草稿の記述をもう少々簡略化して、河合曾良に加筆するというのは、かなり現実味があるやり方だと思います。せっかくのLudwigSKさんの努力のたまものですので、いささかなりとも活かす方向でご検討下されば、と思います。--アイザール会話2012年5月30日 (水) 07:08 (UTC)[返信]
削除依頼を提出した者ですが、今回削除依頼を出したのは、「奥の細道」に収められた句あるいは河合曽良が読んだ句はたくさんあるにも関わらず、どうしてこの記事がウィキペディアに取り上げられるのかというのが全く見えてこなかったからです(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません)。この句が「奥の細道」や河合曽良にとってどういう意味があったのかとか、後世の俳句にどのような影響を与えたのかとか、後世の研究家がどういう評価・論争を行ったとか∔αの要素が書き加えられたものであったのならば、私がこの句の特筆性を知らないだけだと判断して削除依頼を見送っていたと思います。LudwigSK様が新しい草稿をお書きになられているのであれば、一回あげてみたらいかがでしょうか? ウィキペディアの記事に完成はないと思いますので、問題があればその時はみんなで修正していけばいいと思いますよ。--水野白楓会話2012年5月30日 (水) 12:24 (UTC)[返信]