コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia:井戸端/subj/写真とイラスト

現在、削除依頼に出ているWikipedia:削除依頼/画像:!!!Hujiwaraseika.jpgでは依頼に出ている似顔絵若しくは一部の方からは悪戯描きと断じられている図絵の位置付けについてウィキペディア日本語版における「似顔絵の是非論」から始まり、最終的にはWikipedia:井戸端/写真とイラストの記事名のように「写真とイラスト」相互において有用な関連性を持ったガイドラインができるような方向性をもたせる議論ができれば良いと思います。

最終ゴール

[編集]

「写真とイラスト」の表題のままで進めますと、扱う範囲が広範になりすぎるきらいがあり、個々人ごとに単語から得る語意・語感に差が生じます。ここでは「写真」とは人の目で見たままとほぼ同じ状態(標準レンズで焦点距離50mm相当、絞り値1.0、レンズ角180度)で撮影したもの、と限定します。レタッチを施したものは指しません。また、「イラスト」とは挿絵全般を指します。挿絵の中には説明図・解説図・絵画等がありますが、文章と対になるものであり主従関係としては従属関係にあるものを指すものとします。

取り敢えず、ここでは「写真とイラスト」における戸羽口の議論として、イラストの中で人物画を扱ったジャンルとして「似顔絵」について論じます。最終ゴールは似顔絵をウィキペディアで用いる際のガイドラインの制定です。ウィキペディアで似顔絵を拒否する場合にはどのような状態なら拒絶できるかを具体的な事例を示し、数多くの人々を説得、或いは納得させる必要があります。同様に似顔絵の掲載を許容する場合にはどのようなことが描かれていなければならないかを具体的に列記する必要があります。


  • まず、議論の全体像を提示する必要があろうかと思いまして、Wikipediaにおける写真とイラストの全体像について、掲載不可能なものも含めて、MECEの観点から整理してみました。他に考えられるケースはあるでしょうか。--猪山人 2006年5月24日 (水) 03:57 (UTC)[返信]
描写の対象でみれば以下のように分類できるでしょう。
1 抽象的な概念を描写するもの(物理学における模式図、合戦の布陣図など)
2 一般的な物の外見的特長を描写するもの(図解のようなもの。例を挙げれば帆船や魚類)
3 特定の物の外見的特長を描写するもの
3-A 人物画・写真
3-B 風景画・写真
3-C 絵画や彫刻などの模写・写真
4 出来事の外見的特長を描写するもの(歴史上の事件の描写など)
5 空想の事物を描写するもの
5-A アニメの登場人物など画像としての描写が元からあるもの
5-B 小説の登場人物など画像としての描写がないもの
3-Aの人物画・写真については、描写対象の状況に応じて細かく分類できます。
3-A-(1) 描写対象者が存命
3-A-(2) 描写対象者が死去している
3-A-(2)-a 描写対象者の人物画・写真が残されていない
3-A-(2)-b 描写対象者の人物画・写真が残されている
3-A-(2)-b-1 PDの人物画・写真がない
3-A-(2)-b-2 PDの人物画・写真がある
描写の手段でみれば以下のように分類できるでしょう。
1 写真
2 絵・イラスト
絵・イラストについては、基準のあり方には議論があるでしょうが、以下に分類できるかもしれません。「区分は不可能」という見解もあるかもしれません。
2-A 写実性が高いもの(肖像画)
2-B 写実性は低いが、描写対象の特徴を強調したもの(似顔絵)
2-C 写実性は低いが、技能としては高いもの(『まんが日本の歴史』のようなもの)
2-D 稚拙なもの
制作者という観点からは以下のように分類できるでしょう。
1 既存の芸術家等によって制作され、すでに広く知られているもの
2 ウィキペディアンによって制作され、公知ではないもの

この分類リストを完成させることが議論の進行にどれだけの意義があるか疑問なので、いろいろ異論はありますが、ほとんど指摘はせずにおきます。ただし、猪山人さんの「分類方法」を見て、一つ気付いたことがあります。描写の手段における分類に、「技能」「稚拙」という表現が見られますが、この点が他の方々との認識の違いにつながっているのではないでしょうか。

「表現技法」そのものと、その作者自身の技能(絵の上手下手)は、直交する概念です。これを混ぜて扱うことは議論のミスリードにつながりかねません。分類法に沿って言うなら、2-A以下については、「表現技法」のみを列記すべきで、写実画とか似顔絵とか、抽象画とか、南画風とか、そんな要素が含まれるはずです。そして「似顔絵の達人による作品」「抽象画の巨匠による作品」みたいな、絵の巧拙がそれと別の次元で存在します。つまり、この巧拙は、「描写の手段」と並列に扱われるべき要素です(もちろん「巧拙」をウィキペディアでの採否の基準にするのは困難ですが、全容を掴むというのなら必須要素です)。巧拙は絵だけでなく、写真にも存在します。--Y tambe 2006年5月25日 (木) 04:24 (UTC)[返信]

「似顔絵とは何か」という共通理解がないままで似顔絵は良いとか悪いとか言ってもはじまらないからです。よって採用可否の基準とは関係しそうもない「南画風」といった細分類には立ち入りません。ご意見を取り入れるとこんな感じでよろしいですかね。問題となっている似顔絵のうち藤原惺窩の絵は2-Bと2-Cの境界線上かもしれません。--猪山人 2006年5月25日 (木) 10:00 (UTC)[返信]
描写の手段・表現技法
1 写真
2 絵・イラスト
2-A 写実性が高いもの(風景画、肖像画)
2-B 写実性は低いが、描写対象の外見的特徴をとらえているもの(似顔絵など。メカの図解もここでしょうか)
2-C 写実性が低く、制作者の主観が強く出ているもの(抽象画のようなもの。漫画的な絵はここでしょうか)
技能の巧拙
1 技能の高いもの
2 技能の低いもの

上記の描写の対象に関してもう少し考えまして、以下のように整理しました。

1 特定の可視の外見を有するもの
1-A 人物
1-B 風景
1-C 特定の物
1-D 出来事(歴史上の事件、決定的瞬間など)
1-E 外見を有する空想上の物(アニメの登場人物など)
2 特定の可視の外見を有さないもの
2-A 特定の外見は有さないが、直線や円といった「形状」によって記述できるもの
2-A-(1) 抽象的な概念(物理学における模式図、合戦の布陣図など)
2-A-(2) 一般的な物(「帆船」や「魚類」一般)
2-A-(3) 特定の物の外見以外の形状(地球の断面図など)
2-B 形状としても記述できないもの
2-B-(1) 形状を有さない抽象的な概念(平和、愛など)
2-B-(2) 形状を有さない空想上の物(小説の登場人物など)

これでようやく私の主張している判断基準が以下の通り明確化できました。

  • 著作権や肖像権その他の問題をクリアしているという前提で、制作者が「1 既存の芸術家等」であればOK。
  • 制作者が「2 ウィキペディアン」であるときはさらに描写の対象で判断して、「1. 特定の可視の外見を有するもの」であるときは絵は主観が入るのでダメで、写真のみOK。「2-A 特定の外見は有さないが形状によって記述できるもの」は原理的に写真撮影が不可能なので絵もOKだが、形状の記述が適切でないものはダメ(テトラポッドの絵がその例)。--猪山人 2006年5月26日 (金) 03:57 (UTC)[返信]

似顔絵の是非

[編集]

百科事典とは何かについては十人十色の色々なご意見があると思いますが、とりあえずここでは「ウィキペディアは百科事典である」という立ち位置で、似顔絵が百科事典的であるかないか、似顔絵を百科事典に掲載すべきかどうかの是非を論じます。


コモンズにアップロードされた似顔絵の削除依頼の件に関連して、あちらの管理者殿のご意見を伺ったのですが、コモンズとウィキペディア本体とでは各種ポリシーも異なるため、間違っている絵だからといって直ちには削除対象にはならないそうです。絵として適切かどうかは記事に掲載する際に判断して欲しいとのことでした。従って、本似顔絵はコモンズでは削除されることはないと思われますので、日本語版で削除されようがされまいが実質的な効果はあまり変わらないと思われます。

こうした状況もふまえて、ウィキペディアの諸原則と本似顔絵とが共存できる方策をいくつか考えてみました。「暴論だ」と非論理的な反論をしたり、「内省しろ」と人格攻撃に走るのではなく、少しは合意形成に向けた努力をされてはいかがでしょうか。

  • 第1は、Calveroさんがコメントされていたように、コモンズに掲載されるのだから日本語版では不要であろうという考え方です。これにはOpponentさんのおっしゃるように、それとこれとは別問題だという反論があるでしょう。
  • 第2は、コモンズと同じ考え方を日本語版でも採用すること、すなわち独自の見解の発表かどうかは画像を記事に掲載する際に判断することであって、画像をアップロードする行為自体は独自の見解の発表にはあたらないという考え方です。これにはQazzxさんが指摘されているように、今後イラスト全般は削除対象から除外されることになるという問題があるでしょう。
  • 第3は、みっちさんがコメントされていたように、デフォルメは独自の見解の発表にはあたらないという考え方です。これには「デフォルメ」の範囲はどうなるのかという問題があるでしょう。
  • 第4は、現在日本語版では丸っきりの嘘記事であってもジョークとして面白ければ「Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス」という形で存続が認められているのだから、似顔絵もジョークとして面白ければ同様の扱いができるのではないか、という考え方です。
  • 第5は、正式に、画像の場合は独自の見解の発表も可能であるとルール化することです。「Wikipedia:独自の調査」はまだ正式のルールではないのだから、抵触しそうな記述を削除すればよいということになります。OpponentさんやNekosuki600さんはこのお考えでしょうか。

--猪山人 2006年5月25日 (木) 10:00 (UTC)[返信]

議論が停滞していますが、キヨンネさんが投稿を再開していることもあり、私見を述べたいと思います。(ここでいいのかな。)
画像:Minamoto no Yoritomo.jpgは現在源頼朝足利直義の双方に貼り付けられていて、この肖像画をめぐる論争を示しています。このように、画像はそれ自体よりもその用いられ方にこそ主張が存在すると考えます。プロパガンダ的風刺画でさえ、「○○年に××党が用いた宣伝ビラ」などと書けば、純粋な事実の記述たりえます。
但し上の例は歴史的画像だからいえるので、投稿者自身が描いた、「明確な主張」を込めた風刺画などでは、このような中立的表現は難しいでしょう。またそれ以前の問題として、当該画像の内容が正しいかどうか、という問題があります。Wikipedia:削除依頼/画像:!!!Hujiwaraseika.jpg利用者‐会話:キヨンネでも取り上げられていますが、一般記事の投稿同様、投稿の原典や著作権、中立性の観点に基き淡々と検証すればよいかと思います。
将来の可能性を考えれば、イラスト「であること」を理由とした一括削除の先例を作ることには反対です。但し、最終的には、原典が存在し且つ著作権の問題がクリアできない、イラストが有用な範囲というのは、ごく限られたものになるのではないかという気がしています。私自身は島村抱月近衛文麿のような写真のある記事に似顔絵が必要とも思いませんし、ましてや画像:テトラポット.jpgが必要とは思えませんが、それでも中江兆民の画像の悪さについては、似顔絵のほうがマシと思います。 けんち 2006年6月3日 (土) 01:55 (UTC)[返信]
議論が停滞しているというか、しょーじき冒頭部で行われている「分類」あたり、何を目的としているものなのかがわからなくて、どこから手をつければいいのかがわからないという感じなんですよねえ。
Wikipediaにおける(写真やイラストを含む)図版は、要するに説明モノです。説明のために役立つかどうかというのが唯一の評価基準であるはず(しかも、「説明のために役立つかどうか」は、図版単独でも項目単独でも判断できず、図版と項目のカップリングではじめて決まる評価軸でもある)。ある特定の図版のスタイル(たとえば似顔絵)が説明のために使えないとする起論の時点で、おれにはもう何を言っているのかがわかんなかったりしますし。図版は、それだけでは「素材」なんであって、素材を生かせるかどうかは、その素材を使う側の力量の問題だろう(「今回は使わない」という判断をひっくるめての力量という意味です。そしてそれは、素材に対する評価ではあり得ないのだ)。
新聞に掲載される写真なんかも、写真と呼ばれてはいるけれども、実はけっこう似顔絵もどきのものが多いんだよね。小さい扱いの場合、網点の問題もあって、写真をそのまま縮小したのでは使えない(オフセットになってだいぶそのあたりの問題は解決されてきたが)。その項目のひとの一般的なイメージを喚起するような似顔絵であればそれなりの使い方はあるんじゃないかという気がします。写真にしたって、「そのひとの一般的なイメージとはつながらない写真」とかもいくらでもあるわけだし、それを「そのひとの写真である」というだけの理由から掲載するのが説明として良いことなのかという疑問はあったりするのですね(このあたり、「写真であり、間違いなくそれが本人のものであるのならば(そして権利侵害につながらないならば)掲載してよい」みたいな現状にも、多少疑問はあります。しかしまあ、そのあたりの個別の精密な評価・判断をするというのは、Wikipediaには無理でしょうし)。
--Nekosuki600 2006年6月3日 (土) 10:17 (UTC)[返信]
書き忘れてたのでつけたし。
テトラポット、なあ。個人的には、あのテトラポットのイラストはいらないと思う。思うんだけど、果たして「テトラポットの写真があったら、テトラポットのイラストはいらない」と言えるかどうかとなると、考え込んでしまう。
テトラポットがどういうかたちのものなのかがわかる写真って、陸地側からだとすごく撮りにくいものなんだよ。工事中のクレーンで吊り上げられている写真とか、設置前にどこか平地に置かれている写真とかなら、まだわかりやすいかもしれない。でも、どのように噛み合って設置されるのかとなりますと、それがわかる写真ってすごく難しいわね。
テトラポットの説明図版としては、部分透過のCGイラストあたりがベストかもしれない。あるいは、もうちょい写実的でどういう説明をするのかを計算づくの手描きイラストでもいい(タッチは、あれの感じでもかまわないと思う)。それらが、写真より質が低いとか向かないとかいうことは、ないと思うんだよ。
図版をどう使うかって、むずかしいのよなあ。
(追伸。こないだ、画像:写真の撮り方-歩く-駅OK.jpgという写真について、「タイトルが悪い。アップロードしなおしてファイル:Nagareyama hiregasaci eki 1.jpgに直せ」というご要望をいただいた。いや、これ、「写真の撮り方」というガイダンスページ用にアップロードした写真なんですけど・・・。説明したらご了解はいただけたのだが、個人的には、素材は素材としてあっていいと思うのだが、そのせいで「テキストと図版の関係」などを意識的に考えるひとがすごく少なくなっちゃってるのかもしれないと思う)。
--Nekosuki600 2006年6月3日 (土) 16:15 (UTC)[返信]

議論が停滞してしまっていますが、文句ばかり言っていないで少しは合意形成に向けて議事進行の努力をされてはいかがでしょうか。冒頭部の繰り返しになりますが、私は以下のような判断基準を提案しています。こんな基準は気に入らん、似顔絵もOKとしたい、というのであれば、代案を示せば良いのです。

  • 著作権や肖像権その他の問題をクリアしているという前提で、制作者が「1 既存の芸術家等」であればOK。
  • 制作者が「2 ウィキペディアン」であるときはさらに描写の対象で判断して、「1. 特定の可視の外見を有するもの」であるときは絵は主観が入るのでダメで、写真のみOK。「2-A 特定の外見は有さないが形状によって記述できるもの」は原理的に写真撮影が不可能なので絵もOKだが、形状の記述が適切でないものはダメ(テトラポッドの絵がその例)。--猪山人 2006年6月24日 (土) 00:02 (UTC)[返信]
確かに議論は停滞しているが、こんなふうにちゃぶ台返しの術を使われても・・・。おれは「ある画像が説明に使えるかどうかは、テキストと画像の両方に依存する。よって、画像単独で評価をするのはきわめて困難」というアイディアを出している。とりあえずそれに対して反論とかはありませんか、と。--Nekosuki600 2006年6月24日 (土) 04:32 (UTC)[返信]
ご主張は、「上記のような統一的な判断基準を設定することすら反対」と理解してよろしいでしょうか。あなたのお考えは了解しました。--猪山人 2006年6月24日 (土) 04:48 (UTC)[返信]

問題点の切り分け

[編集]

類語

[編集]

ある人物の顔かたちを表わす一般的な言葉として「肖像」があります。肖像を表現する絵画的な手段として、似顔絵と肖像画があります。似顔絵が百科事典的でない、とする意見の対岸に肖像画であればそれを許容するという意見があります。

国語辞典的な意味合いでは似顔絵はカリカチュアされている点が明確です。対して、絵画的なジャンルとして確立されている肖像画では一般的にはリアリスティックに表現されている点があります。

似顔絵を論じる際に留意して頂きたい点としましては似顔絵と類似した語と明確に区別しなければなりません。さもないと写真機が生まれる以前の肖像画まで同列で扱う畏れが生じます。肖像を表現する画法に言及しても構いません。

具体例を挙げると、クイーン・エメラルダスという漫画の主人公である女海賊の顔には向こう傷があります。架空人物の風貌は漫画的な表現では頬に全角文字と同じ × の印が描かれているだけで、それが傷があることを伝えることができます。実在人物の風貌を伝える似顔絵ではその傷がどのくらいの大きさであるのかを伝えますが表現方法が傷の有無だけではなく、ある程度リアルな表現を求められることが多いと感じます。その一方で肖像画では特定箇所、ここでは「傷」のみに視点をおかずに全体な顔かたちの一部要素としてそれを伝えようとします。言わば、傷だけに注視・注力するだけではなく、その他の部位にも均等に目を向けます。こと傷について言えば、何針縫われているのか、その位置は顔のどこからどこまでなのかを正確に伝えようとします。もし、精緻な肖像画ならモデルが描かれた時代(年齢)によってその傷が予後からどのように変化しているのか、等々が伝わるように似顔絵よりもさらに写実的に表現することでしょう。


用途

[編集]

経過

[編集]

似顔絵という記事では実写による写真と似顔絵を並べて、その比較をしています。このような使い方は似顔絵全般についての扱いなので個々に似顔絵を論じているわけではありません。

例えば、現時点の高橋是清という人物の似顔絵の背景にはノートの罫線のようなものが描かれており、これが背景画なのか下書きを消し忘れたものなのかが不明瞭です。しかしながら、これを似顔絵だけに着目した場合の利用法として思考すると、次のような文章が書けます。

『高橋是清は似顔絵では fig-01 のように丸顔を強調されるような風貌を呈しており、礼帽礼服を着た状態からはその温和な丸顔は・・・、』のような書き方をすれば、似顔絵と言えどもある程度の利用の余地はあります。

対して、似顔絵の作者は余りにも風貌の他の部分を欠落させてしまい、どのような情報を伝えたいのかが不明瞭であり、風貌を誤って伝える畏れがある、とする意見もあります。


情報量

[編集]

ここでは個々の似顔絵をどのような場合に用いることができるのか、できないのか、における条件付けを考えて頂きます。


肖像権について

[編集]

キヨンネさんのノートで肖像権についてお話させていただいているのですが、ふとWikipediaの肖像権について疑問が沸いてしまいましたので、申し訳ありませんがいくつか質問させてください。まず、Wikipediaのなかでの肖像権の位置づけはどのようになっているのでしょうか。また、現在のWikipediaの記事のなかで、肖像権が明確な似顔絵はあるのでしょうか。
もうしわけありませんが、回答をお待ちしております。--Pieria 2006年6月16日 (金) 13:39 (UTC)[返信]

肖像権Wikipedia:画像利用の方針#肖像権についてをご覧ください。一般に肖像権はプライバシー権の一種であり、プライベートでの写真流出を防ぐ目的があります。顔のみを描く似顔絵にはまず該当しないと思います。--Masao 2006年8月24日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

関連項目

[編集]