Wikipedia:井戸端/subj/信頼できる情報源と検証可能性

検証可能性について[編集]

Wikipedia:削除依頼/ヴィジュアル系バンドから移動してきたわけなんですが。Wikipedia:検証可能性によると、信頼できる情報源の入手法を書いてあれば検証可能とあります。しかし、

  • ある荒らしが、とある資料を基にしたと称して虚偽の内容をでっち上げた。その資料は査読を経た信用性の高い資料であると考えられるが、特定の資料館に1冊存在するのみであり、その内容は内部の人間にしかわかりえない。検証のためにはその資料館の職員として就職する必要がある。

といった場合、内部の人(もしくはその資料館に就職したつわもの)がいなければ削除できないという事態になるのでは。--6144 2006年12月14日 (木) 00:28 (UTC)修正--6144 2006年12月14日 (木) 00:32 (UTC)[返信]

閲覧できない資料は信頼できる情報源ではなく、検証可能性にも寄与しません。民明書房刊と大差ありませんよ。そもそも入手できないなら入手法はないわけですから入手法が書けず検証可能と見なされることもないでしょう?LR 2006年12月14日 (木) 01:02 (UTC)[返信]
議論を見ると国立国会図書館の資料を指しているようですが、国会図書館の資料は成人なら閲覧可能です。検証可能であるというのはバリアフリーの概念ような「アクセスできない人がいてはならない」という意味ではありません。--Extrahitz 2006年12月14日 (木) 04:49 (UTC)[返信]
現実問題として、もし国会図書館にしかない蔵書を検証可能な資料とするなら、主張する方がコピーをとるなりして明示する責務があると考えますがいかがでしょうか?実際には近年の書物ならそんなことはなかなかないし、単に出典の出版元、書名等を明記すれば済む話だとは思いますが。当該ノートのねこぱんだ氏と同意見です。--DEN助 2006年12月14日 (木) 14:47 (UTC)[返信]
コピーを取られても法律に触れずに明示する方法が無い以上意味の無いことかと思います。また出来たとしてもそのコピーが正しいのかどうかわからないと思います。--はわわロボ 2006年12月14日 (木) 15:24 (UTC)[返信]
Wikipedia:削除依頼/ヴィジュアル系バンドにおける議論をまとめますと、まず千葉の図書館に現存する資料が一顧だにされずに削除された事例があり、これでは千葉の図書館に現存するだけでは検証可能とは言えない、と判断せざるを得ず、この概念を国会図書館に適用しました。そうしたら、過去の事例を100%正しいと仮定するのは適当でない、という意見があり、該当する事例については、その記事の初版投稿者が心象を悪くしかねない発言を連発していたこと、また、上記した条件は「検証がまったく不可能であるoriginal reserch」という削除の方針に明らかに反することから、きれいさっぱり忘れることにしました。さて、上記したとおり、検証可能といえるためには資料の入手法を記述してあれば十分と考えられますが、「入手法:まず関係者として就職してください」というのは明らかに詭弁の範疇です。どのぐらいの入手法を考慮するべきなのかわかりかねるので、質問しております。なお、考慮すべき入手法としては「金」「手間」「語学力」「● (2ちゃんねる)」「mixiアカウント」「特定の大学の大学院に入ること(学校図書館の資料だとありえる条件です)」などが考えられます。--6144 2006年12月14日 (木) 15:00 (UTC)[返信]
6144さんは杓子定規に物事を考え過ぎではないでしょうか。例えば6144さんが示した「語学力」は良い例ですが、日本ではアラビア語は余りメジャーとは言えません。文字すら読めない人も多いでしょう。一方、イスラーム関連の文献は殆どがアラビア語で書かれています。聖典であるクルアーンに到ってはアラビア語で書かれたものしか宗教上は認めていません。故に、これらの記事を書く時にはアラビア語の読解力は必須になります。読めないから検証出来ません、検証出来無いから削除です、では、百科事典としてナンセンスでしょう。反面、طالعة من بيت أبوها(イラク人ならばおよそ知っているであろうアラブ演歌の一つ)の項目を立てようとしても検証困難だとか日本語版には不要だという声が出て来るかもしれません。この辺りは杓子定規にすべきものではないと考えます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2006年12月14日 (木) 15:49 (UTC)[返信]
まあケースバイケースって事ですね。それが一番わかりやすいかもしれませんね。--6144 2006年12月16日 (土) 00:27 (UTC)[返信]

こんにちは。最近私が書いている記事の多くは「対象記事(人物)に対する日本語文献がなく、どうしても英語文献を探すしかない」ものが多くなってきました。大抵の場合は参考にしたサイトを「外部リンク」に掲載しますが、それでもだめで、テニスの百科事典(英語)で調べるしかない題材もあります。私の場合はeBayで古本を探し、書名の日本語訳とISBN番号も「参考文献」欄に付加するようにしています。(例12)-Hhst 2006年12月24日 (日) 07:45 (UTC)[返信]

それもどこまで可なのか、微妙な気がしています。一歩間違うと、或いは人の解釈によっては「公告」と受取られかねないと、躊躇しています。弊筆の例では「PojkART」などがそれにあたり、外部リンクとして公式サイトを紹介するも、くだんのサイトは事実上rootのみになっています。更に市場が限られており(自分の知る限り世界に3つ4つの業者しかウェブ通販をしていない)、入手手段を書けばそれらの業者の公告になりかねず、特に当該項目の場合、それが日本国法規では抵触する虞もあったりします。項目や記事内容によっては、検証可能性自体を読む者に探いよう求めねばならないものも、実際問題としてあるのです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2006年12月26日 (火) 20:08 (UTC)[返信]