Wikipedia:井戸端/subj/"特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成"を禁止する方針は破たんしている
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"特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成"を禁止する方針は破たんしている
[編集]どのような文章を書いても、リンク集を作っても、 どの言葉を使うか、使わないか、何をリンクして何をリンクしないかという判断には投稿者の解釈や願望や立場等の独自性が反映されます。 中立というためには、網羅的に関連するすべてのものを列挙するか、何も列挙しないかしかありません。 しかし何を関連すると考えるかというところにも投稿者の独自性が存在します。
例えば、wikipediaは様々な事件についての記述があり、メディアの記事がリンクされています。 投稿者はメディアの膨大な記事の中から一部を選べる立場にあり、そこに自身の立場を反映させれます。 これこそ”特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成”です。 即ちその方針に従えばwikipediaは一切の外部リンクを持たないかあらゆるリンクを持たなければなりません。
例えば、wikipediaは様々な事物についての記述があり、様々な言葉が使われます。 投稿者は事物をどの言葉と関連付けるかを選べる立場にあり、そこに独自研究を反映させれます。
その方針があると、wikipediaの運用は恣意的にならざるをえません。 ある時は”特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成”を認め、 ある時は認めないということになるしかないでしょう。 私は、wikipediaの記事の99%はその方針に違反していると思います。 私は、wikipediaを読むとき投稿者によって見せられる情報を選択されている事で 解釈や立場を誘導されていると思います。
--Weolirq(会話) 2016年4月4日 (月) 12:33 (UTC)
- コメント WP:SYNは、どのような事実を取捨選択するかについて述べたものではありません。それはWP:NPOVにしたがって判断すべきものです。--Jkr2255 2016年4月4日 (月) 12:47 (UTC)
- コメントぼくも、wikipediaは、執筆者によって見せられる情報が選択されているし、その解釈や立場で読者が誘導されている面もあるとは思います。それでも、見せられている情報の選択が適切であればそれでよいし、誘導先が妥当ならばそれで役には立ちます。もし、その適切さや妥当さに対して疑問を持つならば、記事を修正することができます。よりよい記事にするために、情報源を追加することもできます。十分資料をあたっていない記事では、偏りが生じているでしょうし、偏らせることも可能ですが、それはまだ適切な修正がなされていない記事、とウィキペディアでは考えます。
- 記事は一人で書くものではありません。どの言葉を使うか、使わないか、何をリンクして何をリンクしないかという判断には投稿者の解釈や願望や立場等の独自性が反映されますが、おおよそ多くの人が合意に至る、妥当な選択に収束することが期待されています。信頼できる情報源に書かれている事柄は、動かすことができない。動かすことができない事柄と事柄を結び付ける時に、書き手に与えられる自由度は、それほど大きなものにはなりません。多くのメディアが発信する膨大な情報は、「投稿者」以外の投稿者も閲覧できるのですから、その選択自体が検証にさらされます。新奇な解釈や、投稿者の願望や立場に寄り過ぎた記述は、「投稿者」対「その投稿者以外の投稿者たち」という構図により、否定されることになります。場合によっては「投稿者」の解釈が正当なもので、その他が烏合の衆ってこともあるでしょうけれど、そうした場合は「投稿者」は多くの信頼できる情報源を提示することで、自身の記述の確かさを強化することができます。そうした記述を否定するということは、多くの信頼できる情報源を含めて否定するということです。そうやって、確からしさを確保していくのが科学の方法論で、ウィキペディアも(素朴に)それを踏襲している。その上で、自由度が高くなる「解釈」や「分析」は、排除する、と。--Ks aka 98(会話) 2016年4月4日 (月) 13:12 (UTC)
- コメントWP:SYNは”誤謬の否定”ですか?見出しを見ると情報の取捨選択による独自性の否定のようです。--Weolirq(会話) 2016年4月4日 (月) 16:35 (UTC)
コメント揺らぎがあることこそ、一番の真髄だと思うけどね。遺伝的アルゴリズムとか調べてみると良いよ。——以上の署名の無いコメントは、119.104.71.139(ノート/Whois IPv4 ・ IPv6)さんが 2016年4月19日 (火) 21:55 に投稿したものです(Senatsuki(会話)による付記)。