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Wikipedia:井戸端/subj/引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?

引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?

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現在の「交響曲第3番 (ブルックナー)という記事には、次にような言葉が書いております:

この作品は「難解」と評されており、ブルックナーの芸術的ブレイクスルーと見なす者もいる。ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」。この作品はブルックナーの交響曲の中で最も改訂が多いことで知られ、少なくとも6つの版が存在し、そのうち3つが現在でも広く演奏されている。
  1. 私はこれを「大言壮語」として削除しようとしましたが、Gruppettoさんは「引用#日本法における著作物の引用」を理由に、「大言壮語的な表現があってもそのまま表現すべきだ」と主張し、元の大言壮語のあるバージョンに戻しました。
  2. その後、私は「引用の原文の大言壮語をそのまま残したいなら、せめて大言壮語のタグを貼り付けたほうがよい」と考え、そうしました。しかし、Gruppettoさんは「引用文はWikipedia:大言壮語をしないに該当しない」として、この貼り付けを取り消しました。
  3. 私が「Wikipedia:大言壮語をしない」を調べたところ、「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」といった言葉や方針は一切見つかりませんでした。

このままでは、Gruppettoさんとの編集合戦になる可能性があります。そのため、もしGruppettoさんが再び私の編集を差し戻した場合、私は何も行動せず、一旦立ち止まって様子を見ます。そのうえで、此処で最善の解決方法を教えていただきたいと思います。--赤葡萄酒会話2024年12月18日 (水) 03:55 (UTC)[返信]

ことの経緯について少々正確ではないことが赤葡萄酒さんによって書かれているので、私Gruppettoからも書いておきます。

  1. そもそも、交響曲第3番 (ブルックナー)に英語版en:Symphony No. 3 (Bruckner)の冒頭部からの翻訳として、クロイバーの言葉を含む加筆をしたのは赤葡萄酒さんの方です差分
  2. ところが、赤葡萄酒氏は「傑作」などの言葉が「Wikipediaの方針にそぐわない」として、引用文であるのにも関わらず表現を改変し、日本語としても些か奇妙な文章となりました差分
  3. なので私は、引用である限りは大言壮語的表現があっても正確に引用、翻訳すべきであるとして、より正確に翻訳し直しました差分
  4. すると赤葡萄酒氏は大言壮語テンプレートを貼りました差分
  5. 私は、これはあくまで音楽学者による評価の言葉の引用であり、記事の執筆者の行動に対するガイドラインであるWikipedia:大言壮語をしないには抵触しないのでテンプレートを除去しました差分

以上が正確な経緯です。--Gruppetto会話2024年12月18日 (水) 15:01 (UTC)[返信]

コメント Wikipedia:大言壮語をしないでは、冒頭部に「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞形容詞副詞を使わないようにしてください」とあり、続けて「大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです」とあります。これを逆説的に言い換えると「言及した人物等が明らかな場合や、事実としての情報が明らかな場合は、(そのことを明らかにした上で)記事を単に引き立たせるための表現を用いることができる」ということができ、利用者:Gruppetto会話 / 投稿記録さんはこの趣旨をおっしゃっているのではないかと考えるところです。
「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」というのはそれだけを見ると少々飛躍しすぎのような気もしなくもないですが、要は「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」ということを明らかにしてあれば、大言壮語のタグを貼る必要はないと思います。--Bsx会話2024年12月18日 (水) 04:11 (UTC)[返信]
横から失礼いたします。もしそうであれば、この件が解決した後、「Wikipedia:大言壮語をしない」に「引用文に関する明確なルール」を追記することが、良い解決策だと思います。
  • もし今回の件が「大言壮語のタグを貼らなくても良い」という結論になった場合、「Wikipedia:大言壮語をしない」の内容を改善することを提案いたします。ただ議論を待つだけで、方針自体を放置してしまうと、今後も誤解や論争が繰り返される恐れがあります。
  • 改善例として、『「誰がそのように(大言壮語を)述べたか」を明示していれば、大言壮語のタグを貼る必要はない』や、『言及した人物や事実が明らかであれば、(その旨を明示した上で)記事を引き立たせる表現を用いることができる』といった言葉を明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。
  • 現時点では「引用文の大言壮語に対する明確な方針や提示が無い」というのが事実であり、方針自体が字数が少なすぎ、また当事者の解釈に依存しすぎているため、誰でも誤解する可能性があります。
最後に、「引用文が大言壮語であれば、大言壮語のタグを貼り付けなくてもよい」という点に同意するわけではありません。あくまでも、この件が解決した後の解決策として申し上げるものです。--赤葡萄酒会話2024年12月18日 (水) 04:44 (UTC)[返信]
もし本気で提案する気であるなら止めませんが、今の提案内容であれば私は反対するでしょう。というのも『記事の執筆者』がしてはいけない、『何を』大言壮語と呼ぶかは既に書かれています。Template:大言壮語にも「証拠なく大言壮語をしないに従っていない記事や節に用います。」と書かれています。既存の文章で十分と考えます。--ぷにを会話2024年12月18日 (水) 06:03 (UTC)[返信]
コメント 補足 くだんの文章を拝見しますと、
ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」
とあって、言及しているのがルドルフ・クロイバーなる人物であることがわかります。正直なところ、このルドルフ・クロイバーなる人物がどのような人物でどのような評価がされている人物か私にはわかりませんが、この人物が音楽評論の分野において一定の評価がなされた人物であれば、
ルドルフ・クロイバー、第3交響曲を「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」と評している。
のような表現にすれば、(執筆者の評価による)大言壮語ではない文章にできると思います。--Bsx会話2024年12月18日 (水) 04:20 (UTC)[返信]
素晴らしいですね、こちらは。Gruppettoさんのバージョンは完全に間違っているわけではありませんが、少なくとも一つの言葉遣いに不適切な点があることが分かりました。また、「と評している」といった言葉を「Wikipedia:大言壮語をしない」明記することで、不要な誤解をきっと避けられると思います。--赤葡萄酒会話2024年12月18日 (水) 04:45 (UTC)[返信]
赤葡萄酒さんは何か勘違いしているようですが、私があえて「と評している」を加えなかったのは、翻訳元の英語版の文章がそこで終わっており、また引用符が閉じられているのでその言葉がクロイバーによるものである事が明白な為です。また、別の所でも書きましたが、赤葡萄酒さんは強調の目的で赤リンクを使っている様ですが、赤リンクの使い方として間違っていますので今後はおやめ下さい。—-Gruppetto会話2024年12月18日 (水) 07:53 (UTC)[返信]
対応する方針はWP:SUBSTANTIATE「偏った意見の陳述は、本文内で帰属化する方法でのみ提示することができます。たとえば、「ジョン・ドウは最も優れた野球選手である」という意見を表す陳述について、ウィキペディアでは、それがまるで事実であるかのごとく断定的に記してはいけません。「ジョン・ドウの野球技能は、アル・ケーラインやジョー・トーリといった野球関係者から賞賛されている」というように、事実に即した意見を扱った記述としてならば、記事に含めることができます。それでもなお、意見は検証可能な情報として適切に出典を提示した上で記載されなければなりません。」だと思われます。ただ、現行の記事には「評価」節が存在しないため、WP:LS「話題の重要性を強調する時には、相応に重視するという方針によって、公表された信頼できる情報源に従って相対的に重要性を反映させるべきです。これは導入部と記事本文の両方で当てはまります。もしこれら2つの部分で重視の度合が異なれば、その不一致の解消に努めるべきです。重要な情報は、記事の導入部以外の部分で扱われていないなら、導入部でも取り上げないようにすべきです」に照らし合わせて若干不調和気味だなという印象はあります。--Nux-vomica 1007会話2024年12月18日 (水) 04:36 (UTC)[返信]
中立的なご回答、誠にありがとうございます。心から感謝申し上げます。--赤葡萄酒会話2024年12月18日 (水) 04:46 (UTC)[返信]