Wikipedia:井戸端/subj/作詞者のクレジットが「作詩」や「作歌」の場合はその表記に従うべきか
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作詞者のクレジットが「作詩」や「作歌」の場合はその表記に従うべきか
[編集]浜松市歌(2007年に制定された現行の方)で例規集に「作詞」でなく「作詩」と表記されていることを理由に関連する記述が全て書き換えられたのを確認したのですが(投稿記録)、もっと古い時代のものでは「作詞」でも「作詩」でもなく「作歌」とされているものがあります( 例:『大海原』『唱歌 乃木大将』)。
「作詞」の解説を読んだところ「作詞」と「作詩」の違いは
「 | 子供向け作品やクラシック合唱曲などでは「作詩」と表記される場合も多いが、これは文字通り「詩を作る」ことであり、詩人が曲に関係なく詩を作り詩集などで公表された後に、作曲家がその詩に曲をつけたケースなどが多い。それらに対し、最初から曲のために歌詞を作ることは厳密には別の意味で、混同されて使われていることもある。 | 」 |
と説明されており、浜松市歌(2007年)の場合は「例規集にそう書いてあるから」以前に「最初から曲のために歌詞を作」っているので厳密には「作詩」ではなく「作詞」に該当するのではないか? と言う疑問が生じました。現に浜松交響楽団>第3回 はましんファミリーコンサートでは「浜松市歌作詞者」の記述があり、例規集ではあまり厳密な意味を込めて「作詩」の用字が選択されたとは考えにくい面があります。プロジェクト:音楽では過去に議論されていないようですが、もし典拠とすべき資料が「作詩」や「作歌」を使用している場合、一般的な用字の「作詞」を使ってはならないのでしょうか? --サンシャイン劇場(会話) 2015年7月4日 (土) 08:00 (UTC)
- まず、お読みになった「作詞」を鵜呑みにするべきではありません。当該記事は出典が全く示されておらず、いつ除去されるやもしれない記述です。全く間違ったことを言っている訳でもないのですが、正しい訳でもないのです。
- 典拠とすべき資料が「作詩」や「作歌」を使用している場合、もしかしたら詩が先にあって曲をつけているかもしれませんね。或いは曲が先にあっても、作者が自身の作品を詩であると主張しているかもしれません。もちろん、当該資料の作成者が漢字変換を誤っただけなのかもしれません。厳密な意味を込めて作詩としたのでは無い(考え難い、ではなく)とする明確な資料が無ければ、そのまま作詩で良いのではないでしょうか。態々用語を統一する程のものではありません。--LudwigSK(Talk/History) 2015年7月4日 (土) 22:53 (UTC)
- ウィキペディアの作詞の項目は情報源が示されていませんから、参考にできない。とりあえずネットで拾い出してみると、一般的な区別は[1][2]あたり、業界事情的なものとして[3][4]あたりが参考になるでしょうか。
- 要約欄で書かれていましたが、浜松市は作詩を使用[5]、林望さんは職業的な作詞者ではなく詩人としての経歴もあり、実際の歌詞/歌詩を見ると歌謡曲~ポピュラー音楽的な定型に則ってるものでもなさそうです。この記事については、明らかに「詞」のほうがいい、というものではなく、このような場合は積極的に「作詞」を用いようという合意はないため、基本的にはノートかプロジェクトで合意を目指すということになると思います。
- 一般論としては、情報源が「作詩」であっても「作詞を使ってはならない」ということはないですが、作詩が好ましいと考える人がいた場合に、作詞を押し通してはならず、用例、制作の経緯、作り手のこだわり、活動した時代、実作の内容など、情報収集をして、対話により合意を試みる。--Ks aka 98(会話) 2015年7月5日 (日) 04:20 (UTC)
本題から逸れてしまうのかも知れませんが、先日Dr jimmy氏がおそらく無作為に「詩」を「詞」に変えてまわられたようです。基本的には検証性の観点から情報源に沿った表記であるべきと考えるのですがいかがでしょうか。もちろん情報源が作詞であるのに作詩となっていた場合に書き換えるのには異論ありません。--はぬまん(会話) 2015年7月5日 (日) 21:37 (UTC)
- 皆さまご意見ありがとうございます。ここまでに出された意見の多くで一致している「原典の表記を優先すべき」との判断について基本的に異論はありません。ただ、判断が難しいのは楽譜の初版で「作歌」とされていて、現在も市販されている楽譜では「作詞」とされているような場合ですがそのような場合は「作詞」としている資料があることを理由にわかりやすさを優先して「作詞」と書いても問題ないのでしょうか。また、楽曲の一覧などがある場合はおそらく個々の楽曲の製作過程に注意を払うことなく「作詞」に統一されている可能性が高いと思われますがいかがでしょう。 --サンシャイン劇場(会話) 2015年7月8日 (水) 11:10 (UTC)
- 出典とすべき信頼できる情報源があるのなら「作詞」としても構わないでしょう。ただし、そののち他の編集者が初版楽譜を出典として「作歌」を併記あるいは注記する編集を行ったとしても、それを妨げることはできません(というか、初版楽譜では「作歌」となっていることを予め知っているのであれば、良心的には最初から併記あるいは注記すべきでしょう)。一覧の方については、「作詞」に統一されていてそれが間違っていることが判明しているならば、粛々と訂正していけばよいだけの話です。--106.188.109.159 2015年7月9日 (木) 15:17 (UTC)
- とある御方がひたすら「作詩」を「作詞」に置き換えていらっしゃり、私のノートページでずっと議論中なのでありますが、私としては原典が「作詩」との表記であるならば、それを用いるべきと再三に亘って提言したのでありますが、どうにもお気に召さないようでしたので、現時点では折衷案として該当する記事に『出典では「作詩」と記載されている』と但し書きをしている状況です(私がもし此処で「作詞」を「作詩」に変更しても堂々巡りでしょうから…)。原典で「作詞」表記されている作品に関して「作詞」を此方でも表記することに異論は御座いませんが、「作詩」と敢えて用いられている場合は「詩」を用いるべきだと考えます。皆樣の御考えは如何でありますでしょうか。御伺いすることが出來ましたら幸いであります。--Sandra-horn(会話) 2015年7月12日 (日) 22:42 (UTC)
- 要約欄にも記述致しましたが、一部文章を追記させて戴きました。この場をお借りして御報告申し上げます。--Sandra-horn(会話) 2015年7月12日 (日) 23:23 (UTC)
- ノートページを簡単にではありますが読ませていただきました。私も検証可能性の観点から「作詩」とあるならばそのまま用いるべきだと考えます。と、言いますか…Dr jimmy氏の発言趣旨は、とどのつまり「作詞」の方が一般的な表記であるとDr jimmy氏が考えるからそれを推し進める以上のものになっていないのではないでしょうか?本来のwikipediaにおいての記述がどうあるべきかと考えると、実際に一般的であるかどうかというのも判断基準に差し挟むべきではない様に思います。議論が脱線してよく分からなくなっているように見受けられますが、シンプルに、「作詩」と書いてあるかないか、書いてない表記はするべきではない、それ以上のものではない様に思われます。--はぬまん(会話) 2015年7月13日 (月) 12:23 (UTC)
- 要約欄にも記述致しましたが、一部文章を追記させて戴きました。この場をお借りして御報告申し上げます。--Sandra-horn(会話) 2015年7月12日 (日) 23:23 (UTC)
「とどのつまり「作詞」の方が一般的な表記であるとDr jimmy氏が考えるからそれを推し進める」(はぬまんさん、2015年7月13日 (月) 12:23 (UTC))、まして、出典も何もお構いなしで一律で人間botよろしく置換して廻るなどというのは、もはや方針不理解と見なしてもさしつかえないでしょう。Sandra-hornさんも、手に余るようであれば個人の会話ページでいつまでも相手をせず(無駄です、中には最初から相手の消耗狙い・根負け狙いという輩もいます)、コメント依頼の利用をご検討いただくことをおすすめします。--ikedat76(会話) 2015年7月16日 (木) 12:08 (UTC)
- 当方から申し上げますが、例えば和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」は当初からクレジットが『作詞』と表記されています。しかし弘田三枝子「渚のうわさ」や水前寺清子「昭和放浪記」は『作詩』と表記されています。当初の表記を用いたのですが此方の御方によって『作詞』と変更され、其れに対して異議申し立てを行いました處当方の会話ページにて論戦が続き、膠着状態に陥っているのです。現状の儘では困惑するばかりです故、ikedat76樣の御提案に従いコメント依頼に出そうと思います。--Sandra-horn(会話) 2015年7月17日 (金) 17:40 (UTC)
- あぁ、なるほど。えぇと、そういうことではなくてですね…個人の会話ページへのコメント依頼ではなく、コメント依頼の「利用者の行為についてのコメント依頼」を提出してはいかがか、とIkedat76さんは仰っているのだと思います。会話ページですと、まあ基本的には個人同士のやり取りの場になりますし。--はぬまん(会話) 2015年7月17日 (金) 17:58 (UTC)
- 当方の会話ページを「利用者の行為についてのコメント依頼」ではなく「合意形成のためのコメント依頼」に提出致しましたことを御報告致します。--Sandra-horn(会話) 2015年7月17日 (金) 18:12 (UTC)
- 横から失礼いたします。ご提出されたWikipedia:コメント依頼ですが、利用者の行為についてのコメント依頼をご提出されていますがリンク先誤っていませんか?2008年のコメント依頼になっていますが…。--途方シネマズ(会話) 2015年7月22日 (水) 00:45 (UTC)
- あら、やだ…確かにそうなっていますね。何故でしょう?過去にも似たような事態がが有り自動転送されている、と?まだ仕様が呑み込めていません。相済みません。--Sandra-horn(会話) 2015年7月22日 (水) 00:51 (UTC)
- 自動転送とか云々ではなく、ただ単に過去のDr jimmyさんへのコメント依頼を貼ってただけではないですか。リンク先はHyolee2さんによって訂正されていますが、ページが未作成になっています。利用者の行為についてのコメント依頼であれば、利用者の会話ページに転送すると考えておられたのであれば、それは誤りです。別途コメント依頼のページを作成してください
(こちらを作成してください)。--以上の署名の無いコメントは、途方シネマズ(会話・投稿記録)さんによるものです。--Sandra-horn(会話) 2015年7月22日 (水) 03:25 (UTC)- 失礼致しました(システムが理解出來ていませんでしたので)。申し訳御座いません。「利用者のコメント依頼」は取り下げて、もう暫くの間、様子を見ることと致します。--Sandra-horn(会話) 2015年7月22日 (水) 03:25 (UTC)
- 自動転送とか云々ではなく、ただ単に過去のDr jimmyさんへのコメント依頼を貼ってただけではないですか。リンク先はHyolee2さんによって訂正されていますが、ページが未作成になっています。利用者の行為についてのコメント依頼であれば、利用者の会話ページに転送すると考えておられたのであれば、それは誤りです。別途コメント依頼のページを作成してください
- あら、やだ…確かにそうなっていますね。何故でしょう?過去にも似たような事態がが有り自動転送されている、と?まだ仕様が呑み込めていません。相済みません。--Sandra-horn(会話) 2015年7月22日 (水) 00:51 (UTC)
- 横から失礼いたします。ご提出されたWikipedia:コメント依頼ですが、利用者の行為についてのコメント依頼をご提出されていますがリンク先誤っていませんか?2008年のコメント依頼になっていますが…。--途方シネマズ(会話) 2015年7月22日 (水) 00:45 (UTC)
- 当方の会話ページを「利用者の行為についてのコメント依頼」ではなく「合意形成のためのコメント依頼」に提出致しましたことを御報告致します。--Sandra-horn(会話) 2015年7月17日 (金) 18:12 (UTC)
- あぁ、なるほど。えぇと、そういうことではなくてですね…個人の会話ページへのコメント依頼ではなく、コメント依頼の「利用者の行為についてのコメント依頼」を提出してはいかがか、とIkedat76さんは仰っているのだと思います。会話ページですと、まあ基本的には個人同士のやり取りの場になりますし。--はぬまん(会話) 2015年7月17日 (金) 17:58 (UTC)
当方の会話ページにて散々意見を戦わせたのですが、相手の御方は飽くまで『一般論』に固執、(引用、始)「同一性保持権」の説明に終始されるのみで、「歌詞の内容ならともかく、シングル盤のクレジット表記の、それも「作詩」という表記にまで、「著作権」それも「同一性保持権」が適用される」という根拠はご提示いただけませんでした(引用、終)と嘯くばかりで一向に平行線を辿る儘です。根拠も何も著作権は著作権、著作隣接権は著作隣接権であり、其の概念が覆ることは有りませんでしょう。同一性保持権も同様です。相手の御方の論理が通るならば、本件は議論の余地も無いわけです。コメント依頼に提出したのですが現在アクションは無く、不毛な状態が続いています。当方は飽くまで『明確な出典を典拠に、作詩と表記されている作品については其れに遵うべき』と云う姿勢ですが、相手の御方は『日本語の単語としての一般論に基づく』と述べられるのみで、事実上膠着状態です。--Sandra-horn(会話) 2015年7月21日 (火) 18:52 (UTC)
こちらで議論が行われているということを教えていただき、しばらく様子を拝見させていただいておりました。 基本的には概ね「出典に従うべき」という意見が多いように見られます。私の基本的なスタンスとして、コミュニティの合意(あるいはそれに類する多数意見)に従うべきと考えています。 その際に、「出典」とするものについて、個別のケースでどのようにとらえればよろしいのか、皆さんのご意見をお伺いしたいと思います。
- 多くの作詞家が作品の著作権の管理を委託しているJASRACの作品データベース検索サービスでは、たとえばシングル盤では「作詩」と表記されている作品でも、「作詞」となっております。より検証しやすく、且つ信頼性も高いと思われますが、これを出典とすることは可能でしょうか。
- たとえばシングル盤では「作詩」と表記されていても、その後CDに収録されたりした場合に「作詞」とされている場合があります。あるいは、同時期に出版された楽譜では「作詞」となっている場合もあります。その場合はどうすべきでしょうか。
- たとえば「おふくろさん」騒動などでは、確かシングル盤では「作詩」と表記されていたが、メディアでの報道では「作詞」とされていたかと思います(事実を厳密に確認した訳ではありませんので、あくまでこういう例の場合、とお考え下さい)。その場合はどうすべきでしょうか。
- 「原典の表記を優先すべき」というご意見もありますが、最近の改名提案等の議論を見ていると、(主に洋楽のケースが多いですが)発売当時の曲名表記やアーティスト表記よりも、現行の表記が優先されている場合がほとんどです。それとの整合性はどうなるのか。
多様なご意見を伺いたいため。できましたら、まずは、第三者のご意見を先にお伺いできたらと思います。--Dr.Jimmy(会話) 2015年7月24日 (金) 13:15 (UTC)
- まず、作詞が作詩に優先するという合意はなかったこと、しかしそのような合意があるかのように(あるいは合意がなくとも当然に作詞に改めることが当然であるかのように)振る舞ったことを反省して、できればSandra-hornさんにもお詫びの一言も伝えてください。井戸端への案内は2015年7月13日 (月) 10:20 (UTC)になされています。
- 「詩」と「詞」は、文学としての「詩」、メロディと共にあるものとしての「詞」という使い分けに対応させるということは、おそらく異論がないところだと思います(厳密にそれを示す出典があるかどうかは分かりません)。そこで、自分が書いているものを「詩」とするか「詞」とするかという違いは、作者の創作時の意識を体現するものですから、作者の意思を尊重することは、作者の創作時の意識を記事の情報に含めることになります。たとえば、メロディを伴うものとして発表しているけれど、独立した言葉の連なりとしても鑑賞できるものを作っているのだという自負がある、というミュージシャンもいます。作歌は、昭和初期あたりまでは使われていたと思いますが、最近はほぼ使われていないように思いますし、文献などで作歌を作詞・作詩と言い換えることもあまりないんじゃないかなあ。
- 一方、統一表記としていずれかを選ぶという判断を優先させるという考え方もあります。ここでは、外形的に音楽と共にあるものを「詞」、独立して鑑賞するために作られるものを「詩」とすることになります。メディアやデータベースで「作詞」が用いられているのは、この理由によるものでしょう。ウィキペディアとして統一しようということなら、プロジェクト音楽での合意が必要になると思います。
- そのような合意がない現状としては、決まっていないのですから、基本的には個別にノートで議論することになるでしょう。いわゆるJポップの範囲であれば、ほとんどの事例で「作詞」を採用しても反対意見は出てこないと思いますし、出典にも「作詞」が用いられていると思われます。
- 個別の作者、あるいは一連の作品について意見が分かれたら、作詞を使うか、商業的なポピュラー音楽については原則として作詞を用いるが、作詩家協会に属する作詩家、あるいはインタビューや自身の作品のクレジットなどで積極的に「詩」を用いている音楽家については、「作詩」を用いるかを、ノートで決める、ということになるでしょう。「作詩」とすることの妥当性については、第三者的情報源やJASRACやamazonや歌詞提供サイトではなく、公式サイトやインタビューの発言などで作者が用いている表現を参照することになります。第三者的情報源やJASRACやamazonや歌詞提供サイト、CDなどでの表記は、当事者の意思がどうであれ、そのように統一する、という事例を示すものにすぎません。
- 童謡や校歌などの場合は、本人の意思が確認できるならその表記を、本人の意思が確認できなくとも、作者の職業や、詩/詞の形式、依頼時の文書などを参照して、判断する、ということになるでしょう。
- なお、4については、ミュージシャンの意向に合わせるというのが原則になっている、ということです。作詩/作詞についても、かつて「作詩」を用いていた音楽家が、近年になって「作詞」を使うと改めたというような場合は、作詞に置き換える、逆もまた同じとするなら、整合性はとれています。洋楽ミュージシャンのカナ表記については、ミュージシャンの意向は関係ないことが多いですから、ウィキペディアとしては日本盤の表記に揃える(ミュージシャンに強い意向があるのなら、日本盤に反映されることになるだろうと思います)。邦楽だと、過去のCDでカタカナ表記があった場合でも、公式サイトが欧文表記なら欧文にするという感じで運用されていると思いますが、これも当事者の意思を尊重するという考えと言う点で共通します。--Ks aka 98(会話) 2015年7月24日 (金) 16:36 (UTC)
ちょっと脱線になってしまうので恐縮なのですが…こう、プロジェクトなどで合意を得るべきである、という考え方にしても、そのプロジェクトにおける合意が本来wikipediaの根幹を成すような検証可能性などを覆しうるのでしょうか?wikipediaは確かに合意主義です。ですが、その場にいる利用者による合意が得られたからと何でもかんでも押し通る訳でもありません。例えば今回の例で言えばプロジェクトで作詞とすると合意をすれば作詩と表現したアーティストの意思を無視してもよいのでしょうか、ただのwikipediaの利用者にそのような権利がどこにあるのでしょうか?wikipediaにおいてそのような合意のあり方がどのように認められているのか、少々疑問に感じずにはいられないのです。特に、プロジェクトは方針やガイドラインなどのような拘束性を持つようなものではないため余計にそう思えてならないのですが、いかがでしょうか。--はぬまん(会話) 2015年7月24日 (金) 17:36 (UTC)
- 当方の意見は申し上げた通りですが、「作詩」と表記があるならばその出典を明記、脚注を用いればそれで良いのではないかと思います。以前、川内康範の作品群において「川内康範が『作詞』という表現を生前好まなかったため、本項目では『作詩』とする」と脚注付きで書いたのですが、それら記事が全て「作詞」に置き換えられ、脚注もろとも削除されているわけです。それを差し戻すといたづらな編集合戦を招来する可能性があるため、我慢したのですが。何はともあれ「現出典での表記はこうである」と柔軟に対応した方が良いのではないかと思います。--Sandra-horn(会話) 2015年7月25日 (土) 05:02 (UTC)
- コメントその言葉の連なりを、その作者が作ったということについての検証可能性は担保されているのですし、明確に「詩」なり「詞」なりを志向している作者なら、そのことを本文中に記載すればいい。だから、作者の意思を無視せずに、統一表記にすることはできると思うんです。JASRACのデータベースやCD販売サイトなどで、たいていの作品は「詞」を用いる情報源が得られるでしょう。ある程度の規模のデータベースとしては、統一を優先することは理に適ってますし、不満はあるとしても、作者は甘受しているという現状があると言ってもいい。実際面としても、誰が言葉の連なりを作ったのかとかのほうがまずは重要で、たとえばカテゴリで「作詩家」「作詞家」を分けると、調べる側としてはけっこう大変です(やるなら作詞家の下位分類として区分でしょうか)。統一しちゃってもいいっていうことについて、一次情報だが、十分影響力があると思われる情報源として、JASRACや歌詞提供サイトや販売サイトが、検証可能な情報源になっている。しかし、作家の意図がそこには反映されていないと思われるので、統一するための根拠にはなるけれど、作詞か作詩かを選択する上では強固な情報源ではない。
- そう考えると、どちらを採用してもいいんです。間違いにはならないし、重要な情報をとりこぼすことにんもならない。そんなら、どうするか決めてもいいし、決めずに合意を繰り返すでもいい。そこは、音楽の用語なので、プロジェクト音楽で決めたらいいやんか、ということになります。どっちかを選んだことで、それぞれに記事でフォローしなければならないことが出てくるなら、それは明文化する。作詞に統一するなら、「作詩」を用いている例があるなら、本文中で必ず言及するとか。「川内康範が『作詞』という表現を生前好まなかったため、本項目では『作詩』とする」と脚注付きで書いたものを除去するようなことが起こらないように。どっちがいいか、については、その論点についての知識が不可欠なので、基本はプロジェクトでいいと思います。ある決定が、他分野にも影響を及ぼすなら、それはガイドラインや方針として、分野を超えて議論することになります。
- 一般化すると、プロジェクトなり、ウィキペディア全体なりの合意で決める、というのは、間違いではない選びうる選択肢が複数あり、いずれかの選択肢が明らかに優位でもなさそうな場合で、どの選択肢を選んでも過度の負担を必要とせず、何らかの対策で同等の情報を読者に提供できる場合、でしょうか。紙の百科事典なら監修者や編集部で決めるようなところですよね。--Ks aka 98(会話) 2015年7月25日 (土) 05:16 (UTC)
- 確かにどちらにおいても検証性を満たさないわけではないでしょうし、どちらであってもいい、というのは仰るとおりだと思うのです。がしかし、わざわざ意味を持って「詩」としているものと、JASRACや歌詞提供サイトや販売サイトといった基本的に文責などが示されている訳でもない(場合によってはあるかもしれませんけど)情報源を同等に評価するのには少々の抵抗感を覚えるのです。どちらの方がより良い情報源であるかは明白であるでしょうし、より良い情報の方が但し書きというのも変なように思えます。というか、そこまでして統一しなければならない理由って何でしょうか?ウィキペディアンにしてもJASRAC等のサイトにしても編集者側の都合に他ならないように思えるのですが。個々の記事で原典に則った表記になっていて特段の問題が生じることもないでしょうし、こうして今回のように無思慮に統一しようとすることの方が摩擦を生んでいます。カテゴリで分けるかも実際的に編集者側の都合に過ぎず、日本作詩家協会辺りなんかも[[Category:日本の作詞家]]に含まれている訳です。機能的な面はあくまで機能であり別の話ではないでしょうか。--はぬまん(会話) 2015年7月25日 (土) 14:57 (UTC)
- 当方の見解を申し上げますと、大まかに出典が明記されていない作品の場合は「詞」を用いることにやぶさかでは無いのです。しかし確認出來た出典が存在し、其方に「詩」と表記されている場合や、作者自身が望まない・望んでいなかった作品に関しては「詩」を用いて個別に柔軟に対応をした方が望ましいのでは、と思うのです。--Sandra-horn(会話) 2015年7月25日 (土) 15:25 (UTC)
- 「確認出来た出典が存在している」のでしたら、脚注ではなく本文中または作詩列挙欄冒頭に明記し以下の記述が全て「作詩」で表記されている理由の説明としておけば、その文章説明ごと全て抹消し機械的に「作詞」に置き換える行為が悪手だと理解出来るのではないでしょうか? 出典がない状態での除去・置換編集は検証可能性の観点から除去されても文句は言えないでしょうけど。--119.150.58.246 2015年8月1日 (土) 04:58 (UTC)
- ふと思ったのですが…出典がなければ編集されても仕方ない、というのは当然と言えば当然なのですが、逆に、こういう表記に対して普通いちいち出典って付けます?付けるとしても、どう付けたものでしょう?119.150.58.246さんは表記の理由の説明と仰いますが、理由も何も結局は出典元にそう書いてあるから、以上の理由が説明できるケースは少ないのではないでしょうか?基本的に何にでも出典があるべき、ということになるのかも知れませんが、じゃあ逆に「作詞」の場合は一般的だからと出典はいらないのか?という疑問も同時に持ってしまいました。--はぬまん(会話) 2015年8月1日 (土) 16:46 (UTC)
- いえ単純に、この記事での問題点のみで考えて、一度以上機械的書き換えが為されているのだから、出典つきで「作詩」と表記する理由を原出典に沿っているのだと記事中にて説明が為されれば、「作詩」と書いてあっても「一般的には作詞を使う」と仰るような方は脳内変換すれば良いのだし、出典付きの説明文を除去してまで書き換えを強行するような行為に及ぶことはないんじゃないのか、ということです。普段ならいちいち出典をつけないかもしれませんが、一度以上複数編集者間で問題が発生したことを考えれば「つけなければならない」のではなく、「つけておいても誰も損はしない」ということで。--119.150.58.246 2015年8月3日 (月) 07:41 (UTC)
- この問題は119.150.58.246さんの仰る通りで、わざわざ「作詩」と云う部分に「当該文献に表記有り」と脚注を付けているにも関わらず、脚注ごと削除され強引に一律「作詞」に置き換えられたことです。脚注まで削除するってどう云うことなのか理解に苦しみます。原典が「作詩」であれば「○○に表記」と脚注なり何なりで示せば良い話で、一般的には「作詞」なのであるからそれは普遍的に用いれば良い、と。表記の出処をお伝えすればそれで良いのではないかと思うのです。--Sandra-horn(会話) 2015年8月3日 (月) 13:53 (UTC)
- あぁ、いや、私の危惧的には、普通いちいち出典が付いてないのでそういう付いてない場合ならじゃんじゃん変えちゃってもいいよ、という話になってしまっては困るな、と思いまして。いずれにしろ、書き換える際にもろくに検証素材の確認を取らずに編集する行為が問題となるんですよね。そういう確認作業がちゃんと行われていれば起こりえない話なわけですし。--はぬまん(会話) 2015年8月4日 (火) 18:32 (UTC)
- この問題は119.150.58.246さんの仰る通りで、わざわざ「作詩」と云う部分に「当該文献に表記有り」と脚注を付けているにも関わらず、脚注ごと削除され強引に一律「作詞」に置き換えられたことです。脚注まで削除するってどう云うことなのか理解に苦しみます。原典が「作詩」であれば「○○に表記」と脚注なり何なりで示せば良い話で、一般的には「作詞」なのであるからそれは普遍的に用いれば良い、と。表記の出処をお伝えすればそれで良いのではないかと思うのです。--Sandra-horn(会話) 2015年8月3日 (月) 13:53 (UTC)
- いえ単純に、この記事での問題点のみで考えて、一度以上機械的書き換えが為されているのだから、出典つきで「作詩」と表記する理由を原出典に沿っているのだと記事中にて説明が為されれば、「作詩」と書いてあっても「一般的には作詞を使う」と仰るような方は脳内変換すれば良いのだし、出典付きの説明文を除去してまで書き換えを強行するような行為に及ぶことはないんじゃないのか、ということです。普段ならいちいち出典をつけないかもしれませんが、一度以上複数編集者間で問題が発生したことを考えれば「つけなければならない」のではなく、「つけておいても誰も損はしない」ということで。--119.150.58.246 2015年8月3日 (月) 07:41 (UTC)
- ふと思ったのですが…出典がなければ編集されても仕方ない、というのは当然と言えば当然なのですが、逆に、こういう表記に対して普通いちいち出典って付けます?付けるとしても、どう付けたものでしょう?119.150.58.246さんは表記の理由の説明と仰いますが、理由も何も結局は出典元にそう書いてあるから、以上の理由が説明できるケースは少ないのではないでしょうか?基本的に何にでも出典があるべき、ということになるのかも知れませんが、じゃあ逆に「作詞」の場合は一般的だからと出典はいらないのか?という疑問も同時に持ってしまいました。--はぬまん(会話) 2015年8月1日 (土) 16:46 (UTC)
- 「確認出来た出典が存在している」のでしたら、脚注ではなく本文中または作詩列挙欄冒頭に明記し以下の記述が全て「作詩」で表記されている理由の説明としておけば、その文章説明ごと全て抹消し機械的に「作詞」に置き換える行為が悪手だと理解出来るのではないでしょうか? 出典がない状態での除去・置換編集は検証可能性の観点から除去されても文句は言えないでしょうけど。--119.150.58.246 2015年8月1日 (土) 04:58 (UTC)
- 当方の見解を申し上げますと、大まかに出典が明記されていない作品の場合は「詞」を用いることにやぶさかでは無いのです。しかし確認出來た出典が存在し、其方に「詩」と表記されている場合や、作者自身が望まない・望んでいなかった作品に関しては「詩」を用いて個別に柔軟に対応をした方が望ましいのでは、と思うのです。--Sandra-horn(会話) 2015年7月25日 (土) 15:25 (UTC)
- 確かにどちらにおいても検証性を満たさないわけではないでしょうし、どちらであってもいい、というのは仰るとおりだと思うのです。がしかし、わざわざ意味を持って「詩」としているものと、JASRACや歌詞提供サイトや販売サイトといった基本的に文責などが示されている訳でもない(場合によってはあるかもしれませんけど)情報源を同等に評価するのには少々の抵抗感を覚えるのです。どちらの方がより良い情報源であるかは明白であるでしょうし、より良い情報の方が但し書きというのも変なように思えます。というか、そこまでして統一しなければならない理由って何でしょうか?ウィキペディアンにしてもJASRAC等のサイトにしても編集者側の都合に他ならないように思えるのですが。個々の記事で原典に則った表記になっていて特段の問題が生じることもないでしょうし、こうして今回のように無思慮に統一しようとすることの方が摩擦を生んでいます。カテゴリで分けるかも実際的に編集者側の都合に過ぎず、日本作詩家協会辺りなんかも[[Category:日本の作詞家]]に含まれている訳です。機能的な面はあくまで機能であり別の話ではないでしょうか。--はぬまん(会話) 2015年7月25日 (土) 14:57 (UTC)
インデントを戻します。一般的にメロディーを付けることを前提に、もしくはメロディーが先にあって其處へ乗せる…と云う観点からは「作詞」であり、特記事項が無ければ其の儘「作詞」で良いと考えます。ですが…繰り返しになりますが…「当初・もしくは確認可能な出典が『作詩』であるケースや、作者自身が『作詞ではなく、作詩である』と述べている(述べていた)場合は「何処其処に表記」と明記すればこの問題は解決すると考えるのですが、如何でしょう?(出典を明記しているにも関わらず一律表記に置き換え、脚注を書き換えたり除去することは問題外の蛮行かと。)確認の取れない作品は取り敢えず「作詞」としておき、確認が取れた作品はその都度「作詩」と表記し「何処其処に記載」と脚注を用いて述べれば良いかと存じます。「作詞」ではなく敢えて「作詩」と表記されているものは作者や制作者の意図があるケースが多いように思います。ですから總て一律に「作詞」を用いることには反対なのです。--Sandra-horn(会話) 2015年8月5日 (水) 21:23 (UTC)
- 追記です。「作詩」同様に、「作詩」と表記のあった出典を「歌詩カード」と記述しました處、これも一律に「歌詞カード」と(脚注まで!)置き換えられています(これら一連の編集は總て同一の編集者によるものです)。「歌詩」と表記があるものは「歌詩カード」及び「歌詩部分」が妥当かと思いますが、この点は如何なものか疑問です。--Sandra-horn(会話) 2015年8月5日 (水) 22:58 (UTC)
- 匿名編集者が説明なしに原典にない表記・表現に置換することは原典の改竄と同意義で、記事本文中で原典にない表記に置き換える理由を説明することなしにそれらを機械的置換するような編集行為は避けるべきだと思いますし、「他の一般的な表記や、一般には『作詞』と書くから」という主張は、例えば無限軌道の一般語はキャタピラー、油圧ショベルの一般語はショベルカーですが、正確性が重要視される百科事典上で一般表記ではないから書き換えなければならない、とするには随分と的外れな主張である思います。問題の根本は分野に詳しくない方の無知から来る思い込みにより、誤りを正すという善意からの行動だと思いますので記事本文中に表記の違いが説明されれば書き換えに至った行動原理はなくなるかと。最善は作詞に出典付きで「『作詞』と『作詩』の違い」を説明追記し、該当する記事からリンクすることだと思いますが。--119.150.58.246 2015年8月6日 (木) 09:35 (UTC)
- 原典の内容を改ざんすることはいけませんが、内容が変わらない範囲であれば原典の表記・表現をそのまま使う必要はありません。それどころか、原典の表記・表現をそのまま使うことは著作権上問題となることがあり、記事の削除が必要になることがあります。私は今回の件について、「作詞」と「作詩」はどちらも同じ内容であって相互に書き換え可能だと思いますが、もし例えば作者が『作詞ではなく、作詩である』と述べている場合は、「作詩」が作者の創作的な表現ということになり、その表現を著作権上の引用の要件を満たさずにウィキペディアで使ってはいけない可能性があります。さらに、もしここで原典の「作詩」を「作詞」にすることが著作権上の同一性保持権に抵触するのであれば(私はそうは思いませんが)正しく「引用」せずに記事の中で「作詩」とすることはそれこそ著作権上問題であることになってしまいます。--アルビレオ(会話) 2015年8月7日 (金) 21:25 (UTC)
- 「原典の「作詩」を「作詞」にすることが著作権上の同一性保持権に抵触するのであれば(私はそうは思いませんが)正しく「引用」せずに記事の中で「作詩」とすることはそれこそ著作権上問題であることになってしまいます」とアルビレオさんは仰いますが、私は反対です。原典の内容を置き換える行為こそが問題ではないかと考えます。原作者や制作者が「作詞」とせず「作詩」を用いているのは察するに意図があってそのように表記しているのであると考えられますし、その意図を無視して一律に表記を置き換えることの方が「同一性保持権」の観点からどうなのか、と思われます。繰り言になりますが、原典が「作詩」である場合は「何處其處に『作詩』と表記有り」と脚注などを用いて表記しておけば問題は回避出來ると考えます。私自身が制作者であることから申し上げますが敢えて「作詞」とせず「作詩」を用いていることは日本語の言葉の内包する意味を汲んで其の表記を用いているのです。原典の表記・表現を反映させることこそが重要なのではないだろうかと思います。一般的表記が「作詞」であることに異は御座いません。其處を敢えて「作詩」と表記しているのは、其の表記に意味や意図があってそうしているのではないかと考えます。--Sandra-horn(会話) 2015年8月14日 (金) 09:30 (UTC)
- 私の指摘のポイントは、この部分で「作詩」と表記していることに意味や意図があるかどうかではありません。もしここの表記に意味や意図があるとすると(私は疑問ですが、Sandra-hornさんはそう主張されていますね)著作権上引用として認められている条件を満たさずにウィキペディアでその表記を使うことが著作権違反になる、ということです。確認ですが、Sandra-hornさんは著作権の対象とする表記を引用以外の形でウィキペディアで使用しても問題ない、というご意見でしょうか? --アルビレオ(会話) 2015年8月15日 (土) 11:48 (UTC)
- 「原典の「作詩」を「作詞」にすることが著作権上の同一性保持権に抵触するのであれば(私はそうは思いませんが)正しく「引用」せずに記事の中で「作詩」とすることはそれこそ著作権上問題であることになってしまいます」とアルビレオさんは仰いますが、私は反対です。原典の内容を置き換える行為こそが問題ではないかと考えます。原作者や制作者が「作詞」とせず「作詩」を用いているのは察するに意図があってそのように表記しているのであると考えられますし、その意図を無視して一律に表記を置き換えることの方が「同一性保持権」の観点からどうなのか、と思われます。繰り言になりますが、原典が「作詩」である場合は「何處其處に『作詩』と表記有り」と脚注などを用いて表記しておけば問題は回避出來ると考えます。私自身が制作者であることから申し上げますが敢えて「作詞」とせず「作詩」を用いていることは日本語の言葉の内包する意味を汲んで其の表記を用いているのです。原典の表記・表現を反映させることこそが重要なのではないだろうかと思います。一般的表記が「作詞」であることに異は御座いません。其處を敢えて「作詩」と表記しているのは、其の表記に意味や意図があってそうしているのではないかと考えます。--Sandra-horn(会話) 2015年8月14日 (金) 09:30 (UTC)
- 原典の内容を改ざんすることはいけませんが、内容が変わらない範囲であれば原典の表記・表現をそのまま使う必要はありません。それどころか、原典の表記・表現をそのまま使うことは著作権上問題となることがあり、記事の削除が必要になることがあります。私は今回の件について、「作詞」と「作詩」はどちらも同じ内容であって相互に書き換え可能だと思いますが、もし例えば作者が『作詞ではなく、作詩である』と述べている場合は、「作詩」が作者の創作的な表現ということになり、その表現を著作権上の引用の要件を満たさずにウィキペディアで使ってはいけない可能性があります。さらに、もしここで原典の「作詩」を「作詞」にすることが著作権上の同一性保持権に抵触するのであれば(私はそうは思いませんが)正しく「引用」せずに記事の中で「作詩」とすることはそれこそ著作権上問題であることになってしまいます。--アルビレオ(会話) 2015年8月7日 (金) 21:25 (UTC)
- 匿名編集者が説明なしに原典にない表記・表現に置換することは原典の改竄と同意義で、記事本文中で原典にない表記に置き換える理由を説明することなしにそれらを機械的置換するような編集行為は避けるべきだと思いますし、「他の一般的な表記や、一般には『作詞』と書くから」という主張は、例えば無限軌道の一般語はキャタピラー、油圧ショベルの一般語はショベルカーですが、正確性が重要視される百科事典上で一般表記ではないから書き換えなければならない、とするには随分と的外れな主張である思います。問題の根本は分野に詳しくない方の無知から来る思い込みにより、誤りを正すという善意からの行動だと思いますので記事本文中に表記の違いが説明されれば書き換えに至った行動原理はなくなるかと。最善は作詞に出典付きで「『作詞』と『作詩』の違い」を説明追記し、該当する記事からリンクすることだと思いますが。--119.150.58.246 2015年8月6日 (木) 09:35 (UTC)
- (インデント戻し)元の文章をそのまま引用するなら、原則として変えてはいけません。
- 自伝に拠れば、リーダーのジョニーにとって「作詩という作業は、子どもを産むような気持ちで行われる作業」で、転記となった4枚目のアルバムの制作時には1曲仕上げるために数か月を要することもあった。
- というような時は「作詩」でも「作詞」でも、そのまま。変えたら同一性保持の問題は起こりうる。しかし、楽曲と共に発表される作品をどう呼ぶかは、書き手が決めることでもありますから、
- 自伝に拠れば、作詞を担当するジョニーにとって「作詩という作業は、子どもを産むような気持ちで行われる作業」で、転記となった4枚目のアルバムの制作時には1曲仕上げるために数か月を要することもあった。
- でも、著作権法の問題は生じません。あるいは
- 自伝に拠れば、リーダーのジョニーにとって詞を書くことは、「子どもを産むような気持ちで行われる作業」で、転記となった4枚目のアルバムの制作時には1曲仕上げるために数か月を要することもあった。
- でも生じません。--Ks aka 98(会話) 2015年8月18日 (火) 15:26 (UTC)