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Wikipedia:コメント依頼/Miya 20070623/W ryon

User:Wiki ryon 氏の発言は、明らかに「コメント依頼」妨害であり、コメント依頼が訳の分からない状態になっている為、同氏のコメント及び関連レスをこちらに移動します。--Maris stella alias Star of Sea 2007年7月1日 (日) 13:14 (UTC)[返信]

Wiki ryon 氏関連発言

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Miyaさんの保護解除の妥当性に関して

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(1)

「保護解除依頼等の手続きを経ない保護解除は管理者権限の濫用か?」が争点ではないなら、この点については管理者権限の濫用にならないという合意に達したと見なして良いのでしょうか。

『自浄機能論』([1]で定義)は、「一般論として扱うことも可能な話題」ではなく、まぎれもなく一般論そのものです。そして、もし、『自浄機能論』に「具体的な手がかりとなるケース」が必要となるとしても、保護解除の妥当性を論じるのに必要になるわけではありません。さらに言えば、『罪状』([2]で定義)が否定されるなら、本件は「具体的な手がかりとなるケース」に該当しません。いずれにせよ、「具体的な手がかりとなるケース」が必要ならば、その事例へのリンクを貼れば済むことです。以上、『自浄機能論』についてまとめると、現時点では、このページで扱う議題を左右するとは言えないし、『自浄機能論』の側から見てもこのページで議論する必要はないのだから、別の然るべき場で議論すべきでしょう。ブロックの是非を同時進行すべきではないと言うのだから、それよりもっと離れた話題である『自浄機能論』をここで展開するのは見当違いです。

本件が「管理機能を使わない」べきとする「自分が問題提起した事案・審議に加わった事案」なのかどうかについては、既に「編集したくて解除するのは何かまずいのでしょうか? 」等の意見が述べられています。そうした慣習は、管理者権限を悪用してWikipediaを恣意的にコントロールすることを防ぐためのものであるはずです。確かに、保護措置は、恣意的なコントロールに利用できるので、そうした慣習に従う必要があると言えます。しかし、保護解除は、その後の自由な編集を許す措置であるため、恣意的なコントロールに利用することができません。それならば、そうした慣習に従うべき合理的理由がありません。だから、「何かまずいのでしょうか? 」と意見が述べられているのでしょう。運営のためにルールがあるのであって、ルールのための運営では本末転倒です。Wikipedia:保護の方針に「濫用すると誰でも自由に編集できるというウィキペディアの基本精神に反してしまいます」と書かれているように、保護は例外措置だから最小限に止めるべきで「保護が不適切な場合にはすぐに解除すべき」だから、解除は速やかに行なうべきとする意見もあります。

「『書かれていないことはやってもいい』ということにはなりません」は、論点が混同されています。その行為が好ましいかどうかと、その行為を行なった人間が糾弾されるべきかどうかは別問題です。Nekosuki600氏は、主に前者の主張を展開されているようですが、本件の論点は後者です。詳細は、罪刑法定主義をご覧ください。これは、Wikipediaのルールではなく、司法の世界のルールです。しかし、何故、罪刑法定主義が重視されるかを考えれば、Wikipediaの基本方針とも合致することが分かります。罪刑法定主義が守られなければ、一部の人間の恣意的な都合により後付けのルールを設定して他人を裁くことが可能になります。それは「決定はコミュニティが合議で行い」という姿勢とは正反対のものです。明文化されていないが好ましくない行為があって、以後、それを禁止すべきと思われるなら、新たなルールを提案して、コミュニティの合意を得るべきでしょう。そして、その上で、新ルールを違反した者に対してブロック等の強制措置を取れば良いのです。そうした手続を経てこそ、「決定はコミュニティが合議で行い」という姿勢ではないでしょうか。そうした手続をすっ飛ばして、ルールに反しない行為を糾弾する方が問題があるのではないでしょうか。少なくとも、異論が生じ得る見解である以上、然るべき手続を経ていない個人的見解では糾弾の根拠としては弱すぎます。

履歴を見て疑問に思ったのですが、もしかして、IPユーザ(60.56.34.77)は無期限ブロックされた人物ですか?「ブロックという仕組の濫用」と言いながら、「安易に保護、ブロックを発動解除」だけを槍玉に挙げて「即時ブロック」や「ブロック解除した管理者のブロック依頼」を問題にしないのは、明らかに根拠なく一方だけに肩入れしています。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月27日 (水) 13:19 (UTC)[返信]

整理、というか

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(2)
Wikipediaにおける合意形成はラフ・コンセンサスでよく、最後のひとりまで説得することは求められていません。すでに説明済みの論点についてあなたが納得していないからといって、繰り返し説明を求められても、同じことしか言えないんですねえ。どうも申し訳ないね。また「そのものずばりの明文規定がない」ということが「それは禁じられていない」にはならないということは、おれ以外のひとからも出ている反論ですし、そこで更に「そのものずばりの明文規定がない」ということを論拠にするのは、それこそ単なる強弁ではないだろうかと愚考する次第です。
今後の議論展開を見て、他のひとの意見なども眺めて、その上で必要であると判断するまで、申しわけないのですがこのまま放置させてもらいます。--Nekosuki600 2007年6月28日 (木) 12:31 (UTC)[返信]
「Wikipediaにおける合意形成」以下の話は多数決の話であって、私が論じているのは議論の話です。ウィキペディアの基本ルールは、議論をすっ飛ばして多数決をとることではないはずです。例えば、Wikipedia:投稿ブロックの方針#通常の投稿ブロック依頼手続きには「賛否が割れた場合は議論を尽くして合意に努めた後、原則として多数意見を尊重する」と書かれており、「多数意見を尊重する」前に「議論を尽くして合意に努め」ることを求めています。「合意」や「多数意見を尊重」の前に議論があることは明白です。
何故、人の意見のうちの「明文規定がない」ことしか採り上げないのでしょうか?「明文規定がない」ことは、Nekosuki600氏がご自身の主張を絶対視することの間違いを指摘する根拠であって、逆の主張が正しいことを支持する根拠ではありません。明文規定がなく、人によって見解が分かれることであれば、「決定はコミュニティが合議で行い」という手続きが必要だと言っているのです。そして、Nekosuki600氏は、個人的希望を述べているだけであって、具体的理由を一切仰っていません。強いて言えば、感情的に許せないという理由だけです。そして、Nekosuki600氏への反論根拠は既に述べてあります[3](保護解除が恣意的なコントロールに利用できないことや独断での保護解除もウィキペディアの基本精神に合致すること、罪刑法定主義の重要性)。これに対する再反論はありません。
「何わけわからんこと言ってんだ、馬鹿」と思わせるような見当違いの意見だとか、明らかな詭弁だとか、そうした的外れな意見に真面目に反論しては議論が無駄に発散します。しかし、そうではない意見に反論しないのは、逃げですよね。つまり、それらに反論できないことを自ら認めているわけです。そうした他者の反論に耐えない意見は、本当に正しい意見なのでしょうか。「決定はコミュニティが合議で行い」と仰るなら、反論できない時点で潔く引き下がるべきではないでしょうか。何を言われても賛成や反対の姿勢を変えないのであれば、聞く耳を持っていないのと同じで、それでは議論する意味がありません。初めから多数意見を採用すれば済むはずです。何故、ウィキペディアは議論を前提としたルールになっているのかを良く考えるべきと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 08:57 (UTC)[返信]
もう、本項目におけるryonさんとの会話は「どうでもいい話題」になっていると思うんですが。
このコメント依頼には、それなりの主旨というものがあります。それは少なくともryonさんの自説披露とかではありません。主旨を理解した上でのコメントを期待します。現状では、あなたは主旨を理解できているとは言いがたく、参加者にあなたの独自の視点でコメントをつけまくるというのは話題の拡散にしかなりません。
おれは、あなたの意見に賛同できるとかできないとかそういうレベルでものごとを語っていません。おれは、あなたのコメントは単に場違いであると思っており、おそらくこのコメント依頼の趣旨とは無関係な事情に基づくものであると考えています。シュレ猫でも同様のことがあったようですが、それは「コミュニティを疲弊させる行為」として指弾されてもいたしかたないものであると、わたしは考えます。--Nekosuki600 2007年6月29日 (金) 16:40 (UTC)[返信]
「今回Miya氏が行なった保護解除が管理者権限の乱用か?」を論じているのだから、その根拠事項は「どうでもいい話題」でも「無関係」でも「コミュニティを疲弊させる行為」でもありません。Nekosuki600氏は、印象だけで物事を決め付けて物を仰っていて(別の見出しで詳細をまとめました)、それに対する異論は一切認めません。その決め付けが正しい前提における「更にその先」の話だけが、Nekosuki600氏にとっての「主旨」なのでしょう。しかし、ここは「自説披露」の場ではありません。Nekosuki600氏は、「管理者権限を持っている」人間が「手続きをすべてふっとばして保護解除をし編集」することについて「いいわけがない」と仰っていますが、その根拠は単に「おれは思う」だけです[4]。「おれは思う」の内容が正しいとする前提に基づいて、「問題なのは、更にその先」と仰っているようですが、#コメント依頼以前の議論から、その前提に対して複数の異議が出ています。その前提が正しいかどうかは、結論を180度変えるほど重大な問題です。にもかかわらず、前提の真偽の決着をつけることを拒否し、一方的な前提だけに基づいた「更にその先」の話しか認めない行為こそ、「コミュニティを疲弊させる行為」そのものでしょう。Nekosuki600氏の仰ることは、Nekosuki600氏の求める結論を覆してしまうような発言は「独自の視点でコメントをつけまくる」「話題の拡散」「場違い」だと言っているのと同然です。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月30日 (土) 10:06 (UTC)[返信]

(3)
ある行為に問題があったかなかったか、明文規定がない場合は、問題に即してコミュニティが判断するというのがウィキペディアでの原則です(ウィキペディアに限らず、人間の社会は、明文法規定がなくとも「良識」で判断するという基準があります)。Miya 氏の行為に「問題がなかった」というのは、何も自明のことではないのです。明文規定がなければ、何をしても問題行動ではないと言えるのか、これについては、多数の人が否定しています。モラルや倫理やシスオペとしての良識が必要とされるという点で、概ね一致しているはずです。にも拘わらず、自分が同意できないという理由で、「論理的におかしい」と幾度も執拗に個人の見解を強弁されるのはどうかと思います。--Maris stella 2007年6月28日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
  • 整理すべきことは、その行為の問題点である
答え)管理者は一般ユーザーと異なり、権限(コマンド)を持つため、コマンドの行使等に関しては、より慎重さや分別や、高い倫理が求められる。コミュニティの信任を受けて授与されている権限であるならば、信任を裏切ることは問題である。そして、本人がどう考えていたよりは、他から見て「どう見えるか」が問題で、今回の Miya 氏の行為は、他から見て、問題があると判断される。ただ、これだけの非常に明白なことです。上で、みっち氏も同じことを述べています。--Maris stella
  • 行為の問題点を明確にせずに行為の有無を論じるのは論点の混同である
答え)論点を把握していないのは、Wiki ryon 氏です。--Maris stella
本題として議論すべきことを議論せず、脱線した議論を延々と続けるのは、整理とは正反対の行為です。
本題と関係のない、すでに明らかとなった論点を延々と繰り返しているのは、Wiki ryon 氏ではないのですか。(なお、「有罪」とか「無罪」とか何か犯罪を裁いているかのような話をしていますが、ウィキペディアには有罪とか無罪とかはありません。百科事典を造るというのが「大目的」の前提としてあり、これに即しているかどうかで判断されます。いかなる善意の人でも、この目的の妨害になる場合は、「有罪」とかではなく、「お引き取り願う」しかないのです。管理者も同様で、目的から逸脱する結果をもたらすような行動は、その意図に関係せず、管理者としてのアカウンタビラティを問われるというだけの話です。何か、根本的なところで勘違いされている気がします)。--Maris stella 2007年6月28日 (木) 13:23 (UTC)[返信]
Maris stella氏の指摘は、いくつかの事実誤認に基づいていると思われます。まず、「問題に即してコミュニティが判断するというのがウィキペディアでの原則」には誰も反対していません。だからこそ個人の希望を絶対視するのは手続としておかしいと言ってるだけです。また、「管理者は一般ユーザーと異なり〜信任を裏切ることは問題である」についても異論がありません。
「自分が同意できないという理由」というのも事実に反しています。#コメント依頼以前の議論を参照していただければ分かるとおり、私が発言する前から、NiKe氏、Calvero氏、ゆう(matunami) 氏が同様の意見を提起されており、Kinori氏も管理者の裁量の範囲と仰っています。これは、私個人の意見ではありません。そして、その理由についても丁寧に説明してあるはずです[5]。一方で、Nekosuki600氏は、「編集を前提とした解除」の具体的問題点を指摘していません。つまり、「自分が同意できないという理由」を根拠とされているのはNekosuki600氏の方です。
「他から見て『どう見えるか』」については、既に私が述べたとおり、行為内容のみを問うべきとするなら、全くそのとおりでしょう。しかし、行為内容の是非を問わず、あらゆる見え方を問題とするのは行き過ぎでしょう。『李下に冠を正さず』と言いますが、それは予見性が明白だから(李下で冠を正せば泥棒と誤認されることは本人も分かっていたはず)こそ問題であるのであって、予見性のない見え方についてまで責任を追及されるべきではないでしょう。それでは、誰かが「見えた」とさえ言い張れば濫用に該当するという、際限なく言い掛かりをつけられるルールになります。(言葉どおりに見え方だけを問題にするなら、それは、贈収賄が発覚したときの政治家の言い訳「疑われるようなことをして申し訳ない」と同一の定義になります。国家公務員倫理法を観察してきた立場として、この言い訳が無茶苦茶なことは論じるまでもない常識だと認識しています。)
そして、最も重要なことは、「非常に明白」な「信任を裏切る」行為があったかどうかです。言葉どおりの見え方だけであれば、確かに、そう見える行為があったことは事実です。しかし、「当該行為を事前に回避すべきだったかどうか」については、回避すべきとする根拠は一切挙げられていません。つまり、悪っぽく見えるからという曖昧な理由だけで糾弾されているわけです。
『罪状』という言葉の定義については既に何度も申し上げているとおりです。それは、便宜上定義した言葉であって、言葉どおりの意味は本件とは別問題です。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 09:27 (UTC)[返信]
補足します。明文化されてないことを「良識」で判断するとしても、それは、誰もが同意するような結論が明らかな「良識」に限定されるべきでしょう。「ウィキペディアでの原則」とは、そうしたことを想定したものと思います。人によって見解が分かれるのにもかかわらず、後付けで一方的な「良識」だけが正しいことに仕立て上げることまで認めていると考えるなら、それは、ウィキペディアでの原則の拡大解釈ではないかと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 10:09 (UTC)[返信]

(4)
「現状統一した見解はない」のは、統一見解をまとめるのが困難だからでしょう。仮に、「保護解除した管理者がそのページを編集してはいけない」というルールを作るとしましょう。さて、では、その措置は永久とすべきでしょうか。自分が保護解除したページは、以後、styleに関わる編集以外は一切してはいけないのでしょうか。それとも、解除から一定の期間だけ編集禁止とするのでしょうか。その場合の具体的期間はどれくらいでしょうか。あるいは、誰かが編集した後ならOKとするべきでしょうか。と考えていけば、どのようなルールにしても妥当性に疑問が生じます。そもそも、そうしたルールが必要なのかさえ疑問です。保護解除してあるのだから、編集内容に不都合があるなら、リバートすれば済むことでしょう。Wikipedia:保護の方針の「この機能は濫用すると誰でも自由に編集できるというウィキペディアの基本精神に反してしまいます」を考慮すれば、次のようなルールに止めるのが妥当と思います。
  • 保護解除した管理者は、自身による編集がリバートされたら再リバートしてはいけない
  • 解除後に再び編集合戦が生じたなら、解除前の状態に差し戻した上で再保護をする
Wikipedia:保護の方針を読めば、当事者による保護は駄目だと明記してあるのに対して、当事者による保護解除を禁止する規定はありません。現在のルールが決まった詳しい経緯を知らないので以下は憶測ですが、保護解除の方にだけ禁止規定を入れ忘れたとは考えにくく、議論の過程で保護解除は当事者が行なっても構わないだろうと結論づけられた、もしくは、今後の課題として保留されたと考えるのが自然でしょう。もちろん、その解釈が正しいとは言い切れませんが、現在のルールを読む限りはそう解釈してもおかしくはありません。よって、当事者による保護解除は暗黙の了解として許可されているという認識を持ったとしても止むを得ないことです。そして、猫森日記を読む限りでは、Miya氏はそのように認識していると受け止められます。もし、それが誤認であったとしても、善意によるものであるなら、ルール確認の議論を経ずに糾弾するのは、話し合いを前提とするWikipediaの方針とは相容れないものです。Kazuto-kun氏も仰るように「ボランティアでしかないwikipediaの管理者の方にここまで責任を問う」のは行き過ぎと思います。「管理者の行動が善意にもとづくものならば、管理者は譴責されるべきではありません」とJimmy Wales氏が言明されたとAphaia氏も仰っています。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 09:52 (UTC)[返信]
補足。「疑われて当然の行為」と「疑いを持つ人の有無」は区別すべきでしょう。ここで言う「疑いを持たれる行為」とは、「疑われて当然の行為」を指すべきはずです。それなのに、「疑いを持つ人の有無」で論じれられているのは的外れと思います。何故なら、後者を論点にするならば、裏を返せば「バレなきゃ何しても良い」という意味に言い替えることもできますから。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 11:31 (UTC)[返信]
更に補足。「次のようなルールに止めるのが妥当」としたのは、Wikipedia:保護の方針に書かれてあるように、保護の方針は極力「誰でも自由に編集できるというウィキペディアの基本精神」(Wikipedia:五本の柱の「項目は誰でも変更可能で、どの個人も特定の項目を支配できない、ということを受け入れて下さい。」)と両立するルールを採用すべきと思うからです。だから、保護解除後の編集については、事前に一律禁止とするのではなく、事後の対処方法としてルールを定めるのが妥当であろうと思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月29日 (金) 11:35 (UTC)[返信]
原則として、「保護解除と同時編集」は以後絶対にやめてもらいたい。あらぬ疑いを掛けられないようにするためと、あってはならない「荒らし」を防ぐために。では「どのくらい同時」でなければいいかというと、ノートに提議してから実行に移すまでに必要な期間 と同じ 要領 で考えていいのではないでしょうか。ひとつひとつ覚えていませんが(この際、覚えている必要もあるとは思いませんが)、私が目にしたところでは、24時間、3日間、1週間、ほか、といろいろありました。要は、衆目の目に触れる時間があったであろう、衆目の判断を待つ時間があったであろう 時間をおくことが大事、ということです。Uryah 2007年6月29日 (金) 14:06 (UTC)[返信]
「衆目の判断を待つ時間」が必要な理由が良く分かりません。保護解除を慎重にしろと言うなら分からなくはない(議論をすれば逆の判断が下される余地があるから)ですが、その後の編集に時間を置くべき理由が明確ではありません。時間を置いても置かなくても編集内容に変化がないなら、実効性が全くないと思います。編集内容について他者の判断を仰ぐべきであるなら、時間を置くのではなく、編集前にノート等での提案を義務づけるのが妥当でしょう。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月30日 (土) 10:45 (UTC)[返信]

(5)

明文化されていない行為の是非

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ルールに明文化されていない行為の是非を論じるなら、次のような論点で論じるべきと思います。

  • ルールの盲点か、あるいは、故意に明文化が見送られたか?
  • その行為の是非は「良識」で明確となるか?
  • 当事者がどのように認識し得たか

もし、ルールの盲点であったならば、当事者は慎重な判断で行動すべきだったと言えるでしょう。しかし、故意に明文化が見送られたなら、それは、何らかの事情で明文化できなかった(人によって見解が違い合意に達することが難しかったり、ケースバイケースで対応が変わり、かつ、全てのケースを列挙できない等)のであり、当事者の裁量に任されていると考えられます。本件は、盲点となるほど予見が難しい事例とは思えません。そもそも、保護解除直後に解除者自身により編集が為されたのは今回が初めてなのでしょうか?もし、初めてではないなら、その時点での問題提起ができたはずであり、盲点とは言えないでしょう。

もし、ルールの盲点であるなら、「良識」で判断すべきとなります。そして、万人の「良識」に照らし合わせて答えが一つしかないのであれば、その「良識」に反する行動をとることは不適切な行動です。しかし、その「良識」が人によって見解が違うのであれば、当事者の判断に幅が生じるのは止むを得ないことです。当事者の「良識」に沿った行動であっても、別の人からは「良識」に反するように見えることもあるでしょう。その場合は、強硬手段で一方の「良識」を押しつけるのではなく、話し合いによってお互いの「良識」の擦り合わせを行なうべきことではないでしょうか。

もし、ルールの盲点であり、かつ、万人の「良識」に反する行動だったとしても、当事者が違う認識を持っていたらどうでしょうか。純粋に善意の認識であるならば、最初から強硬手段をとるのではなく、まずは、話し合いによって解決を図るべきことでしょう。ただし、当事者の認識については、実際の認識を問うても証明不可能です。よって、どのように認識し得たかを論じることになると思います。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月30日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

これまでの論点の問題

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これまでに論じられた論点のうち、明らかにおかしな論点を指摘します。

  • 印象だけを判断根拠とすることの問題
  • 正当性を論じずに動機を論じる本末転倒
  • 行為の時点で未確定の未来を根拠とする無理

確かに、保護解除した直後の解除者本人による編集は、管理者権限の濫用のような印象を受けます。しかし、印象以外、管理者権限の濫用にあたるとする明確な理由は挙げられていません。印象だけで判断して良いことなのでしょうか。もし、印象だけで判断して良いなら全てのルールは不要でしょう。ウィキペディアのルールも全て廃止してください。保護依頼もブロック依頼も全て印象で判断しましょう。と、そんな馬鹿な話はないですよね。印象だけで判断して良いなら、印象さえ良ければ何をやっても良いことになります。そんな馬鹿げたルールが成立するはずがありません。「疑いを持たれる行為」とは「印象が悪い行為」のことではないはずです。正当性があるのに印象が悪いことことと正当性がないのに印象が良いこと、どちらが推奨されるかは火を見るよりも明らかです。(追記分)ウィキペディアで禁じられている行為は、その行為が何らかの実害を生じさせるか、あるいは、放置することで実害が生じる恐れがあることです。保護解除した直後の解除者本人による編集が、一体、どんな実害をもたらすと言うのでしょうか。これまでの議論では一度も実害について論じられていません。せいぜい三日天下を許す程度のことでしょう。その程度のことをどうしてここまで問題にしなければならないのでしょうか

正当性を論じる前に動機を論じるのも見当違いでしょう。確かに、正当性の成立要件となっているなら動機を問う理由があります。また、不当な行為の情状酌量の余地を考慮するために動機を問うなら分かります。しかし、動機に関係なく正当性が成立するなら、動機を問うのは本末転倒です。保護解除の正当性はWikipedia:保護の方針#保護を解除してもよい場合で判断されるものであって、該当するなら編集目的の保護解除でも正当である一方、該当しないケースでの保護解除は編集目的でなくても不当です。不当な保護解除の動機が編集目的ではないなら善意の判断ミスとして情状酌量の余地があります。しかし、編集目的で不当な保護解除を行ったなら、故意のルール違反が疑われるため、それは管理者権限の濫用と見られても当然でしょう。というように、保護解除が不当な場合にのみ動機を問題にすべきであって、正当性の判断の前に動機を問うのは本末転倒です。

具体的に次の4つのケースの是非を問います。どれがアウト(×)でどれがセーフ(○)ですか。尚、ここで言う編集する意思の有無は、第三者による認定のことではなく、客観的事実のことを指します。

  • 編集しようと思って保護解除して、実際に編集した
  • 編集しようと思って保護解除したが、結果的に編集しなかった
  • 保護解除するときは編集する気はなかったが、直後に気が変わって編集した
  • 保護解除するときは編集する気はなく、実際に編集しなかった

結論から言えば、○○○○か××○○でなければ論理的辻褄が破綻します。ここで問われているのは、管理者権限の濫用に当たるかどうかであり、管理者権限を必要としない編集行為は対象外のはずです。そして、ある行為の是非を問うのに、その時点で不確定な未来の行為を判定の根拠とするのはおかしいので、その時点で確定している事実のみで判定されるべきです。よって、1番目と2番目、および、3番目と4番目は同じ答えでなければなりません。また、4番目は言うまでもなくセーフのはずです。議論の余地があるのは、唯一、編集目的での保護解除ですから、結論として○○○○か××○○しか論理的辻褄が合いません。さて、では、編集するつもりだったかどうかを問うことが可能でしょうか。それは本人のみが知ることですね。本当は編集するつもりだったとしても「保護解除の時点では編集するつもりがなかった」と言い逃れされたら、誰もそれを覆す根拠は示せません。よって、編集目的だったかどうかを問うことは全く実効性がない議論となります。「疑わしきは罰する」の精神で考えれば、事実に関係なく自動的に編集目的とみなして1番と2番を採用することになりますが、それでは、全ての保護解除がアウトになります。よって、3番目と4番目しか実効性を持たないのであり、編集目的の有無を管理者権限の濫用の根拠とすることは妥当でないという結論になります。--量子力学のド素人ことryon 2007年6月30日 (土) 09:42 (UTC)追記--量子力学のド素人ことryon 2007年6月30日 (土) 11:39 (UTC)[返信]

実際に保護解除の直後に編集をしていた場合は、「保護解除の時点では編集するつもりがなかった」などというのは他者から正当な釈明とは思われないでしょうね。編集した事実がある以上、客観的に見てドラえもんを持ち出した某裁判の証言並みの信憑性しかない。ウィキペディアの秩序を守るのが仕事の管理者が、規則を守らなかったり規則を無視してると思われるような行動はやっちゃあだめでしょう、というのが、もともとの論点じゃないのでしょうかね。たとえそのつもりがなくとも、善意であったとしても、多くの人に濫用と指摘されるような行いは慎むべきでしょう。管理者はボランティアとはいえ人より多くの権限を持っているのだから、それに伴う責任はありますよ。--60.45.202.130 2007年7月1日 (日) 06:13 (UTC)[返信]

IPユーザ(60.56.35.3)は6月27日頃にも来ていた無期限ブロックユーザWP:FXSTと同一地域同一プロバイダですが、同一人物のなのでしょうか?バッサリ消しちゃっていいでしょうか?既に書いてあることが反論になってるように、建設的な議論をする意思も見られないようです。--量子力学のド素人ことryon 2007年7月1日 (日) 08:47 (UTC)[返信]


(6)

コメントのまとめ

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このコメント依頼の最大の論点は次の「AならばC」が成立するかどうかです。

  • 自分の独断で保護解除したページの解除直後編集(A)
  • 管理者権限の濫用=『シスオペヴァンダル』(B)
  • 許されない(C)

「AならばB」かつ「BならばC」が成り立つなら「AならばC」が成り立ちます(三段論法)。では、「AならばB」や「BならばC」が成り立っているのでしょうか。Nekosuki600氏は、「BならばC」について理論武装して力説されています。そこまでせずとも「BならばC」が成り立つのは誰の目から見ても明らかでしょう。しかし、「AならばB」については、具体的な異論がある一方で、成立する根拠については一切挙げられていません。どんなに「BならばC」の正しさを力説しようとも、「AならばB」が成立しないなら「AならばC」も成立しません。「AならばC」が成立するかどうかを論じるなら、「AならばB」が成立するかどうかの議論も避けて通れません。それは、結論を180度変えるほど重大な問題であり、決して、「独自の視点でコメント」「話題の拡散」「場違い」ではないはずです。

以上に基づいて、本件の論点をまとめ直します。

  • 今回のMiya氏の行為は管理者権限の濫用だったか?=「AならばB」
    • 保護解除依頼等の手続きを経ない保護解除は管理者権限の濫用か?(Nekosuki600氏は争点でないと仰るが、手続き抜きを問題視しているようにも見えます)
      • 「保護解除の方針が[2007年3月12日 (月) 08:37の版]でcopyeditの名で改変されたことに原因の一端があります。つまり、もともと管理者に裁量を認めていたものが、提案ぬきにリクエストを通じる場合のみに変更されたため、異なる理解が生じたということです。」とする指摘[6]
    • 保護解除直後に自ら記事を編集するのは管理者権限の濫用か?
      • 「Wikipediaには「編集解除後に編集解除を行った管理者が編集を行ってはならない」という明文化されたルールは存在しません」とする指摘[7]
      • 「編集したくて解除するのは何かまずいのでしょうか? その逆、つまり編集合戦になっている項目について自分が編集したあと保護するのがよろしくないというのは明らかですが。」とする指摘[8][9]にも同様の指摘あり)
      • これは「一連の保護解除の1つ」であり「体裁の調整を除けば、あからさまに怪しげな記述をコメントアウトしているだけ」で「保護されっぱなしの記事を保護解除して、ついでに編集した」のではないかとする見解[10]
  • 管理者権限の濫用は許されないか?=「BならばC」(Nekosuki600氏は力説して理論武装しているが、誰も異論を唱えておらず、争点になっていない。)

以上、双方の主張から、争点となっているのは「保護解除直後に自ら記事を編集する」ことが管理者権限の濫用に該当するかどうかだけです。その争点に関する意見を箇条書きにします(主観判断は除き、具体的理由に限る)。適切でないとする理由は次のとおり。

  • 何となく管理者権限の濫用っぽい印象を受ける
  • 具体的な実害として管理者が三日天下を気取れる

(上の事例が恣意的なまとめ方だという非難はご遠慮ください。説明を完全に拒絶されている[11][12]以上、既に述べられた意見から推測で判断するしかなく、可能な限り考えられる理由を列挙したため、このようなまとめ方になっています。)

問題がないとする理由は次のとおり。

  • 生じうる実害は編集合戦の再燃だけであり、それは純粋に解除判断が適切であったかどうかの問題であり、直後の編集の有無とは別問題
  • ルールに列挙された解除理由に該当するかどうかで解除の妥当性が判断できる
  • 編集合戦の懸念以外は何ら実害がなく(全ての者に公平な編集機会が与えられるなら権限の濫用とは言えない)、権限を要しない編集行為を濫用とは見なせない
  • 動機は本人しか分からず、論じても実効性がない
  • 解除から時間をおいた編集でも編集時期が変わるだけで実質的には直後の編集と変わらない
  • ウィキペディアの基本方針に従い、制限は必要最小限に止めるべき

尚、次のような意見は判断理由ではない(「更にその先」の意見=「BならばC」=主張に争いがない)ので除外しました。

  • 独断で行うのは不適切であり、コミュニティの合意を得るべき

以上、抜けや間違いがあったり新たな理由が追加されたら、適宜追記または修正してください。--量子力学のド素人ことryon 2007年7月1日 (日) 09:17 (UTC) 「おいおい、勝手にまとめるんじゃねえよ」と非難されるならば、見出しレベルを一つ下げます。--量子力学のド素人ことryon 2007年7月1日 (日) 09:25 (UTC)[返信]