Wikipedia‐ノート:削除依頼/栗田エリナ
「こんだけ探して見つからないんだから文句なかろう」くらいの調査をしてからの依頼でも遅くない」というのが、特筆性の当該箇所よりも強く響くのは確かでしょうから、その点について修正することはできるでしょう。この依頼のなかでの意見の流れから、強めに言ったほうがいいという思いもありました。 しかし、基本的には特筆性の文書が示しているものであって、それは、ぼくの意見というよりは英語版のコミュニティが形成した意見です。 確かに、この基準は既存の百科事典的な感覚からは、かなり広いものとなりますが、近所のクリーニング屋や、軽音サークルのヴォーカリストなどについて削除の提起は可能ですし、プライバシーが問題となりうる記事が削除でき、どこからも相手にされていないような企業・商品を排除できるという点では十分な意義があります。 そうした、積極的に削除できたほうがよいものを超えて、どの程度のところを「特筆性」「著名性」の基準とするかは、合意によって修正されてもよいと思います。 ただ、最近の削除依頼の様子を見ると、削除しようとしている対象についての知識があって、削除に出しているというものよりも、知らないから、サブカルだから、というようなところで削除に出しているというように見えるものも少なくありません。普段から声優記事を書いている人が、この人はまだ早い、と判断するのならともかく。たとえば鳥取春陽も菅原明朗も松本伊代も第三者的な情報源は示されていませんが、これらは削除されてしかるべきだと考えるでしょうか。いくらか時間があれば、山田さんなら出典を付けることができるかと存じます。声優やアニメやV系のバンドやAV女優の項目も、これと同じようなことは言えないでしょうか。もちろん、瀬戸口藤吉は作成するが菅原はいらないとか、聖子は作るけど伊代はいらないとかいう基準をつくろうという意見ならば、それでもいいですけれど、今のウィキペディアの現状からは、一定の手間をかければ情報源が見つかるものも多いと思います。とりたてて方針やガイドラインがなくとも、削除しようと思うならまずは「調査」というのは、妥当な基準だと思いますよ。--Ks aka 98(会話) 2012年10月27日 (土) 12:44 (UTC)
- とりあえず、外部リンクも何もない「鳥取春陽」に出典の明記テンプレートを、外部リンクがある「菅原明朗」に参照方法のテンプレートを追加しました。
- 確かに、これらの事例なら山田が調査をして典拠を追記することは可能かもしれません。しかし、削除を求める側に「調査」を義務づけるというのは、とりあえず2つの点で疑問を感じます。
- 削除を求める側に「調査」を義務づけるということは、裏返せば不十分な調査に基づく削除依頼は無効ということです。削除依頼を「依頼者の調査不十分」を理由に無効にできる、のだとすれば、それはどのような手続きによって、誰の判断によって行なえるのでしょうか? 山田にはそのようなことは困難であるように思います。
- 自分が通じていない分野について、特筆性が示されていないと認識した場合に、その分野に通じた方と同水準の「調査」を行なうことは困難です。特筆性の不在を確認するために、素人ないし分野違いの人間がかなりの時間と労力をかけることよりも、記事の存続を求めるであろう専門家に特筆性の記述が欠けていることを、容易に注意喚起できるようにしておく方が、各人が通じている分野の執筆に注力できる分、コミュニティにとって有益ではないでしょうか?
- 以上の2点についてお考えを伺えれば幸いです。--山田晴通(会話) 2012年10月31日 (水) 03:01 (UTC)
- 1.手続きの規則化は難しいでしょうね。しかし、既に文書化されているように、手続きを求めるという指針を示し、それに応じて、それぞれが判断する、ということでよいと思っています。みんなが調査不十分だと思ったら、削除依頼の場所でそう書けばいいし、十分だと思ったら、削除票を投じるというかたちでいいのではないでしょうか。判断は、常にコミュニティが行います。というか、義務化というものではなく、心がけの問題です。検証可能性を常に守らなければブロックされるわけではないし、記事が削除されるわけでもありません。それと同じです。削除依頼の場で、必ず第三者的情報源の明示がなければ削除、というのはどうかと思う。
- 2.自分が通じていない分野について、特筆性が示されていないと認識した。自分が通じていない分野なのに、その判断が正当なものと、なぜ感じられるのでしょう? そして削除依頼までしようと思うことが、よくわかりません。
- 記事の存続を求めるであろう専門家に特筆性の記述が欠けていることを、容易に注意喚起できるようにしておく方が、各人が通じている分野の執筆に注力できる分、コミュニティにとって有益です。それは、同意します。しかし、分野に通じた人と同水準の調査を行えば特筆性を満たす資料が得られるのに、その記事が削除されてもいい、とは思いません。
- すべての分野の専門家がいるわけではないですし、そういう専門家が現れるまで削除できないというのも困るでしょうから、少なくとも、得られないだろう、という見込みの下に、削除されるということにするのがよいと思います。そのためには、通じていないなりの調査や、テンプレの使用、加筆依頼というステップが必要です。1週間の後の「削除」を掲げて、分野に通じた人に強制しなければならないことでもないと思います。
- 自分で労力をかけないとしても、加筆依頼やプロジェクトなどへの周知し、誰かが書いてくれれば、それで改善されます。作られたばかりの記事なら、執筆者に検証可能性や特筆性の文書を案内し、修正をお願いすれば、書き足してくれることもあるでしょう。執筆者がそういう情報を持ち合わせていないかもしれませんし、今のコミュニティでは加筆依頼などでの告知に反応する人たちが、たまたまいないかもしれません。やがて現れるかもしれませんから、そのままにしておけばいいのではないでしょうか。
- 労力をかけるのが嫌なら、削除依頼の提出もしなければよいのです。それなら誰も、今、急いで、労力をかけなくてもいい。削除依頼も出さず、自分の分野の執筆に注力するのが、コミュニティにとっての有益でしょう。あるいは、自分が通じている分野の整備として、特筆性に欠けると判断するものを削除依頼に出すならば、妥当な判断もできるでしょうし、コミュニティにとって有益な行動と言えるでしょう。
- ところで、鳥取春陽や菅原明朗にテンプレを貼り、注意を促す。しばらくしたら削除依頼を出すつもりでしょうか。
- ぼくらの間では、これらの記事がウィキペディアの規模を持つ百科事典に単独で収録される程度の重要さを持つことは共有していると思います。ぼくや山田さんにとって、これらの記事に特筆性を満たす出典を付けることは、それほど難しいことではないと思います。ぼくは、これらの記事は、今よりも貧弱であっても、このままであっても、削除せずに発展を待てばいいと思っています。
- しかし、研究者、愛好家は少なからずいらっしゃるとしても、これらの人物の重要さを把握している人は、それほど多くはないでしょう。そうした方々が、ウィキペディア日本語版で、今、アクティブだという可能性は、それほど高くないと思います。
- また、ウィキペディアに参加しているぼくらが記事に加筆するとしても、修正することに、それほどの緊急性はないと思います。出典をつけるにしても、自分の仕事や生活がありますから、即座に情報源を示すために動けるわけではないし、資料を探し、手配するのには多少の時間がかかる。公共図書館の協力貸出では、1か月程度かかることもあります。
- 別の重要な記事を書くこと、より深刻になりそうな問題を抱えた記事を修正すること、あるいは眼前の荒らしをブロックすることや、権利侵害のあった記事を削除することのほうが、基本的には優先されるでしょう。
- そうしているうちに、近代大衆音楽に知識を持たない利用者が、テンプレを貼った後も特筆性を満たす出典が示されていないからということで、削除依頼をし、誰も示すことができずに削除される。調査能力のある執筆者は、おうおうにして削除依頼を注視しているわけではありません。
- 声優に詳しくない人が、自ら調べることもなく、声優の記事を削除依頼にかけるというのは、そういうふうに削除していけばいいと考える、ということではないか。特筆性の文書は、それをよしとしていない。ぼくも、それはよくないと思っている。
- 現時点でいずれも記事はないですが、山田さんが「コロムビア・ジャズ・バンド」は存続できるだろうけど、「リーガル・ジャズ・バンド」は適切な資料が見つからないんじゃないかな、と、削除依頼を出す、とかいうことなら、理解できます。あるいは、記事としての体をなしていないとか、そういう理由で、合意に基づいて削除してもいいと思います。
- もちろんプライバシーおよびそれに類する問題を生じそうな項目なら、削除依頼をしたほうがいいでしょう。しかし、それ以外では、特筆性を理由とした削除は、その記事自体が深刻な問題をもたらすものではありませんから、急いで今削除する必要はない。当事者による情報やカタログなどを用いて正確性をいくらか担保できることもあるでしょう。
- まずは、各分野のプロジェクトなどで、有用な資料やデータベースをまとめたり、ある程度知識を持つ人たちの間で、おおよその基準となるであろうラインを設定してみる、という試みが先なんじゃないかなと、個人的には思っているのですけれども。--Ks aka 98(会話) 2012年11月1日 (木) 11:55 (UTC)
- ちょっと見通しが悪いかもしれませんので、箇条書きで論点ごとに書いて行きます。とりあえずは、
- 1 の論点については、山田がこうあるべきだと考えているのと同じ状態を別の見方からご覧になって、別の呼び方をして、いやいやこうじゃなくちゃと仰っているように思います。山田は、削除対象であることが疑われる記事への「調査」の負担を削除依頼者に大きく求めるのは誤りであると考えています。したがって、次に述べるように一定の合理性があれば削除依頼を出すこと自体が妨げられるべきではなく、審議の中でコミュニティがその当否を判断すればよいと考えています。Ks aka 98さんは、実際に本件審議でなさっているように、依頼自体が調査不足として存続票を投じられていますが、そのこと自体はもちろん正当です。「みんなが調査不十分だと思ったら、削除依頼の場所でそう書けばいいし、十分だと思ったら、削除票を投じるというかたちでいいのではないでしょうか。」というのはまさしく山田が考えていることにほかなりません。「一般論としては作ったものを削除するなら「こんだけ探して見つからないんだから文句なかろう」くらいの調査をしてからの依頼でも遅くない」という最初の表現では、依頼の提出自体を、いわば依頼不備として認めるべきではないというニュアンスが強く感じられますし、山田にはそれが「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側」と矛盾するように感じられます(この点は、既に述べたことの繰り返しです)。ある削除依頼が適切かどうかの判断の決着も削除依頼の審議自体の中でやってよろしいということであれば、これは現状と同じですから異論はありません。
- 2の論点について、山田の立場は明白です。ともに根本的な方針である「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」は、記述の典拠をなる資料の提示を求めています。<どんなに特筆性がある主題であっても、典拠がない状態が恒常化してよいということにはならないはずだ>、というのが山田の理解です。形式的にまったく典拠を欠いている記事をみたとき、その分野の素人であってもその記事の妥当性に疑問をもつのは当然ではないかと思います。その場合に、その分野の素人であるから適切な調査が難しい、ということを理由にテンプレートの貼付けがためらわれるとすれば、それは記事の改善に資することではありません。また、一定期間テンプレートがあっても改善がなされない場合に、削除依頼の提出がためらわれるとしても、同じことです。百科事典は基本的に、その分野に通じていない者が利用するものです。素人から見て記事に疑問を感じたときにそれを表明すべきでない、というのであれば、それは本末転倒であると思います。記事を作成できる者は、その分野に通じていない者が特筆性の欠如や独自研究を疑うことがないように典拠を示して記事を執筆すべきであると山田は考えます。「分野に通じた人と同水準の調査を行えば特筆性を満たす資料が得られるのに、その記事が削除されてもいい、とは思いません」ということですが、「分野に通じた人と同水準の調査」を非専門家に求めることは、事実上、専門家以外は削除依頼を出すなと言っている等しいように山田には思えますし、そうであるとすれば、方針である「Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割」にある「専門家だからといってウィキペディアで特権的な地位にあるわけではない」にまっこうから対立する考えであると思います。
- 2に関連して、山田の理解に間違いがなければ、Ks aka 98さんが仰りたいのは、「通じていないなりの調査や、テンプレの使用、加筆依頼というステップが必要です」という記述ではないかと思います。この精神自体に山田は反対しません。その意味では、山田自身がこれまでに提出した削除依頼の中にテンプレートの貼付なく提出した例が少なからずあることは、今後に向けて反省すべき点であると考えます。加筆依頼については、要出典テンプレートや特筆性テンプレートを用いることで、併用の必要はないというのが山田の理解です(万一、誤っていましたらご指摘ください)。
- 「鳥取春陽」、「菅原明朗」についてのお尋ねは、修辞疑問でしょうが、念のためお答えしておきますと、今後とも、特筆性を理由に自分から削除を求めることはありません。独自研究を理由としても、まずないと思います。誰かが削除依頼を出せば、存続票を投じて、最低限の加筆を試みると思いますが、現時点で積極的に調査して加筆充実をするかと問われれば、優先順位としては極めて低いと思います。もしそれに手をつけるのであれば「ロックンロール」のような基本項目が先でしょう。また、「出典をつけるにしても、自分の仕事や生活がありますから、即座に情報源を示すために動けるわけではないし、資料を探し、手配するのには多少の時間がかかる。公共図書館の協力貸出では、1か月程度かかることもあります。」というのはその通りですし、これまで山田が関わった議論の中でも、今すぐに出典は出せないが特筆性がある、という主張に対して、特筆性テンプレートを残して存続することに同意している例もあります(例えば「Wikipedia:削除依頼/アビゲイル (バンド)」)。「そうしているうちに、近代大衆音楽に知識を持たない利用者が、テンプレを貼った後も特筆性を満たす出典が示されていないからということで、削除依頼をし、誰も示すことができずに削除される。調査能力のある執筆者は、おうおうにして削除依頼を注視しているわけではありません。」ということですが、記事は作成者のものではなく、そのときどきのコミュニティによって判断されるしかないものであるというのが、山田の認識です。また、通常、記事作成に関わった人のウォッチリストには、自分が関わった記事への編集は反映されますから、最後の部分の記述は過剰に強調されるべき論点ではないと思います。
- 最後に、「リーガル・ジャズ・バンド」は「コロムビア・ジャズ・バンド」への転送記事としての存続で十分でしょう。主題自体に独立記事たる特筆性があるか疑問です。--山田晴通(会話) 2012年11月1日 (木) 22:02 (UTC)
- コメントどうもすれ違っているような気がします。
- 本件依頼で存続票を投じているのは、調査不足が理由ではないです。「第三者的な二次情報源が示されたため」で、サイゾー記事[1]の存在が存続理由です。審議の中で示されていたことに気付かずに、自分で見つけました。
- 「調査能力のある執筆者は、おうおうにして削除依頼を注視しているわけではありません。」というのは、「その記事の執筆者」を指すのではなく、「その記事に関する調査能力のある執筆者」です。残念なことに、堀内敬三の記事を書いても、大田黒元雄の記事はウオッチリストには入りません。削除依頼に出されても気付きません。いくつか、ポータルでの告知が機能している分野もないわけではないですが。
- 「こんだけ探して見つからないんだから文句なかろう」くらいの調査をしてからの依頼でも遅くない」というのは、単にWikipedia:特筆性#特筆性のガイドラインを満たしていない記事にある、「特筆性を満たしているか不明確な記事においては、記事の削除は最終手段であるべき」であり、「情報源を誠実に探したにもかかわらず適切な情報源が見つけられなかった場合」を、「「これならば文句なかろう」というくらいの出典(実績)が揃ってからの立項でも遅くはない」に合わせて言い換えたものです。Wikipedia:特筆性#特筆性のガイドラインを満たしていない記事の手順を踏んでいなければ、または「誠実に探した」痕跡がなければ、依頼不備とされてもしょうがないんじゃないでしょか(Wikipedia:特筆性は草案ですから、拘束力が云々という話にもなるでしょうけれど)。「誠実に探した」かどうか、依頼時に示されている水準で「誠実に探した」と言えるかどうか、という部分については、コミュニティが判断すればよいと思います。山田さんが、そのように考えているなら、同じことを別から言っているということになります。「誠実に探した」ことを問わないのならば、言っていることは異なります。
- 社会的な立場としての「専門家」でなくとも、分野に通じた利用者が削除依頼に出すことは咎めません。彼/女らなりの感覚や経験で評価がなされるのでしょう。百科事典としてどうか、他の分野との兼ね合いでどうか、というところで、分野に通じていない利用者が口を出すかもしれませんけれども。
- 素人が疑義を表明するのは好ましいことです。特筆性や出典の明記などのテンプレートは、それが必要な記事には気兼ねなく使えばいいと思います。
- ぼくが問題視しているのは、分野に通じていない利用者が、「誠実な調査」をすることもなく、削除依頼を出すこと、です。
- 「百科事典は基本的に、その分野に通じていない者が利用するものです。素人から見て記事に疑問を感じたときにそれを表明すべきでない、というのであれば、それは本末転倒であると思います」というのは、その通りです。ノートででも表明すればいい。しかし、疑問を感じた後に、表明にとどめるのではなく、また調査をし、修正するのでもなく、削除しろという素人の要求は過剰ではないでしょうか。
- 「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」は、記述の典拠をなる資料の提示を求めていて、<どんなに特筆性がある主題であっても、典拠がない状態が恒常化してよいということにはならないはずだ>けれども、<典拠がないから削除してよいということにもならない>、と考えます。
- 各方針を、今一度確認してみてください。「Wikipedia:検証可能性」には、「削除」の語は一度も登場しません。独自研究については、理論に関する記事で確立していない造語や、権威ではない個人やそのような個人からなる小集団に由来する概念は、記事削除の対象とされますし、画像についても削除となることがあります。中立性を達成するためにというだけでは、即削除してしまう理由としては不十分であり、判断が難しい場合では削除ではなくノートで疑問を提起し、変更がなされないようならノートに記述をコピーするとされています。三大方針に違反する記述への対応策は、削除ではなく、自らの改善や呼びかけによる加筆や修正、せいぜいが除去であり、編集の習慣を知らない利用者には学ぶ機会を与えることも必要です。
- Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に書かれている「定評のある情報源がない場合、その話題に関する記事はウィキペディアで立てるべきではありません」というのは、しかし、定評のある情報源が、今の記事に示されているかどうか、ではなく、特筆性の文書が求める「情報源を誠実に探したにもかかわらず適切な情報源が見つけられなかった場合」には、(統合できなければ)削除なのだと考えれば、これらは矛盾しません。執筆者に「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」が求められるのと同様、削除依頼提出者にはWikipedia:特筆性#特筆性のガイドラインを満たしていない記事の手順が求められる。どちらの要求も満たされないなら、誰かが調べようとするまで、そのまま放置される。
- <形式的にまったく典拠を欠いている記事をみたとき、その分野の素人であってもその記事の妥当性に疑問をもつのは当然>とは思いません。体裁としてウィキペディアが求めているものは、百科事典のスタイルとしては相当異質ですし、日常的に用いられるものでもないです。脚注がずらずらと並んでる記事を見て、うっとおしいとか、読みにくいとかいう声も見たことありますよ。特筆性が問題になる削除依頼で、執筆者が反論するときは、どんなにそれがすばらしいかを述べるのが普通です。「ウィキペディアの慣習には詳しい素人」が、妥当性に疑問を持つ。
- ですから、編集に参加して間もない人たちにウィキペディアの慣習を伝えるという手順は必要ですし、一定の知識を持ちながら慣習を知らずに書かれたものは、存在します。それらは慣習に合致するように修正するほうが有益です。妥当性に疑問を持つなら、自分で調べればいいのです。
- 修正を促すための、削除依頼以外のテンプレートなら、気兼ねなく貼り付ければよいと思います。削除依頼の提出は、改善を強制するためのものではありません。目的が違います。削除依頼の提出がためらわれても、困ることはありません。「形式的な不備」は、ただちに問題を生じるものではないです。存命人物の否定的な記述なら困りますが、その理由は形式的な不備ではないです。
- そもそも「形式的に情報源が足りない」というのは、削除対象ではありません。「百科事典としてふさわしくない」や「Wikipedia:特筆性が求める二次的情報源が得られない」といったことが、その記事が削除対象になる理由です。その分野に通じている人にとって、その判断はそれほど大きな負担にはならないでしょう。その分野に通じていない人が削除対象であると判断するためには、相応の負担が必要になる。「百科事典としてふさわしくない」や「Wikipedia:特筆性が求める二次的情報源が得られない」に該当すると考える上での「一定の合理性」を、その分野に通じていない人でも、それなりに得ているならそれでいいんですが、その合理性の判断をするためには、調査が必要になる。調査せずに削除依頼を出すのは、特筆性があるのかどうかは俺は知らないけど、あったとしても削除すべきだ、という意見ですよね。それならそれでもいいですが、あったとしても削除すべきという理由を示すべきです。
- そして、ウィキペディアは執筆者も専門家ではなく、対価を得られるわけではありません。ちょっと毛が生えた程度の素人が、みんなで手助けし、協力しながら作っている百科事典です。「記事を作成できる者は、その分野に通じていない者が特筆性の欠如や独自研究を疑うことがないように典拠を示して記事を執筆すべき」ではありますが、それを口にする利用者もまた「作成できる者」であり、「典拠を示して執筆すべき」であって、「執筆者はそのように執筆しなければならず、それができないならば削除する」のではなく、それぞれが限られた知識の中で情報を集め、記事を修正し、発展させるべき」だと、Ks aka 98は考えます。今知らないことでも、調べれば、知ることができます。ウィキペディアは、素人の調査の積み重ねであり、素人が自分が文献探索の方法や有益な記述法を学び、オンラインの共同作業に適した方法を考え、共有する場所でもあると考えます。
- 山田さんは、執筆者に専門性を求め、削除依頼を出すことには専門性を求めてはいけないとおっしゃっているように見えます。執筆者に専門性を求めるならば、平凡社や小学館に勤めるべきです。ウィキペディアでは、執筆者は専門家ではありません。ばくぜんとした評価・名誉といったもの以外に、対価も与えられません。
- また、紙の百科事典なら、出版社/編集者にある種の特権が存在します。査読者や指導教官なら、あるいは出版社の編集者なら形式的に出典が付いていないからと言って、修正や加筆には手を出さず、再提出をさせることもあるかもしれません。しかし、削除依頼提出者や削除依頼の審議に参加する人、あるいは、不慣れな編集をしている参加者に注意をする人たちに、なんらかの特権があるわけではない。査読者や論文指導教官のように、知識があると認められた人でもない。そして、彼らも執筆者になることができます。ウィキペディアでは、出典が付いていないなら、自分で付ければいいのです。知らないなら調べればいい。記事は(初校の、あるいはこれまでに投稿した)執筆者のものではないです。だから、他の人が出典をつけ、加筆して発展させればよいのです。執筆者と、削除依頼者を別々に捉え、対立させるべきではないんです。
- 「分野に通じた人と同水準の調査を行えば特筆性を満たす資料が得られるのに、その記事が削除されてもいい、とは思いません」ということと、「分野に通じた人と同水準の調査」を非専門家に求めることは、同値ではありません。
- 「分野に通じた人」とは、「専門家」とは異なります。「Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割」は、社会的に専門家と呼ばれる地位にある人であってもウィキペディアで特権的な地位を与えられるわけではないということを述べています。ここでは、そのような立場のことを考えているわけではないですよね。専門家なら、専門家としての知識を持っているでしょう。ウィキペディアの議論の中で、その主題や関連事項についての知識の多寡で、その意見の扱いが変わるのは当然のことです。しかし、地位を根拠とするのではなく、その根拠となる文献を示してくれ、と。
- そして、「分野に通じた人と同水準の調査」を分野に通じていない人に求めていませんよ。分野に通じている人であれば特段の苦労なく分かる程度の情報の収集を、分野に通じていない上に削除依頼をする人(また削除票を投じる人)に求めているのです。
- さて、「誠実な調査」とは、どの程度か。
- 削除依頼に出ているもので、ぼくが知らない分野でも、記事名や記事の中のトピックから、NDLサーチ、CiniiやJ-Stage、大宅文庫の目録(最近のものは面倒ですが冊子体なら公共図書館にそこそこ所蔵があります)、グーグルで適当に絞り込んで20ページも追いかければ、いくらか出てくることもあります。オフィシャルまたはファンのサイトやブログではメディア情報の一覧や報告があることもあります。その分野を主に扱う雑誌のオフィシャルページなどでバックナンバーの表紙が見られることもあります。PCの前で15分から30分程度を費やすくらいのものです。グーグルの扱いには慣れ不慣れがありますし、NDLサーチ、Cinii、J-Stageは、それぞれ検索に癖があります。検索よけ回避のためにトップページから進まないといけないこともある。そういうことに慣れないと、時間がかかるかもしれませんが。
- 鳥取春陽も菅原明朗も松本伊代もコロムビア・ジャズ・バンドも、その程度の調査で存続にできるでしょう。この依頼でも、ぼくは自分でサイゾーの記事を見つけています。誰かの人物記事でオフィシャルサイトに自分たちが取り上げられた情報がまとめられていたのを見つけたこともあります。最近山田さんが書かれた「名古屋系」なら、グーグルでも日経トレンディの記事の中に[2]や[3]は見つかって、前者は日本語としてもある程度定着していることを示す用例になるでしょうし、後者は用例とはならないけど、そういう括りがあって、大きく取り扱われていることはわかる。専門外でも、それくらいはできる。
- 削除依頼に出す水準は、それくらいじゃないですかね。可能なら、朝日・読売・毎日などの新聞記事データベース(毎日は88年くらいからしか検索が役に立ちませんが)や、大宅の電子版。専門外なら、それくらいで「こんだけ探して見つからない」と思ってもおかしくない。同時に、削除の審議に参加するための水準も、それくらい。他人が手間隙かけて書いた記事を、もともと自分が通じていないのに、能動的に削除しようとする上で、そんなに大きい負担でしょうか。
- ただ、ネットでは情報が得にくいが、ある程度のまとまりとして存在すると思われるものがある場合は、そうしたところへの配慮は必要だと思います。調べようと思うと、負担となるでしょうけれど。こないだ「AV30」の削除依頼のときに見つけた[4]を見ると、ちょっと古めのAV女優記事の評価には『アダルトビデオ20年史』(東京三世社 1998年発行)、『80年代AV大全』(双葉社 1999年発行)を確認すれば、かなりAV女優の収録範囲の目安は付けられるだろうし、判断もできていくのだろうと思ったりします。ヴィジュアル系については「ショックスやフールズメイトといった雑誌がある」という蓄積があれば、上記の情報があれば、あとはバックナンバーあたれば「名古屋系」を扱う記事が見つかりそうだ、と思える。そうした雑誌の過去の記事群に、その記事を主題としたものがあるかどうか、ということなら、多少想像もできる。ぼくは声優やゲームはわからないけど、音楽雑誌ならなんとなく見当が付く。特筆性を理由にして、声優やゲームの削除依頼は出さないだろう、と。
- 百科事典の編集に参加して、書くにしても削除依頼を出すにしても近代音楽史の作曲家に手をつけるなら、『日本の洋楽百年史』『日本の作曲家たち』くらいあたっとけ、と、かつてそのあたりを調べたことがあるKs aka 98は思います。ぼくも別にそこらへんが「専門」ではないですが。でもまあ、基礎的な文献として扱われているようだと感じる。プロジェクトなどで蓄積を、というのは、だいたいこれくらいの水準を想定しています。専門家が『日本の洋楽百年史』『日本の作曲家たち』を知っているからと言って胸を張るような資料ではないけど、ウィキペディアの執筆者で、それを基礎的な文献として承知している人は多くない。『アダルトビデオ20年史』もそうだろうし、ショックスやフールズメイトといった雑誌群もそうでしょう。そういう程度のものを、共有していけば、執筆にも有用ですし、特筆性の評価にも有用だろう、と。そうやって、調査の労力を下げ、しかし調査の奥行きを深めるようなかたちになったらいいなと思っています。
- 最近山田さんが出された削除依頼で言えば、Wikipedia:削除依頼/久保田紗也加は「誠実な調査」をしていると考えます(ただし、現時点では所属している放送局へのリダイレクトとして存続させればよいと思いますが)。地方放送局ですから、地方紙・地方誌に情報が見つかることは考えられますし、オフィシャルページで内容の正確さは検証できます。オフィシャルページだけでは中立的とは言えないというような記述もなさそうです。なので、ぼくは積極的に削除には動かないです。しかし、この記事では、それに加えて、記事とほぼ同等の情報がオフィシャルページにありますから、本人が活動しているうちに再作成するなら、削除によって情報が損なわれていないため、削除しても差し支えないとも思います。
- 幼稚園の依頼のほうは、ちょっとよくわかりません。それぞれ存続にして徳島県幼稚園一覧へのリダイレクトにするのではなく、削除する必要は感じられません。単独で依頼が出ていた花星幼稚園については、2001年10月頃には、月刊誌「ワイヤー徳島ママ」11号に花星幼稚園が連載されていますという情報がありました[5]。基本的なところは県教委の『学校基本統計』で押さえられるでしょうし、開園の年がわかりませんが、『徳島県幼稚園史』や『徳島県幼稚園発達史考』で扱われているかもしれません。
- 幼稚園の場合は、地方紙誌や育児雑誌・教育雑誌で取り上げられる可能性があります。ぼくには、その見当が付かないけど、山田さんには検討が付くのなら、それでもいいと思います。ただ、どうせなら「プロジェクト:学校」で提案して、幼稚園記事全体にタグを付け、47都道府県を見渡して、意見を交わしたり調査をしたりしながら、より特筆性がないと思われるもの、削除しても差し支えないものから順に出していくのがよいと思います。
- 結局のところ、ぼくには、なぜ山田さんが「特筆性」の文書の記述に反してまで、それを「削除」したがっているのがわからないんです。単独記事にふさわしくなければ、転記してリダイレクトにすれば削除の必要はない。調べて、情報源が見つかれば、それは百科事典の発展です。労力をかけて調べるのが嫌なら、削除依頼を出す時間も「ロックンロール」の加筆に費やせばいいんです。山田さんが削除依頼を出すことで、誰かが「ロックンロール」を書く時間を「菅原明朗」の加筆に費やさなければならない。今のウィキペディアを、なんとなくマシなものに見えるようにしたい、ということなら、それはウィキペディアの理念とは違うと思いますよ。
- 削除かどうかではなく、単独記事の扱いということでは、たとえば、あまり広くない地域に限定されるような事柄の扱いについて、ということで、削除依頼の前に、一般的な方向性を定めるとかいうことのほうがよいのではないでしょうか。あまり広く知られることを望まない場合への配慮というのもありえますし、逆に、ウィキペディアのやりかたは各地域の事柄を記述していくことと親和性があるようにも思いますから、そっちをすすめていくことも考えられます。あるいは、存命人物の伝記やプライバシーの観点から、人物記事や一部の職業、幼稚園のような施設を対象としてより厳しい制約を設けるということも考えられますし、影響力を考えれば、逆に特定の幼稚園や学校のみが記事化される(第三者的情報源は不祥事によって取り上げられることも多いでしょう)ことを避けるために、基礎的な事実関係については中立的な情報が得られることを前提として、特筆性の一般的なガイドラインを超えて、網羅的に記事を作成するという方向性もありえます。--Ks aka 98(会話) 2012年11月3日 (土) 15:22 (UTC)
- ちょっと見通しが悪いかもしれませんので、箇条書きで論点ごとに書いて行きます。とりあえずは、
(インデント戻します)
まず、「ぼくが問題視しているのは、分野に通じていない利用者が、「誠実な調査」をすることもなく、削除依頼を出すこと、です。」より前の部分については、ちゃんと理解していますし、その範囲で唯一違和感を感じる箇所(「「誠実に探した」ことを問わないのならば、言っていることは異なります」)についても、あるべき精神というか、倫理規定としてであれば、異論はありません。 逆に言えば、この辺りにわれわれの食い違いがあるようです。そちらの枠組みにそって山田の立場を述べれば、
- 「誠実に探した」ことを問わない
というより、
- 「誠実に探した」ことは問いようがない
ということになります。この論点については後で再び触れます。
「そもそも「形式的に情報源が足りない」というのは、削除対象ではありません。「百科事典としてふさわしくない」や「Wikipedia:特筆性が求める二次的情報源が得られない」といったことが、その記事が削除対象になる理由です。」というご指摘はごもっともですが、山田が「形式的に情報源が足りない」という表現で想定しているのは、「Wikipedia:特筆性が求める二次的情報源が得られない」ということにほかなりません。まったく典拠がしめされていない、ないしは、当事者発信の情報しか典拠がない記事につて、(たまたま自分が記述の妥当性に関する知識をもっているといったことがない限り)その妥当性に疑義をもつのは当然であるというのが山田の認識です。 また、「調査せずに削除依頼を出すのは、特筆性があるのかどうかは俺は知らないけど、あったとしても削除すべきだ、という意見ですよね。」というのも誤解です。あえてそうした言い方をするなら「特筆性があるのかどうかは記事を見ても分からないから、特筆性があったとしても記事を読んで分かるようにできないなら削除すべきだ」という意見です。
それから、これも大きな誤解であり、是非正しくご理解いただきたいのは「山田さんは、執筆者に専門性を求め、削除依頼を出すことには専門性を求めてはいけないとおっしゃっているように見えます。」という部分です。山田は何も「平凡社や小学館に勤める」ようなレベルの専門性を執筆者に求めていません。「それぞれが限られた知識の中で情報を集め、記事を修正し、発展させるべき」だいうKs aka 98の考えも共感します。山田が認識しているのは、少なくとも何らかの記事を執筆しようとする執筆者は、一般的な利用者ないし、閲覧者よりもその分野について知っているから記事を作成するのだろうという単純な見通しです。山田は、AV女優や、ゲームソフトの記事に特筆性を理由とした削除依頼を出したことがありますが、自らそうした分野の記事を書こうとは思いません(また、山田が「比較優位」を無視してまで、そうした記事を書くためにエネルギーを使うべきだとKs aka 98さんがお考えだとも思いません)。どうか誤解なさらないでください。
さて、われわれの最大の食い違いは、「さて、「誠実な調査」とは、どの程度か。」の辺りにあるように思います。直前の記述で、「「分野に通じた人と同水準の調査」を分野に通じていない人に求めていませんよ。分野に通じている人であれば特段の苦労なく分かる程度の情報の収集を、分野に通じていない上に削除依頼をする人(また削除票を投じる人)に求めているのです。」とありますが、これはかなり高いハードルであるように思います。また、特に「可能なら...」以下に具体的に記述されている各種の検索ツールを駆使しての調査をできる環境にいる人はごく限られているのではないでしょうか。そして、その検索には各種の手続きを経てアクセス権を確保することも含め、かなりの時間が必要です。また、グーグルの検索で上位20ページ=200件をチェックせよというのは、山田の感覚からすれば高すぎるハードルです。 何より問題なのは、最初に述べた論点に戻りますが、削除依頼者が「誠実な調査」をしたかどうかは客観的な基準もなくコミュニティによって判定するしかないという点です。つまり、削除依頼審議の中でしか議論しようがない、ということは、個々の削除依頼の有効性について「誠実に探した」ことは問いようがないことを意味しているように思えます。もちろん、方針の無理解から、あるいは、意図的に、ろくに調査せずに削除依頼を乱発する者が現れれば、コミュニティを疲弊させる者としてブロックされて当然でしょう。 しかし、少なくともある程度以上の長期間にわたって特筆性タグが放置されているような記事においては、「形式的に情報源が足りない」あるいは「Wikipedia:特筆性が求める二次的情報源が得られない」ことを理由に削除依頼を出すことには、相当の理があるものと山田は考えます。
なお、幼稚園記事との関係で仰っている一覧記事へのリダイレクトという論点は、現在のシステムでリダイレクト化という選択肢の位置づけが明確になっていないことも関係してきます。リダイレクト化についてご意見がおありでしたら、当該記事の削除依頼審議にご参加ください。--山田晴通(会話) 2012年11月4日 (日) 01:07 (UTC)