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Wikipedia:井戸端/subj/IPユーザに対する態度

IP編集者に対して寛容な態度を

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私自身、かなりの間IP編集者として活動していました。もともとはIP編集者として活動を続ける予定だったのですが、このところIP編集者に対する風当たりが強く、記名編集者に移行したという背景があります。

IPによる荒らしが多くみられる、ノート等での議論に応じない編集者がいる、著作権違反を行う編集者がいる、ガイドラインを読む気がない編集者がいる等の問題が存在するのは事実です。これらに対して対処が必要でそれが負担となっているのは認めます。

しかし、悪質なIP編集者と、まじめなIP編集者を同一視するのはいかがなものでしょうか?IP編集者を見下すような編集者がいらっしゃるのはとても残念です。また、ご多忙なところ申し訳ございませんが、そのような態度をとられる管理人の方々がいらっしゃるのはwikipediaの健全な発展のためには問題であると思います。

編集合戦の後、IPユーザーがノートでの議論に参加しているページを「荒らし」を理由に半保護にされる管理人の方々がいらっしゃいますが、理解に苦しみます。

ガイドラインWikipedia:新規参加者を苛めないでくださいを皆様もう一度ご一読されることをお勧めします。ますめ 2007年6月7日 (木) 22:26 (UTC)[返信]

IP編集の場合、執筆した人の最低限の同一性を確認することができない、ということがあります。ウィキペディアのアカウント取得の敷居はかなり低いものですから、それすら行わないで編集に参加する者については、ウィキペディアに対して責任ある態度で臨んでいる、と思われにくいところは否めないでしょう。当然、IP編集者の中にも素晴らしい編集者がいることかと思いますが、その方と素晴らしくないIP編集者と区別が付きにくいわけです。これは正にアカウントを取得しないことによって生じるデメリットです。なお、IP編集者すなわち新規参加者ということにはならないと思います。--磯多申紋 2007年6月7日 (木) 23:08 (UTC)[返信]
おっしゃるとおり、IP編集者すなわち新規参加者ではございませんし、すばらしいIP編集者とそうでないIP編集者との区別がつきにくく、IP編集者として参加するということはそのデメリットを背負うことになるのは避けられないと思います。(もっとも記名編集によりフリーという目標の一部が損なわれてしまうこともまたデメリットと思います。)しかし、そのデメリットを負ってなお、真にフリーの百科事典を作ろうとプロジェクトに参加しているIP編集者のアクティビティーを下げてしまいかねないようなことは、なるべく避けた方がwikipediaの充実につながるのではないかというのが私の懸念です。ますめ 2007年6月7日 (木) 23:44 (UTC)[返信]
私は、アカウントを取得しない理由がいまいち掴めないので最初からアカウントを取りました。取って間もない頃は『IPの投稿を常に疑い、アカウントには寛大な立場』を意識せずとも取っていたかもしれません。言われてギクリとしました。反省します。・・・・・・ところでIPv6の世界になったら、数多くのIPアドレスが固定されて、今より多少はIPアドレスへの風当たり減るんですかねぇ? :D --秋月 智絵沙 2007年6月7日 (木) 23:58 (UTC)[返信]
韓国語版でもIP編集に関しては寛大ではないようです。(ここは固定が多い)ブロックをするケースもあります。--hyolee2/H.L.LEE 2007年6月8日 (金) 00:37 (UTC)[返信]
IPユーザであるために不当な扱いを受けた、ということでしょうか? 出来れば具体的な事例を:願いします。それと、「管理人」ではなく「管理者」です。 -- NiKe 2007年6月8日 (金) 00:45 (UTC)[返信]
IPユーザーに対してもそうですが、若年者に対して侮蔑的な発言をする方も見られますね、誰とは申しませんが。非常に宜しく無いと思われます。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月8日 (金) 00:55 (UTC)[返信]
IPユーザーに対してもそうですが、いわゆる有名コテハンの複数の方が一般利用者に対して使う言葉やその言葉から窺える態度が、非常によろしくないと感じることが度々あります。--案山子 2007年6月8日 (金) 01:57 (UTC)[返信]
ウィキペディアでは、IPアドレスは本質的には同一人性の指標になりません。なぜなら、MediaWikiはアカウントで利用者を識別するシステムだからです。IPv16(ないない)あたりですべての編集がIPアドレスで識別されるようになったとしても、同じことです (むしろ、もしもそんなことになったら、利用者のIPアドレスを表示することはやめるべきだよね)
たまに「IPユーザの人格を無視するな」とか逆ギレしてるIPユーザを見かけますけど、とってもシュールな光景に見えます。今存在していても次の瞬間には存在しないかもしれない人格に対して「寛容な態度を」といわれても困っちゃいます。コテハンで暴言を吐いたり吐かなかったりする人格に対してなら、寛容な態度や狭量な態度で接することを考慮する余地もあるのですけれど。
あと、とっても困ることとして、著作権関係の扱いがあります。GFDLは著者の表示を求めているのに、IPアドレスでは著者を特定できない。だから、IPユーザを認めるとしても、あまり重要な記述や充実した記述をしてもらっては困る、とも言える。そういうわけで、ウィキペディアに貢献したければ、やっぱりアカウント取ってコテハンでやってほしいですね。 --Hatukanezumi 2007年6月8日 (金) 04:29 (UTC)[返信]
話し合いの必要が生じていない状態の記事の執筆や、井戸端などで素朴な質問を挙げるだけ、ならば IP でなんの問題もないと思いますが、話し合いの必要が生じたときは、話し合いになったときは、コテハン(アカウント)同士でなければ、“コンセンサス”を目指す話し合いになりません。たとえば、ここをご参照。Uryah 2007年6月8日 (金) 12:21 (UTC)[返信]
日本語版は他の言語版に比べて極端に IP ユーザーによる編集が多いといわれています。実際の所、ログインせずに編集することの利点はほとんど無く、実際に簡単に思いつくのはアカウントを作成する手間などがないという事しかないと思います。
ただ、ログインしなくても編集は可能である必要がありますし、基本的に IP かログインユーザーかで対応を分けるようなことはしてはいけません。でも、イメージが悪いことは事実でしょうし、本人確認もログインユーザーに比べて非常に難しいです。なので、できる限り Wikipedia で活動する際にはログインすることを強く推奨します。
ぼくも、編集時に IP が記録されないようにするためにアカウントとってます(ランダムな名前で)。お試し程度でログインせずに編集する人もいるだろうし、基本的には IP ユーザーは長時間 Wikipedia での活動を予定していない(またはしていなかった)人が大半であろうと思います(そうでなければ IP での編集による利点など皆無に近い)。そういう意味で IP ユーザーは初心者に見えるという偏見がどうしても生まれるかも知れません。それもログインしていないことによる代償である程度は仕方ないことだとするしかないでしょう。それでも好ましいことでもありませんけど。また、ログインしていないとプロバイダによっては接続の度に IP アドレスが変わるところもありますのでその対象者を追いかけて注意文や案内文などを会話ページに投稿することが難しいという面もあるんですよね。
逆に方針に従わない、注意文などを無視する、荒らし行為を行うなどをする登録利用者はもっと悪質で一番困りますが。 --Mzm5zbC3 2007年6月8日 (金) 13:30 (UTC)[返信]
大きな盲目的狂信的誤解なのですが、アカウントユーザーであれば本人が確認でき、IPユーザーでは匿名的だという解釈は幻想です。他の人間からは、そのアカウントユーザーが昨日も今日も1時間前の彼も、同一人物かどうかなぞ判らないのです。固定IPの方がよほど非匿名的です。これはアカウントユーザーも、IPユーザーも勘違いしている点です。幾つものアカウントがソックパペットである可能性があるように、1つのアカウントが影武者だらけという事もありえる。…実際にそのような事が行われているかどうか、とか、それが容認される事なのか否か、とか、そういう話は関係ありません。IPユーザーが云々というテーマで話される以上、アカウントユーザーとはどのような性質を持っているのか、それを正しく認識して欲しいと思います。上で発言している٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥と、今ここに書いている٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥が同一人物だと、誰が証明できよう?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月8日 (金) 16:40 (UTC)[返信]
言いたいことはとてもよくわかるんだけれど、そういう実在論的なテーゼをここで出してもあんまし意味があるという気がしないなあ。たぶんそういうレベルの1000歩くらい前のところで、この問題提起がなされていると思うんだ。
自分が自分であること証明なんか、そうそうできないでしょ。物理的な状況による証明は可能かもしらんがそれらすら悪用されることはよくあるのだし、いずれにせよ物理的証明なんかWikipediaでは無理なんだし。ついでに、「あるIPアドレス」が、変動IPなのか固定IPなのかを見極めるなんてことは、安定的にできることじゃないんだし。
もうちっと現実的な方向で議論できないだろうか。
個人的には、インターネットユーザの匿名性を否定しリアルな存在とリンクさせる方法を最も真剣に考えているのはコッカケンリョクだと思うし、いまいちそこらへんと共同歩調は取りたくない。しかし現状のモラルなきひとびとによってもたらされている無法地帯性の是認もしたくない。あああおれはどうすればいいの、と頭を抱えている日々でございます。--Nekosuki600 2007年6月8日 (金) 16:49 (UTC)[返信]
いや、私が言いたいのは、己の存在証明は如何や、というのでは無く、IPユーザーが何の、アカウントユーザーが勘の、という話はナンセンスではないか、否、ナンセンスそのものであろう、という事なのですよ。自分は匿名的に執筆したいからと言うIPユーザーがいる。ちょっと待て、あなたはそのIPアドレスが本当に匿名的だと思っているの? そんなIPユーザーをカタチの無いものとして見ているアカウントユーザーがいる。それも待て、君はアカウントがそんなにカタチのあるモノだと信じているの? そういう事を言いたいのですよ。そこに気付いていたら、IPユーザーに対して侮蔑的な態度を取る事なんて出来無いのではないのか、と。国家権力がどうのとか、そんな事は関係無いのです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月8日 (金) 17:03 (UTC)[返信]
IPだからとかアカウントだからとかいう理由付けで、「技術的なものすごい差がある」なんてことは、おれも思っていません。しかしながら、「対話をするという姿勢の有無」については、ある程度の識別はできるんじゃないでしょうか。そうでなけりゃ、そもそもアカウントに意味がなくなっちゃいますなあ(そういう意味で、おれはIP以上に多重アカウントによる議論誘導などには冷たい。そしてそのことは、これまでの履歴から明らかになっていることだろうと期待する)。
技術的な話ではなく、「ちゃんとした対話をするという覚悟の表明」として、正当に取得され実績を積み重ねてきたアカウントには意味が見出せるだろう。そういうレベルの話をしてます。プロセスについてさほどの差はないだろう。しかしおれは、「ちゃんとした対話をするつもりならフツーは(たったひとつの)アカウントを取得して真面目に対話を試みるだろう」と思っており、その範囲でアカウントには信用をする余地がありIPにはない、と述べているのです。
結論部分への同意を求めはしないが、プロセスのところに同意が得られるとうれしいなあとは思います。--Nekosuki600 2007年6月8日 (金) 17:39 (UTC)[返信]
「プロセスのところ」というのは理解します。意味があるのか否かは、また別の話。このウィキペディアでも「署名」と呼ぶように、実際、署名(サイン)に過ぎません。「鈴木」の印鑑を持って行ったからと言ってその人物が鈴木さんかどうかは別だというのと同じです。仮説。ひょっとして日本はハンコ社会だから、“アカウント”という署名(サイン)を疑問抱かずに信頼している…!?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月8日 (金) 17:54 (UTC)[返信]
「ひょっとして日本はハンコ社会だから、“アカウント”という署名(サイン)を疑問抱かずに信頼している…!?」って、んなわけねーだろヴォケ、とかとりあえず怒声をあげておきますが、いいかげん夜も更けてきたのでそろそろ寝ようと思います。
いずれにせよ、この問題提起をしたひとは、そんな深遠で頭の痛い哲学的な「自己認識」やら「個人の同定」やらという話を基礎に問題提起をしたわけじゃないと思うんですよ。そういう深遠で頭の痛い哲学的な話に発展させても、問題解決には至らないのではないかということは、重ねて指摘しときます。これはもっと実利的で表面的なメリットの有無だけでかたづけていい話なんじゃないのだろうか。--Nekosuki600 2007年6月8日 (金) 18:01 (UTC)[返信]
Wikipediaは、おれが知る限りでは「百科事典をみんなで作ろう」というプロジェクトです。なので、執筆をしようとする方は、ある程度以上その項目が扱う内容に関してよく知っているひとであるはずだと思っています。
その項目が扱う内容に関してよく知っているひとであるのならば、その項目について学説的な争いがあるかどうかは、ご存知のはずです。その項目の全範囲について熟知しているべきとまでは申しませんが、ある程度は状況はご存知でしょうし、もし対立要因があるならばどこにどういう対立要因があるかくらいは知っていて当然ではないだろうかと。となりますと、「どういう書き方をすれば対立は潜行し、どういう書き方をすれば対立が顕在化するか」くらいのことも、当然知っているはずであろうと。
IPで書くなとは言いません。しかし、IPであろうがアカウントであろうが、その項目について百科事典の記事を執筆するに十分な知見があるのならば、自分の加筆が平和裏に見過ごしてもらえるか、それとも対立を引き起こすか、そのくらいの判断はつくはずです。つかないのだったら、そもそもその項目に執筆するにふさわしい知見を自分が持っていたかどうかを、疑う必要があるのではないでしょうか。
Wikipediaでは、運営方針にせよ、記事の内容にせよ、合意による対立の昇華が基本線となっています。そして、合意形成には、「誰とどういう合意形成をするのか」が、決定的に重要なこととなります。IPアドレスは、システムに依存するもので、発言者の同一性を保証する機能はもともとありません(アカウントにも、絶対の「発言者の同一性保証」の機能はありませんが、少なくとも「アカウント利用者個人、あるいはアカウントを利用する集団の、意思は表明されていると推断できます。集団によるアカウントの共有は、Wikipediaでは認められていませんが)。ですから、対立が生じる可能性がある場合には、IPではなくアカウントで参加することは、必須と言っていいと思います。百歩譲って、予想外の対立が顕在化してしまったら、その段階でアカウントを取得して、誠実な合意形成への努力をする必要があるでしょう。
というわけでだ。おれもIPで編集をしていた時期があるから、IPでの編集を全面的に否定したりはしません。しかしながら、「IPでやっていい範囲には限界がある」とも思ってます。それは、明記されてはいないかもしれませんがWikipediaの「合意形成」を尊重するとした場合の当然の帰結であるとも思っています。
Wikipediaの健全な発展のために、「なにがどう対立を引き起こす可能性があるのか」についての真摯な予測と、それに基づいての「IPで編集するか、アカウントで編集するか」の判断が必要なのではないでしょうか。おれは、IPアドレスでの編集を追放したいとは思っていません(少なくとも、現段階では)。しかし、IPアドレスでの編集を認めるという現状を維持するためには、IPアドレスでの編集には強く慎重である必要があるとも思っています。「ビギナーにはやさしく接したい」という思いと、「馬鹿をぶんなぐるのはやさしさの一形式である」という思いとの間で、おれも日々悩んでいたりするわけですなあ(ためいき)。--Nekosuki600 2007年6月8日 (金) 16:49 (UTC)[返信]
蛇足なのだけど、「アカウントであれば本人性が完全に保証される」なんて言ってません。持続的な (つまり、自身の執筆活動をはじめとした諸行動についての説明責任を果たせる) 存在であると客観的にみなされ得るかどうか、というだけの話です。
  • 「俺の人格を認めて意見を聞け」と要求する権利はだれにでもあります。けど、認めてほしければまずその自分の人格を他人 (論争相手および第三者) に把握してもらえるようにしろ、といっている。
  • 「自分は純粋に百科事典の発展に貢献したいだけだ」と考えて氏名表示権を行使しないという、利他精神あふれる行動をとる自由はだれにでもあります。けど、それではGFDLが文書のフリーな配布のためにとっている戦略が無効化されるおそれがある。
こういったことのために、人格をラベルづけして識別する手段が必要になります。MediaWikiではそれはアカウントという手段によって実現されますから、その手段を使うべきですし、使わないことになにか意義を見出そうとするのは意味のない作業です。アカウントの中のひとが複数いるんじゃないかとか、多重アカウントで複数の人格を演じているんじゃないかとかは、以上のべたことについては本質的ではないとおもう (こと氏名表示権に関して言えば、共有名義のアカウントや多重アカウントは別に問題じゃないし)。 --Hatukanezumi 2007年6月8日 (金) 18:09 (UTC) 微加筆 --Hatukanezumi 2007年6月8日 (金) 18:40 (UTC)[返信]
使わないことになにか意義を見出そうとするのは意味のない作業」…無駄かどうかしともかく、使わないのはその人の選択であって、それをとやかく言うものでは無いという事です。IPユーザーである事を以ってどうこう言うのは、ある意味では野暮。余談になりそうですが、何故に私がアカウントユーザーやIPユーザーという概念に付いてこのような事を言うのかといえば、自分のアカウント取得の経緯によるものがあるのですよ。矢張り、IPアドレスでは何だ、議論がどうの、という話になったアカウントを取得せざるを得ない状況に到った。それでも当人、ウィキペディアとは全く違う方面でハンドルにはそれまでに色々とあったので、その空気を持ち込みたくなかった(少なくとも当人には過去の経緯からハンドルにはそういう印象があった)。そこでIPアドレスをそのままアカウント名にした。IPユーザーとも言えるしアカウントユーザーとも言える。悪く言えばどっち付かずですが、両方の視点を結果的に持てた訳です。Hatukanezumiさんの言葉を借りるならば、私は「アカウントという手段」とやらを使いながら、同時に拒否もしているのです。そのような狭間の中で、IPユーザーとは、アカウントユーザーとは何なのか、と、思う処が色々と出て来た次第なのです。それは「IPユーザー」たる方や、「アカウントユーザー」たる人の抱える、他方に対する感情の、ナンセンスさを浮かび上がらせるものだったのです。…まぁしかし、IPユーザーかアカウントユーザーか、どちらかの概念しか持たない方には、もしかしたら理解して頂けないモノなのかもしれませんね。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月8日 (金) 18:29 (UTC)[返信]
٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥は、システム上は単なるアカウントです。命名者が字面にどういう意味を込めているかは、第三者には関係のないことでしょう。 --Hatukanezumi 2007年6月8日 (金) 18:40 (UTC)[返信]
あはは、それはそうですな。同じ実身名が幾つもあったとしても、仮身の無いくず実身だったとしても、或いは虚身であったとしても、システム上は単なるデータですな。…シテスム的な話のみに言及すると、こういう無意味な話になりますよ。しかし、単なるデータでは無く、人格を持った存在なのですよ。あなたはどこのプログラムで?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月9日 (土) 03:43 (UTC)[返信]
Nekosuki600さんの言葉のとおり「合意による対立の昇華が基本線となっています。」まさにその通りと思います。アカウント制は、現在のシステムでは、そのためのもっとも便利なツールだろうということにうすうす気づきましたので、私もアカウントに移行したという経緯があります。ただし、少なくとも私にとっては、wikipediaに参加するモチベーションは、便利で・正確で・フリーな良い百科事典を作るという目標にあり、私が良い執筆者として認識されることではありません。振り返ると、そのことが数年来私をアカウント登録から引き留めていた原因、アカウントを取得しないメリットと考えていたことです。
もちろん活発な編集をなさっている良く知られた編集者の方々や、記事の編集に加え必要な管理・仲裁に時間を割いてくださっている管理者の方々には、本当に頭が下がります。しかし、私は私のペースでこのプロジェクトに貢献させて頂きたいと考えています。自己の経緯もあり、多少感傷的になってしまっているのかもしれませんが、アカウント制だけが編集への参加方法ではないだろうという疑問を持っています。
余談ですがアカウント取得時、٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんのアカウント名には自己紹介での理由を読み憧れたものです。とはいえ、まねしたって紛らわしくなりアカウントの意味がうすれますから。。。ますめ 2007年6月9日 (土) 22:11 (UTC)[返信]
家族ユーザ、同じサークル仲間ユーザーも考えられるのでログインユーザにしても、非ログインユーザ(固定)にしても絶対同一人物といったことはないと思います。さて直近の例でいうとWikipedia:保護解除を乱発してブロックになったIPの方がおりましたが、ログインユーザーだった場合はブロックされなかったかもしれません。私の印象ではそのユーザの履歴(もちろん同一人物かどうか不明ですが)からはいい印象を受けませんでしたが。そういえば、今回の話題に関連してオークション詐欺が、問題ない取引を多数して良い評価を集めたIDを買って相手を信用させてから詐欺をする例があると聞いたことを思い出しました。--Tiyoringo 2007年6月10日 (日) 12:16 (UTC)[返信]
家族であっても他人にアカウントを使わせてはいけません。現実問題として家族でアカウントを共用していても第三者から確認のしようがないということを言いたいのだと思いますが、ここだけ読んで家族共有アカウントを作ってもいいとか誤解する人がいると困るので念のため。--emk 2007年6月10日 (日) 22:28 (UTC)[返信]
ログアウトせずに家族が利用してしまうことを想定した発言でした。言いたかったのはEmkさんの言われているようなことで間違いないです。昔ヤフーメッセンジャーで会話をしたら無視されて実はその人の子供がログインしていたといったことがありました。--Tiyoringo 2007年6月14日 (木) 12:11 (UTC)[返信]

IP:59.86.106.54会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisよ、IPでこそこそコメントアウトなんかやってないで、主張があり議論を交えたいんだったらアカウントを取ってからやれ。「自分の判断が絶対」というんだったら、そういうひとはWikipediaにはいらないから。--Nekosuki600 2007年6月14日 (木) 08:31 (UTC)[返信]

やれやれです。ようやく59.86.106.54氏がブロックされました。継続してリバートしてくる予感がして、6月14日12:11分コメントを入れたかいがあったようです。しかし他に編集のない彼は誰なのでしょう。--Tiyoringo 2007年6月14日 (木) 13:32 (UTC)[返信]

(インデント戻し)本題に戻りますと、「フリー」であることと「匿名」であることを混同している方が多いな、という印象を受けました。「フリー」すなわち「自由」な編集とは、匿名で何でも好きなことを書き散らしていいこととは意味が違うと考えています。その意味で、IPユーザーに対しては「自分の編集に対して責任を取る気がない」と見られても仕方がない側面もあるのかな、と考えています。この点について、ログインユーザーのソックパペットは対処法があるので別問題かと考えます。--VZP10224 2007年6月16日 (土) 13:46 (UTC)[返信]

IPユーザーの中に「自分の編集に対して責任を取る気がない」方が存在することは否定しません。ただし、私の主張した意見としましては、IPユーザーによる編集(正確にはログインしない編集)を禁止しないのであれば、IPユーザーも一個の書き手として尊重し対話する意志を持つ方がシステムとして健全だと思う。そして(荒らしに疲れていてやむを得ない面もあるが)、現状見下すような態度が見られることがあるのは残念に思うということです。もちろん、、「フリー」であることと「匿名」であることは違いますが、この議論に関しては、参加してくださった皆様の中には(Nekosukiさんの発言を荒らす一IPを除き)「匿名で何でも好きなことを書き散らしていい」という主張はどなたも持たれていないと思います。あとまあ、個人的な経験としては、識別が難しいソックパペットのほうがやっかいだと思います。以前対話できずに苦労したアカウントが最近になってソックパペットと判明し愕然とした。ますめ 2007年6月16日 (土) 14:33 (UTC)[返信]
(追記)編集の一形態であるアカウントを持たないユーザーによる編集と、明らかに異質で問題行動である、多重アカウントによる多数化工作や荒らしを同列視することに違和感があるだけです。当然問題行動である荒らしとしてどちらが対処しがたいかは論じにくいし別問題ですね。ますめ 2007年6月16日 (土) 15:08 (UTC)[返信]
「フリー」は「匿名」と同義では無い。「フリー」は「自由」と同義では無い。しかし「匿名」も「自由」も「フリー」の一要素である。混同している人は多く、混同はまずいとは思うものの、別物であるとする意見に対しても、違うものを感じます。自分は上記の「同義では無い。しかし要素ではある」という定義なのですが、別物だとする方の定義をお窺いしたいです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月16日 (土) 15:14 (UTC)[返信]
なんてのかな。別にIPで執筆してもそれはぜんぜんかまわないんだけど、それは「合意形成の必要がない範囲の編集』にとどめておいてほしいわけです。もし予想外の展開で合意形成の必要が生じてしまったら、即座に「IPのままでの編集はやめる」「アカウントを取得して合意形成をするに足りる立場を明示する or アカウントを取らないかわりにその後の編集継続を諦める」という選択をしてほしいわけですね。にもかかわらず、「IPであるがゆえに無責任な編集を強行する馬鹿がそれなりの数存在する」とか、「対立が生じそうだという気配を察知してIPに逃げ込むチキン(=臆病者)がそれなりの数存在する(←普段はアカウントを使っているやつが、ね)」みたいなことが、しばしばあるわけ。それは智に対して誠実に立ち向かおうという姿勢ではないだろうと。智に対して誠実に立ち向かうにはそれなりの勇気は必須の要件だからね。その馬鹿者や臆病者のの多発の結果として、必要以上にIPを見下すやつが出てきたりもするんだ。
それから、もうひとつ。合意形成が必要になった場合、すでに述べたことですが、「誰と、どのような合意を、形成するのか」というのは大事なポイントになります。「誰と」ということも、見過ごすことはできない論点だ。その「誰と」というところをごまかそうとすることは、合意形成の妨害要因になることなわけですよ。IPで議論に参加することや、IPで争点を抱えた編集を強行することは、その「合意形成の妨害要因である」ということは、強く言ってもいいのじゃないだろうか。そこんところを勘違いしてIPでの発言を援用するやつは、これは殴ってもいいのじゃないだろうか(=さくさくリバートしてよく、さくさくブロックしてかまわない、そういうたいへん低い評価しか受け得ないような姿勢なのである、と)。
IPで書き込むひとは、自分の姿勢が「IPでの参加」への評価総体を左右するものなのだということは意識しておいてほしい。ちゃんとそこんところを意識するなら、何がどう問題であり、何がどう問題ではないのかは、容易に理解できることだろうという気がする。--Nekosuki600 2007年6月16日 (土) 17:17 (UTC)[返信]
待った。それは言い過ぎでしょう。ならば全てのアカウントユーザーが「自分の姿勢が「アカウントユーザーでの参加」への評価総体を左右するものなのだということを意識」していると言えるだろうか。というより、IPユーザーにそれを求めるならば、アカウントユーザーもまた然りでなければおかしい。Nekosuki600さんは認識してらっしゃるでしょうが、そうで無い者も多いでしょう。少なくとも私にはそう感じられます。それはIPユーザーのものと、何ら変わるものではありません。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月17日 (日) 14:59 (UTC)[返信]
いや、微妙に違うと思うんだよ。
アカウントユーザの場合には、アカウントごとの個体識別がなされるという期待がある程度可能だ。だから「あるアカウントユーザの行動」が「アカウントユーザ総体への評価」として受け止められるケースと「当該アカウントユーザの評価」として受け止められるケースの両方が考えられ、後者の要素は否定できないと思う。対してIPユーザの場合は、IPは同一性が保証されないものであるがゆえに「あるIPユーザの行動」について「当該IPユーザの評価」となるよりも「IPユーザ総体への評価」となることが多いのではないだろうか(つまり、「あるIPユーザの評価」という要素は、かなり軽い)。それが正しい認識であるかどうかについては言うまでも泣く議論の余地があるが、現実問題「IPユーザは」と一括して扱ってしまうひとが少なからずおられるという観点から、そういう認識があることは確かではないだろうか。
ここらへん、人間の認識能力や認識の方向性にもかかわってくる話であり、ひとすじなわではいかないのは確かだ。そこらへんもひっくるめて考えた上で、おれは「合意形成をはからなければならないような状況に陥ったとき、『誰と合意を形成するのか』について相手にわかりやすく示すことをしないという選択としての、IPユーザであり続けるという姿勢」には、合意形成能力や対立解消能力を軽視するものを感じざるを得ないし、そのあたりの利害得失を考えた上で振る舞いを考えてもらいたいということは強く言っていいと思ってるわけです。--Nekosuki600 2007年6月17日 (日) 15:24 (UTC)[返信]
競合したけど、これで最後にするので。
アカウントユーザに対する評価は、「そのユーザ (そのユーザ名) に対する評価」になります。したがってアカウントユーザは「自分の姿勢が自分への評価総体を左右するものなのだということを意識」すればよろしい。
だいたいですねえ、「自由」ってのは、他者との相克なくして存在しないわけです。その前提として、「自分は自分だ」ということを他者に対して認識できるようにしなければ、そもそも相克もできないわけです。
「自分は自分だ」ということを自分の脳内で思うのは勝手ですけど、それを他人に認識できるようにしもしないで「俺は自由なんだオルァ」「俺の存在を認めろゴルァ」とか言ってたら、ただの馬鹿でしょ。それだけのこと。 --Hatukanezumi 2007年6月17日 (日) 15:28 (UTC)[返信]
いやあ、しかしそうとも限らないとも思ったりして。
おれはにちゃんねるについてはプラスマイナスいろいろな印象を持っているのだけれども、マイナスな印象のひとつとして「名無しの優越・コテハンへの侮蔑」みたいなもんがあると思ってるの。コテハンを使うだけで「自己顕示欲過剰」みたいなことを言ってくるやつがいたりするからねえ。その延長線上に「アカウントユーザの総体としての印象論」みたいなものが出てくる土壌が現在の日本にはあると思っていて、IPを使い続けるという姿勢のバックボーンのひとつはそれじゃないかとも思っている。良くも悪くもにちゃんねるは現在の日本におけるデファクトスタンダードのひとつになっちゃっているからね。
名無し文化というのは、そういう意味で、おれにとっては「人間の認識能力へのアンチテーゼが力を持った事例」のようにも思えて興味深いんだけれども、しかしそれをWikipediaなりなんなり、結論を出すことを求められる合議の中に持ち込むのは無理だとも思っている。しかし、名無し文化に首まで漬かっていて他の文化には思いが至らないひとには、「他の文化もあり得るのだし、上手に使い分ける必要がある」ということが伝わらないのじゃないかと思っていたりもします。それをどう伝えるかというのはけっこう文化論的難題でありまして、面白くはあるんだけどめんどくさくもある。--Nekosuki600 2007年6月17日 (日) 16:16 (UTC)[返信]
(競合してしまいましたが)IPユーザーでも自発的に、あるいはそのように誘導すれば、可能な限りコミュニティのストレスが少なくなるように議論に参加する場合も少なくありません。IPユーザーもその項目に熱心な興味を持っているコミュニティの一員であり、場合によっては他のログインユーザーよりも専門家かもしれません。もっとも中にはコミュニティの共栄を目的としたガイドラインをよく知らない・重視しないユーザーも見られ、それを改めてもらうよう指摘しても対話が難しいユーザーがいます。このようなユーザーはIPにしろアカウントにしろブロック依頼は検討して良いと思います。しかし、明らかな荒らしでないかぎりさくさくリバートするというのは単なる編集合戦と思います(つまり半保護の案件ではないはず)。
アカウントユーザーがIPユーザーに大して対して確実に優れているのは、編集と連絡において便利であるということにすぎないと思います。アカウントユーザーにしろIPユーザーにしろ百科事典を著するにあたり負うべき責任は等しいはずです。長期にわたり履歴が蓄積されることによる信頼というのはメリットともなりますが権威主義というフリーの百科事典にはそぐわないデメリットも内包しています。議論は、評価云々ではなく是々非々で判断するものではないでしょうか。IPユーザーがらみで今までやっかいなこともありましたし、なるべくそういう目には会いたくなと思っていますが。一個の論者を黙殺するようなことはいかがなものでしょうか?GFDLに基づくログインユーザーのみによる百科事典を作ることも可能なはずですが、それはフリー百科事典でしょうか?議論の余地はある気がしますが、私自身の勉強のためにもそれでもフリーだと言える方がいらっしゃるならご意見を伺いたいと思います。ますめ 2007年6月17日 (日) 16:13 (UTC)誤字修正ますめ 2007年6月17日 (日) 16:17 (UTC)[返信]
Wikipediaでいうところのフリーの概念ってけっこう争点(論点)にできることだとは思うんだけど。おれの認識では、「フリー」を「自由」ととらえていろいろ考えてもそれはWikipediaの独自性にはあんましつながらないと思うんだ。Wikipediaの独自性は、GFDLに則っている限りは「無料で(=フリーに)」使えるというあたり。コンテンツって、これまでなにかっつうと料金支払いが必要なものであり、なにかっつうと著作権侵害とか言われるものであって、めんどくさかったじゃん。その点について、いろいろ欠点はございますが、インターネット文化に即した百科事典を作って互いに使いまわそうぜ、みたいなあたりが独自性であり、実利的にもメリットがあるところだと思うんだな。ここで「フリーという概念」について持ち出しても、あまりそれは利益をもたらさない論点なんじゃないだろうか(いや、それが大事な論点だという意見は理解します。しかしそれをここで持ち出しても反証にはならないだろうと、おれは言っている)。
おまけ。
合意形成が必要な編集を強行しつつ、しかし合意形成について用意されているシステムを使わないというのは、相手方を疲弊させるという方法論での優位性を確保することになります。それは、フェアなことでは、ないでしょう。「合意を形成せよ」というのは、明記はされていませんが、「手練手管や陰謀を使って相手を押し倒せ」という意味ではなくて「フェアに意見を交換して相互理解を構築しろ」という意味であろうと、わたしは思うからです。そうでなければ、合意に意味なんか見出せなくなりませんか。
合意形成をした上でより良い記事を目指すというWikipediaの基本姿勢の上では、合意形成についての妨害行為はなるべく削減すべきだということになるでしょう。IPユーザとして異論のある編集を強行するというのは、やはり歓迎できないことだと思う。異論が出た段階で編集を諦めるか、アカウントを取得して真摯な対話に応じるか、どっちかにしてほしい。「異論が出た段階で」というのは、現実的に判断できる基準であるわけで、おれとしては、そこらへんが最大限の譲歩だなあと思うんでありました。そこでアカウントを取得して誠実に対話をしてくるなら良し、IPでの編集を強行するならその時点でそいつは荒らしと断定してかまわないんじゃないでしょうか。--Nekosuki600 2007年6月17日 (日) 16:26 (UTC)[返信]
IPユーザーだろうとアカウントユーザーだろうと、荒してくる輩は荒し。
「そんな事は有り得ないからナンセンスだ」等というのは抜きにして、仮の話をしましょう。もし、たった今から、ウィキペディアがアカウントという概念をとりやめたとして。アカウントユーザーは当然、そのアカウントを失う事になる訳ですが。あなたは真摯たる態度では無くなるのでしょうか? 否、そんな事は無いと思います。つまりはそういう事なのですよ。逆を仮説して見えてくる真実。IPユーザーだろうとアカウントユーザーだろうと、それは名札の色の違いに過ぎないのです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月17日 (日) 16:45 (UTC)[返信]
それはぜんぜん違うって(=^_^;=)。
主観的にどうであるかということと、他者から見てどうであるかというのとは、視点が違うんだからさ(もちろん、他者からはどう見えるかというのが反射的に主観的姿勢に影響を与えるということはあり得るが、しかしそれは反射的効果だ)。自分から見たときに自分が自分であることがわかりやすいのは自明のことだ(というか、他者は自分並みには実感できないからね)。しかし、他者から見たときに自分が自分であることがわかりやすいかどうかというのは、それとは全然別の問題であり、アカウントを使うということは「他者から自分が識別しやすい状況を提供するかどうか」という問題なんだ。名札の色の違いなんていう些細な違いではありません。そう思うのだったら、それは「自分から自分を見た視点」に影響されすぎている。--Nekosuki600 2007年6月17日 (日) 17:26 (UTC)[返信]
他者から見たときに」、この場合の他者とは誰か。アカウントユーザー? 違いますね、本人以外です。その中にはあなたも含まれている。つまりは、あなたがそう考えているに過ぎない。あなただけとは言いませんが、そう考えている者がいるに過ぎない。何故ならば、「本人以外」には私のようなNekosuki600さんの意見とは異にする者もいるのです。「あなたから見た視点」に影響されすぎている、という事にはなりますまいか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年6月17日 (日) 19:47 (UTC)[返信]
いやあ。えーと、「それはあなたの意見でしょ(大意)」というご指摘ならば、それはその通りです。というか、誰しも自分の意見以外は書けないでしょ。問題なのは、その意見にどの程度の説得力があるかということで、それが意見なのかどうかじゃないと思うんだよね(ためいき)。でだ。
他人から見たときに「誰かが、誰か特定の個人であることが、わかりやすいかどうか」という論点があるのだということは、すでに「2007年6月17日 (日) 15:24」で述べているし、なぜ日本では「わかりにくい手段への親和性が高いのか」については「2007年6月17日 (日) 16:16」で述べてます。異論があってもそれはかまわないのだが、「それはあなたの意見でしょ(大意)」というリアクションでは、反論したことにならないと思うんだよね。
Wikipediaに限らず、「名乗らないユーザの特性」というのは、それなりに論点となっている注目すべき研究テーマなんです。それについては、自分のスタンスとは別に、世間様(笑)がどのように対処しているか、どのように認識しておりどのくらい認識の限界を露呈しているか、そういうことをきっちり見ていかなければならない。おれがしているのはそういう話であり、あなたにはあなたの視点から出来るリアクションがあるはずだと思う。それは「それはあなたの意見でしょ(大意)」なんていう簡単なものじゃないと思うんだ。
そういう対話の先に、Wikipediaとしてどういう態度を示せばいいのかがようやくおぼろげに見えてくるというくらいの、ややこしくめんどくさくて英知を結集しなけりゃならない大問題なんじゃないだろうか。おれとしては、そういうリアクションを期待したいんだけどなあ。ま、それもおれの意見・希望にすぎませんけれども。--Nekosuki600 2007年6月18日 (月) 14:51 (UTC)[返信]