Wikipedia:井戸端/subj/コンピレーション・アルバムは二次資料として有効か
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コンピレーション・アルバムは二次資料として有効か
[編集]11月上旬を目処に無期限でウィキブレイクに入る予定なので、今後の編集に際して有効な指針を一つでも残せればと思い、皆様に相談させていただきます。
特定の楽曲について、その楽曲がコンピレーション・アルバムに収録された場合の扱いについて、これは二次資料として有効と認められますでしょうか。具体的には、以下のような論点が考えられると思います。
- ジャケットやブックレットの記載事項は出典として有効か。その場合は一次資料と二次資料のどちらに分類すべきか。
- その楽曲がコンピレーション・アルバムに収録された事実は「収録にふさわしい理由がある」と選者に認められた評価と言えるかどうか。
- 原曲と同一のレコード会社が発売したコンピレーション・アルバムの場合は「利害関係者の評価」に該当するので外部の二次資料として扱ってはならないのか。
以上、皆様のご意見をお願いします。--江東琴(会話) 2012年10月29日 (月) 12:35 (UTC)
- コメント 一次資料でしょう。ただし、既に多くのコンピレーション・アルバムに収録されている楽曲は、恐らくその事実、またはスタンダードとして定着していること自体がその楽曲の特筆性・著名性を担保しています(ボサノヴァならイパネマの娘でしょうし、ポロネーズなら英雄ポロネーズレベルでしたらもう、議論の余地などありません)。1枚や2枚のお話であれば、ただの商業的理由であると想像した方が良いでしょう。また、もしブックレットに誰の目にも著名な音楽評論家の解説が入っている場合には、それをとって○○は××と評した、とすることは一応可能ではあります。ですが、一般的な「紙」媒体の文献に比べてどうしても記述は薄いですし、検証容易性(入手容易性)も劣りますから、できるだけ紙媒体のものを使いたいですね。--Hman(会話) 2012年10月29日 (月) 13:22 (UTC)
- 反対 「11月上旬を目処に無期限でウィキブレイクに入る予定」ならば、まず「Wikipedia:削除依頼/輝け潮流」で指摘された点を改善し後始末をつけるべきではないでしょうか。出典の提示はウィキペディアの基本中の基本でしょう。それすらできない人物が、「今後の編集に際して有効な指針を一つでも残せればと思」う必要などありません。まずご自分の問題を解決してからではないでしょうか。重大な問題をはらむ編集を繰り返しておきながら、それを何一つ解決せぬまま別件に首を突っ込む資格などあるとは到底思えません。また、「無期限でウィキブレイクに入る予定」とのことですが、ウィキペディアの基本すら守れず重大な問題の解決に一切尽力せぬまま勝手に「無期限でウィキブレイク」を宣言したわけですから、そのような言動が他の利用者に受け入れられるとお思いですか? 将来的に、仮に別アカウントで復帰、あるいは、今と同じアカウントで復帰した場合、他の利用者から再度厳しいご指摘があることと思います。いずれにせよ、「今後の編集に際して有効な指針を一つでも残せればと思」う必要などなく、まずあなたが今まで執筆した記事について出典を明示するが先でしょう。このような無責任な言動が、他の利用者から支持されるとは到底思えません--111.188.43.114 2012年10月29日 (月) 15:30 (UTC) --(注)Wikipedia:個人攻撃はしない#個人攻撃の除去を適用し、方針に違反する部分に限りコメントアウトしました。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 08:58 (UTC)コメントアウト解除。--ikedat76(会話) 2012年10月30日 (火) 15:02 (UTC)
- 有効。一次資料。
- 要するに特筆性を担保する有意な第三者言及とみなせるかということですよね。基本的にそれはちょっと無理でしょう。
- 2番と同じ理由ですけど、「第三者」とは言えないでしょう。ただ、ある曲が、このアルバムやあのアルバムにも入っている、などと記事に加筆するのは、基本的には大丈夫だと思います。Hmanさんが言っている通り、様々なアルバムに入っている曲、様々なアーティストにカバーされている曲というのは有名な曲、売れた曲ということであって、雑誌・新聞などを探せば有意な第三者言及は見つかるはずです。--Bugandhoney(会話) 2012年10月29日 (月) 22:49 (UTC)
- コメント IPユーザーの方が書かれている案件については先ほど対応しましたが、その余の部分に関してはWikipedia:善意にとることが一切不可能な人格攻撃以外の何物でもなく非常に遺憾です。
- そのうえでHmanさんとBugandhoneyさんのご意見に返答させていただくと、2に関しては楽曲が作られた経緯などに関しても製作からかなり年月が経過した曲の解説などの場合は状況によって「一次資料」にも「二次資料」にも成り得る状況が想定され、一律に「一次資料だから有効な出典として使えない」と言うのは必ずしも当てはまらない場合もあるのではないかと思います。音源資料に関しては国立国会図書館や昭和館に保存されている場合もあるので、検証可能性やアクセスの容易性は出版物ほどは高くないにしても0ではないのではないかと思います。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 07:03 (UTC)
- 私はゼロだとは申し上げておりませんよ。一般論では比較して、入手容易性が劣ると申し上げているに過ぎません。選択の余地があるのであれば・内容が同等なのであれば、入手が容易な方を敢えて却下し、入手・検証が著しく困難な方を敢えて採用する意味はないでしょう(新聞記事でしたら、ネットニュースのurlと本紙書誌情報、両方記せば盤石でしょうね)。確かに「できるだけ」と申し上げたはずなのですが・・・。
- また、一次資料は有効な出典として認められないとも申し上げておりません。一次資料も注意深く用いれば、出典として用いることが可能であることについては、ウィキペディア全体で既に相応のコンセンサスが得られていると見てよろしいです(Wikipedia:信頼できる情報源。もちろん二次資料の方がより一層好ましい場合が多いと言うことにつきましても、明らかです)。ですから、その点についてこの場でお話する必要は恐らくありません。と申しますか、アニメマンガ小説などのジャンルではありふれているではないですか。・・・どうも、論点が変わってきておりませんか。コンピレーションアルバムをポンと出されて、「ほらこれに収録されている。だからこの曲は著名なんだ!」と、なるかならないかのお話だったのではありませんか?1枚2枚では、それは無いです。それが「私が確認できただけでも十枚数枚のコンピレーションアルバムに収録されている。初期のジャズと言えば、かなりの割合でこの曲が挙げられる事は明らかでもある。だからこの曲は著名なんだ!」であれば、全く問題はありません。しかしこのレベルであれば、Bugandhoneyさんの仰るとおり、第三者による別の言及が見付けられない事はちょっと考えにくいのも、確かにそうですね。まあ、枚数についてはっきりした割合はありません。トリビュートアルバム各々の立ち位置や権威も検討しないといけないからです。あるアーチストが「自己ベスト・アルバムでセルフカヴァーした」上で「ライヴDVDで複数回の収録が客観的に確認できる」のであれば、その楽曲はそのアーチストにとって、代表曲である可能性があります。・・・ですが、これだけでは代表曲だと断ずるには一歩至らないですね・・・。打姫オバカミーコと言う漫画において、後書きで作者が「これは自身の代表作である」と明記なされていたのでその旨加筆した、ということがございますが・・・。とまあ、多少脱線してしまいましたが、ケースバイケースを忘れて文言上だけでのお話はなかなか難しい場合もある、と言うことでございます。--Hman(会話) 2012年10月30日 (火) 07:23 (UTC)
- コメント はい、ケースバイケースであると言う点に関して異論はありません。レコードで発売された曲がコンピレーション・アルバムへの収録によってCD音源化され、アクセスが容易になっているケースなどはCD化された音源の存在を示す記述自体に有益性があることに争いは無いはずですし。ただ、編集者の価値観や姿勢によっては「これは二次資料じゃないから全く特筆性の証明になっていない! だからケースEで削除!」と頑として主張する事例と言うのが容易に想定されるので、どのあたりの認識が多数意見か知りたいと思ったのがこの話題を提起した理由の一つです。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 07:47 (UTC)
- そうですね、コンピレーションアルバムの1枚2枚、これしか特筆性の担保が無いのであれば、これは証明できていない。削除!と言われても仕方がない、と言うケースが非常に多い様に想像します。特筆性を担保するものは、Wikipedia:特筆性 周りの文書で示されている大雑把な目安い以外につきましては、基本的には二次資料による言及なので(念のため繰り返しますが、コンピレーションアルバムへの1回2回の収録と中立で権威のある二次資料による有意な言及はイコールではありません。全く。)。もちろん初心の方ならそのくらいの手落ちは致し方有りませんし(私もいい加減JAWPが長いですが、小さなミスはしょっちゅうです)、そういったケースをお見かけ致しましたら、適切な特筆性の担保についてご説明頂けるとよろしいんじゃないでしょうか。--Hman(会話) 2012年10月30日 (火) 07:53 (UTC)
- コメント そう出来るものならばしたいのはやまやまですが、見ての通り上記IPユーザーの方から人格攻撃されるレベルの重大な失態を犯しているので特筆性(そもそもこの名称は解説対象の社会的信用を貶める印象を読者に与えかねないので何らかの形で改名すべきと思っています)について他の編集者諸賢にどうこう言う資格は自分にはありません。それでも今後、他の編集者がこのサブページを読んで出典の選択に関する指標となるのであれば、この話題を提起した意義は十分にあったと思います。どうもありがとうございました。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 08:10 (UTC)
- そうですね、コンピレーションアルバムの1枚2枚、これしか特筆性の担保が無いのであれば、これは証明できていない。削除!と言われても仕方がない、と言うケースが非常に多い様に想像します。特筆性を担保するものは、Wikipedia:特筆性 周りの文書で示されている大雑把な目安い以外につきましては、基本的には二次資料による言及なので(念のため繰り返しますが、コンピレーションアルバムへの1回2回の収録と中立で権威のある二次資料による有意な言及はイコールではありません。全く。)。もちろん初心の方ならそのくらいの手落ちは致し方有りませんし(私もいい加減JAWPが長いですが、小さなミスはしょっちゅうです)、そういったケースをお見かけ致しましたら、適切な特筆性の担保についてご説明頂けるとよろしいんじゃないでしょうか。--Hman(会話) 2012年10月30日 (火) 07:53 (UTC)
- コメント はい、ケースバイケースであると言う点に関して異論はありません。レコードで発売された曲がコンピレーション・アルバムへの収録によってCD音源化され、アクセスが容易になっているケースなどはCD化された音源の存在を示す記述自体に有益性があることに争いは無いはずですし。ただ、編集者の価値観や姿勢によっては「これは二次資料じゃないから全く特筆性の証明になっていない! だからケースEで削除!」と頑として主張する事例と言うのが容易に想定されるので、どのあたりの認識が多数意見か知りたいと思ったのがこの話題を提起した理由の一つです。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 07:47 (UTC)
あのですね、「Wikipedia:削除依頼/輝け潮流」も見ましたけど、特筆性タグに関して誤解されているようです。WP:AGFに言及されてましたけど、これはどういう意味かというと、ウィキペディアのあらゆる編集は(荒らしのような誰の目にも明らかな意図的な記事の破壊を除いて)、記事を改善するための試みであるとみなせ、ということです。特筆性タグの添付も記事を改善するためのきっかけと捉えるべきであって(それを見た別の編集者が出典を追加するかも知れないですし)、記事主題に対する否定的な評価であるとか、ましてやあなたが作成した記事をけなそうとしている、などと受け取ったらだめです。確かに、特筆性タグが貼られた記事は削除される可能性はありますが、実際に削除依頼に出すかどうかは編集者の裁量です。特筆性タグが貼られたまま長らく存続している記事はウィキペディアにはたくさんあります。今は記事には有意な第三者言及が含まれていないが、それはググっても出てこないだけであって、丁寧に紙媒体の資料に当たればありそうだ、というような判断がはたらけば、削除依頼に出すのではなくて出典の追加を待ったほうがプロジェクトの益となる、というふうになります。古い球団応援歌に関しては特にそれが当てはまるでしょう。
それで、フィクション作品記事では伝統的に作品そのもの(つまり、一次資料)を基に、作品の基礎的なデータを提供することは認められています。ですから、CDやレコードに関しても、CDそのものやライナーを基に、作詞者・作曲者・編曲者が誰であるかとか、長さとか、B面の曲は何かとか、その作品ができた経緯を記述するのは別にかまわないでしょう。ライナーが出典になっているとすぐには判別できないような情報には、そうと分かるように註をつけておくとさらによいと思います。
最後に、ウィキブレイクに関してですけど、もしも削除依頼での批判がきっかけなのだとしたら非常に残念です。間違いや失敗を認めてなり直そうとしている人は暖かく迎えるというのがウィキペディアの伝統なのであって、今後とも大胆に編集を続けていただければと。--Bugandhoney(会話) 2012年10月30日 (火) 13:52 (UTC)
- 感謝 ご指摘を真摯に受け止めます。ただ、執筆・編集者間ではその認識で良くとも編集を行わない読者が特筆性タグの貼られた解説記事を見てどのような印象を抱くかは別の問題であり、現状でも大小の軋轢があることを考えるにどこかで改善を図らないとさらに大きな問題が発生するのではないかと危惧しています。「もしも削除依頼での批判がきっかけなのだとしたら非常に残念です。間違いや失敗を認めてなり直そうとしている人は暖かく迎えるというのがウィキペディアの伝統」との暖かいお言葉はありがたく受け取りますが、見ていただいてもおわかりのように不適切な判断での投稿とその後の対応の誤りが原因で記事の削除の是非と直接的には無関係な個人攻撃としかみなせない糾弾がエスカレートしており、この問題より以前から精神的にも疲弊がピークに達していたので当面、編集から離れるのが最善であるとの判断によります。お心遣いありがとうございました。 --江東琴(会話) 2012年10月30日 (火) 14:24 (UTC)
- コメント問題を解決せずにウィキペディアを離れようとするのであれば、批判(「無関係な個人攻撃」でも「糾弾」でもあり得ません)されて当然です。失礼を省みず言えば、件の削除以来でBellisさんがご指摘の問題を解決することなく「尻尾を巻く」のであれば、批判が正しいことを自ら認めるのと同断でしょう。--ikedat76(会話) 2012年10月30日 (火) 15:02 (UTC)
- コメント 最初に。「批判であって個人攻撃ではない」(大意)は個人攻撃を正当化する際の常套句であることを率直に指摘させていただきます。次に、ここは一般論についての話題をする場であって貴殿のような直接的に関係の無い問題を持ち込む行動は適切な手法とは思えません。削除の審議対象になっている記事の初版投稿時に参照したソースを開示すべきであるとの貴殿の要求に対しては、最初に躊躇したのが誤りであったことを認めて応じており、それ以上の到底Wikipedia:善意にとることなど不可能な「こんな欠陥記事を平然と投稿する編集者が書いた記事は全部、そうでなくともほとんどが捏造に決まってる」(大意)と決め打ちして「無期限ブロック」の可能性まで明言するような特定編集者の予断を前提に悪魔の証明を強要する行為には、審議の対象となっている記事の削除そのものの是非とは関係が無いので応じられません。そのような予断を持つこともそれに同意することも自由ですが「そもそもこんな奴の書いた記事は捏造に決まってる、そうに違いない」との信ずるに足る理由があるのならば、執筆者本人に削除の審議と直接の関係が無い範囲にまで悪魔の証明を強要するのではなく堂々と「信用に値しない編集者が書いた記事」であること“だけ”を理由に掲げて削除依頼を出せば良いでしょう。繰り返しになりますが、貴殿が特定編集者の予断に基づく批判の域を逸脱した個人攻撃に同意されるのも、それが「個人攻撃」でなく「批判」であると信じることも自由です。不適切な対応を重ね、他の編集者諸賢にそのような悪印象を抱かれる責任は当方の側にも存在することは認めます。しかし、この場で行っている「批判」と主張される行為はこの場所で行うべきではありませんので、その点の分別に関してだけは最低でも遵守していただきたいと思います。 --江東琴(会話) 2012年10月31日 (水) 05:32 (UTC)
- コメント いくつかコメント。
- 「「批判であって個人攻撃ではない」(大意)は個人攻撃を正当化する際の常套句」
- 仮に「批判であって個人攻撃ではない」という主張が個人攻撃を正当化する際の常套句だったとしても、今回の井戸端での発言は個人攻撃に該当しないでしょう。それとも、「『批判であって個人攻撃ではない』と主張する場合は、いかなる時も常に個人攻撃を正当化するのが目的である」という説でも主張するおつもりでしょうか。個人攻撃を正当化する常套句であること、と、今回の発言が個人攻撃であるかどうか、という点には特に関連性はないはずですよね。
- 「直接的に関係の無い問題を持ち込む行動は適切な手法とは思えません」
- 今回の井戸端の議論は、冒頭で「二次資料として有効と認められますでしょうか」と述べているわけですから、明らかに二次資料など文献資料に関する議論ですよね。しかし、その議論の提案者自身が、そもそも参考にした文献資料の明記を拒み続けている当事者なのですから、「直接的に関係の無い問題」であるはずがありません。もし、出典や文献資料と関連しない話題だったなら、「直接的に関係の無い問題」といえるかもしれません。しかし、「Wikipedia:削除依頼/輝け潮流」にて適切な出典提示の重要性を何ら理解していない発言を繰り返していた人物が、一方では井戸端で出典にまつわる議論を開始し始めたというのですから、関係しないはずがないでしょう。
- 「「こんな欠陥記事を平然と投稿する編集者が書いた記事は全部、そうでなくともほとんどが捏造に決まってる」(大意)と決め打ちして「無期限ブロック」の可能性まで明言するような特定編集者の予断を前提に悪魔の証明を強要する行為」
- 「Wikipedia:削除依頼/輝け潮流」での指摘事項について、何ら理解していないということでしょうか。それとも、嘘をでっちあげて同情を買おうという試みでしょうか。「Wikipedia:削除依頼/輝け潮流」での貴兄への指摘事項は、「「こんな欠陥記事を平然と投稿する編集者が書いた記事は全部、そうでなくともほとんどが捏造に決まってる」(大意)」という内容などではありません。「大意」といっていますが、いったいなにをどう要約したというのでしょうか。Bellis氏やikedat76氏をはじめとするみなさんが、そんなことをいっていたでしょうか? 捏造か否かなど重要な論点になっていたでしょうか? もし言っていたというなら差分urlを出してください。もし誰も「こんな欠陥記事を平然と投稿する編集者が書いた記事は全部、そうでなくともほとんどが捏造に決まってる」と主張していなかった場合、貴兄は他人の主張をでっちあげたことになりますし、Bellis氏やikedat76氏の名誉を汚すことになります。かなり重大な問題をはらんでいると思いますので、きちんとご説明してください。
- 「堂々と「信用に値しない編集者が書いた記事」であること“だけ”を理由に掲げて削除依頼を出せば良い」
- 自分のしでかした不祥事の後始末を、他人に押し付けるのはおやめください。自分の執筆した記事について、他人に削除依頼を出させようとしていますが、それよりもっと労力が少なくてすむ解決方法が既に示されているはずです。なのにどうしてその解決方法を採用せずに、他人に「削除依頼を出せば良い」などと求めるのでしょうか。自分の義務を果たすべきではないでしょうか。なお、補足となりますが、貴兄のコメントの中で「「信用に値しない編集者が書いた記事」であること“だけ”を理由に掲げて」などとおっしゃっていますが、前段で申しあげたとおり、「信用に値しない編集者が書いた記事だから削除せよ」などと主張しているは一人もおらず、そんなことは論点になっておりませんので、その点も申し添えておきます。
- 「「批判であって個人攻撃ではない」(大意)は個人攻撃を正当化する際の常套句」
- 以上です。なお、重ねてのお願いとなりますが、Bellis氏やikedat76氏などの発言を曲解して「大意」と記載したことについては、該当する利用者の名誉を傷つける恐れもあり極めて重大な問題ですので、貴兄による速やかな説明を求めます。--114.49.19.241 2012年10月31日 (水) 16:07 (UTC)
- ここは井戸端ですし(利用者の行為に対するコメント依頼ではない。会話ページでもない)、当の江東琴さんは恐らく数日内外に無期限のウィキブレイクに入られるのですから、もう良いでしょう。もし第三者による査読・検討や削除依頼が必要であるのであれば、場を改めませんか。江東琴さんにおかれましてはできましたらご自身のこれまでのご投稿を省み信頼できないまたは何らかの事情で開示できない情報源によった記述につきまして、ご自身が必要と思われるケアをしてからにして頂けますと、よろしいと思います。--Hman(会話) 2012年10月31日 (水) 17:32 (UTC)
- コメント いくつかコメント。
- コメント 最初に。「批判であって個人攻撃ではない」(大意)は個人攻撃を正当化する際の常套句であることを率直に指摘させていただきます。次に、ここは一般論についての話題をする場であって貴殿のような直接的に関係の無い問題を持ち込む行動は適切な手法とは思えません。削除の審議対象になっている記事の初版投稿時に参照したソースを開示すべきであるとの貴殿の要求に対しては、最初に躊躇したのが誤りであったことを認めて応じており、それ以上の到底Wikipedia:善意にとることなど不可能な「こんな欠陥記事を平然と投稿する編集者が書いた記事は全部、そうでなくともほとんどが捏造に決まってる」(大意)と決め打ちして「無期限ブロック」の可能性まで明言するような特定編集者の予断を前提に悪魔の証明を強要する行為には、審議の対象となっている記事の削除そのものの是非とは関係が無いので応じられません。そのような予断を持つこともそれに同意することも自由ですが「そもそもこんな奴の書いた記事は捏造に決まってる、そうに違いない」との信ずるに足る理由があるのならば、執筆者本人に削除の審議と直接の関係が無い範囲にまで悪魔の証明を強要するのではなく堂々と「信用に値しない編集者が書いた記事」であること“だけ”を理由に掲げて削除依頼を出せば良いでしょう。繰り返しになりますが、貴殿が特定編集者の予断に基づく批判の域を逸脱した個人攻撃に同意されるのも、それが「個人攻撃」でなく「批判」であると信じることも自由です。不適切な対応を重ね、他の編集者諸賢にそのような悪印象を抱かれる責任は当方の側にも存在することは認めます。しかし、この場で行っている「批判」と主張される行為はこの場所で行うべきではありませんので、その点の分別に関してだけは最低でも遵守していただきたいと思います。 --江東琴(会話) 2012年10月31日 (水) 05:32 (UTC)
- コメント問題を解決せずにウィキペディアを離れようとするのであれば、批判(「無関係な個人攻撃」でも「糾弾」でもあり得ません)されて当然です。失礼を省みず言えば、件の削除以来でBellisさんがご指摘の問題を解決することなく「尻尾を巻く」のであれば、批判が正しいことを自ら認めるのと同断でしょう。--ikedat76(会話) 2012年10月30日 (火) 15:02 (UTC)
- コメント当事者により記載されているのだから1次資料になると思います。出典の可能性については営利目的で出しているものであることを考えるとその楽曲への評価については出典として望ましいとは思いません。一方、単純なデータ、楽曲の評価に影響しないエピソードについては出典として十分可能だと思います。いずれにしてももし特筆性があるのなら音楽雑誌などで言及されているのでそちらをあたるべきだと思います。最後にここは江東琴さんを批判する場ではありません。それにウィキブレイクされるようですのでそこまでにしておいてください。--みや1229(会話) 2012年11月1日 (木) 11:11 (UTC)
- 報告 可変IPユーザー氏が先に行った注意喚起に反して再度の議論妨害に及ばれたことは非常に遺憾です。IPユーザー氏およびIkedat76氏、そして両名が再三にわたって名前を挙げておられるBellis氏に対するコメント依頼を提出しましたので、井戸端の話題と関係の無いご主張はWikipedia:コメント依頼/イー・モバイル可変IP他へお願いします。削除審議中の記事を含む記事群の執筆経緯についても述べています。 --江東琴(会話) 2012年11月1日 (木) 11:16 (UTC)