Wikipedia:査読依頼/雲取越え 20090907

雲取越え - ノート[編集]

熊野那智大社熊野本宮大社を結ぶ山越えの参詣道です。専門知識(関連分野・周辺分野含む)をお持ちの方だけでなく、あまりなじみの無い方、雲取越えを知らない(あるいは当記事を読むまで知らなかった)方から も、正確性、分かりやすさ、面白さ、疑問点、「こんなことが知りたい」という点など、気づいた限りのご指摘を頂ければ幸いです。--ikedat76 2009年9月6日 (日) 14:48 (UTC)[返信]

【査読】 ──専門家の方による審査結果。
【検証】 ──参考文献などと照合しつつ正確性を評価頂いた結果。
【書評】 ──専門外の方による評価および助言。
各種文献を読み込んで対照した力作であることは一目でわかりますので、普通の書評と違って褒め言葉は抜きに気になった点ばかり書かせていただきます。
  • 冒頭地図、汎用(?)のため、図のどこが雲取越えに当たるのか見てわかりにくい。しかも「中辺路」の説明に対し地図違ってませんか? 1.2「雲取越えから本宮・中辺路を通って」もそうです。冒頭地図を見ると新宮の速玉大社から那智を通ってずっと「中辺路」には違いないだろうしなぁと思ってしまうわけで。
  • 1章、藤原定家「熊野道之間愚記」文中、「遇わず」は「わ」で間違いないですか。その他の章の文献も、仮名は原文通りですか、現代仮名遣いに直した所がありますか。
  • 1.1「正式の法会や祭礼には参加し得なかったことに見られるように」と唐突に言われても、「上のどこかに書いてあったっけ?」と戸惑う。この節全体的に文章が硬くこなれていない印象。私が歴史用語に疎い(これはマジです)せいかもしれませんが。
  • 「大峯奥駈行」は大峯奥駈道へのリンク張らなくていいですか。あとこれは「ぎょう」、修行なのですかね? 単に「大峯奥駈道を歩く行事」っていうだけなのか、修行か何かなのか、少なくとも1.4には一言説明がほしいです。
  • 1.2「小口」についての説明は1.3に至って出てきますが1.2では位置関係がよくわかりません。(後述)とあると親切。
  • 1.4、史跡の答申から指定まで随分年月が経っていますが、何か事情はあるのでしょうか。
  • 「峯」字は「峰」字ではいけないのでしょうか。「大峯奥駈行」はもしかしたら固有名詞として定着しているのかもしれませんが、「順峯」「逆峯」「峯入り」はそういう文字遣いの習慣があるのか単に文献に従っただけなのか。2章では「蹟」は常用漢字外です。あと平仮名に開いていますが漢字に直してもよさそうなものが散見されます(くだり、ゆるく等)。「小雲取越えにとりつく」は「たどりつく」? 「旧い」は「古い」でよいのでは。
  • 2章「雲取越えの峠」は全体として何を説明しようとした章なのでしょうか。行程を詳述したものとしても少々詳しすぎ、熊野古道を辿ってみようガイドになりかねないものに見えます。それは百科事典からは逸脱していると感じます。1章「歴史」に対して「現状」を示そうというならわかります。
  • 今日の万歳峠が「『紀伊続風土記』の記述と位置が符合していない」というのがよくわかりませんが、『紀伊続風土記』、前後・中略部分は読んでいませんが、素直に読めば、旧道(本道)は那智〜志古〜番西峠〜請川〜本宮であって新道は那智〜小雲取の道〜(〜請川?〜)本宮ということを言いたいように見えるのですが辻田氏らはそうは見ていないということですか。
--КОЛЯ 会話 2009年9月14日 (月) 19:25 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。すぐに答えられるものとそうでないものと両方あります。すぐに答えられないものについては熟慮の上で回答したいと思います。ただ、リアルワールドで忙しくなる見込みがあり、時間のかかるもの・労力の要るものについては、すぐに対応できないかもしれません。その点は、どうかご了承いただきたく。
  1. 史料からの引用 - 「原文通り」が何を意味するかによりますが、史料引用はすべて出典として示した文献の表記にしたがったものです。『熊野之道間愚記』の出典として使用した文献は、校註者による読み下し文(オリジナルはカナ交じりの漢文)が掲載されたものですのでそれに従っています。なお、多くの熊野参詣道や熊野信仰に関する書籍(専門書含む)でも、『熊野之道間愚記』は読み下し文で引用されるのが通例です。
  2. 大峯奥駈行 - [[大峯奥駈道|大峯奥駈行]]とします。「大峯奥駈行」はご推察の通り、修験道の行です。ただし、説明はこの記事では不要と考えています。まず大前提として、前近代において修験道の霊場たる山岳に修行者でもない俗人が立ち入ることなどありえず、山岳に足を踏み入れる者は直ちに修行を目的とする(山伏等の)修行者に他なりません。例外はありますが、原則はそうです。こうした事は、この記事で説明するのは適切ではなく、修験道なり山岳信仰なりに関するどこか適切な記事で述べるべきことと考えます。そもそもの点として、聖護院に限らず寺院の行う行事が「単なる行事」である、というのはいかなる事態を想定されているのか、質問の趣意をちょっと図りかねました。
  3. 史跡指定 - 何故なのか承知していません。答申から指定まで時間がかかっているのは熊野参詣道全体に対して言えることなので、もし本格的に述べるのであれば熊野古道もしくは、文化財指定に関するどこかの記事(指定基準とか、指定の過程とか、指定の傾向とか…)が適切でしょう。
  4. 「雲取越えの峠」
    1. フォーマットの観点から。文化庁選定の歴史の道は全部で100ほどある(数はちょっとうろ覚えです)のですが、その一つ一つに対して調査報告書が編纂されています。記事の構成を考えるにあたり、参考にしましたが、行程の記述は必ずあり、地形・遺跡・民俗・伝承等かなり詳細な記述がなされています。記事の作成に当たっては、歴史の道調査報告書よりやや粗い程度のレベルを目標にしました。したがって、観光ガイド的だという指摘は当たらないと考えます。
    2. ただし上の文言は、和歌山県教育委員会の調査報告書(1979年刊行)に、現時点の記事と同程度もしくはより詳しい記述がある、という意味ではありません。和歌山県教育委員会の調査報告書の調査・編纂・刊行が行われた時点では、雲取越え#現代の節に書いた様に、ルートが確定できておらず、記述も薄いものしかありません。上で言っているのは、どの程度まで詳しく書くかというレベル感を決める上で参考にしたという趣旨です。
    3. 対象それ自体の性格から。第1に、雲取越えの道を通行した記録の多くが著されたのは近世のことで、このころには参詣道・巡礼道といいつつも、庶民たちは行楽としての性格が勝った旅をしていました。そのため、彼らを当て込んだ茶屋・宿が多数設けられ、それらの遺構が数多くあります。また、参詣記・地誌等にもそれらに関する記述が多数あります。第2に、(特に)大雲取越えに関して言えば、記事中にも書いたとおり800メートル前後の峠を上り下りする起伏のある道であるため、地形に関する記述の分量は多くならざるを得ない部分があります。こうした対象の性格のため、多少なりとも丁寧に書こうとすると、やや煩雑になるのは避けられません。
    4. とはいえ、煩雑さ・冗長さが皆無とまでは確かに言えません。熊野古道関連記事の小辺路と比較してみると、日程では半分な上に自然誌に関する記述もないのに、小辺路の7割近いバイト数があるというのはバランス的に問題があるのかもしれません。見直しは進めてみますが、どの程度まで圧縮できるかはお約束できません。また、時間がかかることをご了承いただきたく思います。
  5. 表記等
    1. 「順峯」「逆峯」「峯入り」の「峯」はすべて聖地としての大峯山を指します。また、大峯山についても、専門書ではおおむね「峯」の字で表記するよう傾向にあるに見受けられます。したがって、いずれも「峯」とするべきと考えます。
    2. 「蹟」「旧い」。直します。
    3. 「小雲取越えにとりつく」は「たどりつく」?。誤記でも脱字でもありません。山道にアプローチすることを「とりつく(取り付く)」と言います。
    4. 平仮名・漢字。漢字に出来るものを平仮名にしているのは意図的なものです。漢字かな比率と視覚的な見易さを考えたものです。
  6. 「西国三十三所と雲取越え」の節。何を書くか/書かないかが精選できていない部分があるかもしれません。その辺りの整理をする必要が確かにある節ですが、これもちょっとお時間を頂きたく。
以上、すぐにお答えできる点のみ回答しました。残りは追って回答します。よろしくお願いいたします。--ikedat76 2009年9月15日 (火) 16:47 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。
  1. 出典通りの表記とのこと、了解いたしました。
  2. 「大峯奥駈行」の質問の趣旨といたしましては、背景知識がないものですからすぐには「おおみねおくがけぎょう」と読めなかったわけです。少し上の方に「熊野古道を歩く会」なんてのもあるので、そういう類のものなのか、「ぎょう」なのか、背景知識のない者にとっては文脈が辿りにくかったということです。
  3. 史跡指定の件、了解です。
  4. 2章記述の方針のご主旨は了解いたしましたが、そんなに詳細でなくてもいいかな、とは感じます。
  5. 「峯」について、専門書で使う傾向にあるとのことでしたら了解しました。「取り付く」了解しました。平仮名は、個人的には文章全体で統一が取れていない感を抱き、その意味で読みにくく感じます。
--КОЛЯ 会話 2009年9月15日 (火) 20:59 (UTC)[返信]
お返事遅れて申し訳ありません。
  1. 地図と説明が不整合である件。地図のほうがおかしいです。手抜きをするなというご指摘のとおりですので、何とかできないか模索してみます。
  2. 万歳峠の件。
    1. 小雲取越えについて、近世に定着し今日まで知られているルートと、近世より前の時代のルート(西行や定家が通行したであろう)が違っているという説は定着しています。辻田らもその点については問題にしていません。
    2. 『紀伊続風土記』によれば、近世より前の時代のルートは「万歳峠」を通ったとあります。辻田らが問題にしているのは、近世より前の時代のルートが通っていた「万歳峠」が、今日の(例えば国土地理院1/25000地図などに「万歳峠」と記された)「万歳峠」と符合しないという点です。
    3. その根拠として『紀伊続風土記』の、道中に「遊行上人の名号の石碑二所にあり」という記述があります。この「名号の石碑」と推定される石碑が今日でも残っていますが、その石碑を見るためには、今日の「万歳峠」道を外れなければなりません。
以上、残りのご指摘への回答です。よろしくお願いいたします。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 04:18 (UTC)[返信]
地図の件了解いたしました。正しい地図の作成(?)を期待しております。万歳峠の件は、結局、1小雲取越え、2現在の万歳峠、3標高463メートルのピーク、の3つのルートが存在し、辻田等の研究では『紀伊続風土記』の記述を3のルートに比定したということですね。さて本文の「『紀伊続風土記』の記述と位置が符合していないばかりか、」という記述は『紀伊続風土記』の本文から素直に出てくるものでしょうか。「石碑」の位置が示されていないと、すっと理解することが難しく、未だ引っかかっております。--КОЛЯ 会話 2009年9月19日 (土) 16:45 (UTC)[返信]
「『紀伊続風土記』の記述と位置が符合していない」というのは辻田氏が書いていることで、勝手に書いたことでは無いのですが…ということでは無いのでしょうか? 一応書いてみます。違ったらごめんなさい。西国三十三所の改稿、いかがでしょうか?--ikedat76 2009年9月19日 (土) 16:52 (UTC)[返信]
西国三十三所、だいぶ理解しやすくなったと思います。万歳峠のくだりは、内容の真偽よりも文章展開上の理解しやすさのことです。さっきここに書いたときにはまだ改稿されていないバージョンを読んでいたのですが、17:02版でよくわかるものになりました。色々注文つけてしまいましたがご対応ありがとうございます。--КОЛЯ 会話 2009年9月19日 (土) 17:19 (UTC)[返信]
【感想】 ──専門外の方による感想。
「西国三十三所と雲取越え」の節について。ikedat76様も「何を書くか/書かないか」迷っていらっしゃるようですが、沿革については西国三十三所に加筆する形で譲り、本記事では簡略に記すのみとされてはどうでしょうか?--胡亂堂 2009年9月16日 (水) 10:46 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。КОЛЯさんのコメントと重なるところがあるので、こちらでお答えします。一応書くべき筋道は、
  • 雲取越えは西国三十三所のルートとして生き延びた。
  • 西国三十三所のルートの定着に大きな役割を果たしたのは那智山の勧進聖の活動である。勧進聖は、寺社の造営に要する費用を、庶民の奉加と散銭から集めるために活動した。
  • 江戸時代に神仏分離・寺社統制の一環として、勧進聖の活動が抑圧された。
  • しかし、庶民の奉加と散銭は寺社の造営に欠かせないものになっていた。そのため、寺社の側は、寺院を三十三所の霊場として喧伝し、西国三十三所巡礼に人々をいざなった。
  • そのため、雲取越えは近世にあって、ますます多くの人によって通行された。
というところでしょうか。この筋道で書き直し中です。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 07:11 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。上の2~4番目をどこまで残し、どこまで「西国三十三所」へ譲渡するかですよね。書き直し後を期待しております。--胡亂堂 2009年9月19日 (土) 10:54 (UTC)[返信]
改稿しました。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 14:41 (UTC)[返信]
拝読致しました。その上で改めて気付いた点があるのですが、長くなりますのでノートにて。--胡亂堂 2009年9月21日 (月) 07:26 (UTC)[返信]
(インデント戻す)同じくノートにてお答えしました。やや(だいぶ)長文になってしまいましたが一読願います。また、類似の誤読を防ぐ意味で記事にも若干ですが手を入れました。--ikedat76 2009年9月21日 (月) 16:51 (UTC)[返信]

概要の第1段落で「熊野参詣道」とあり、第2段落冒頭で「熊野古道」とあり混乱した。第1段落でリンクをたどると、そこは「熊野古道」のページである。そうなら、はじめから「熊野参詣道(現在では熊野古道ともいう)」と書いておいてくださるとありがたい。また、第2段落で、「熊野本宮大社に達した後」とあるが、「xxxから発して」と出発点が書かれているとよい。 --Sibazyun 2009年10月7日 (水) 08:18 (UTC)[返信]

コメントの記入位置を訂正いたしました。
コメントありがとうございます。「熊野古道」と「熊野参詣道」は、文脈によって同じものとして扱える場合と扱えない場合がありますが、ご指摘の部分については「熊野古道」でも問題ないため、「熊野古道」と改めました。なお、「熊野参詣道(現在では熊野古道ともいう)」というような関係ではありません。熊野参詣道の名は国指定史跡名および世界遺産登録資産名として現役で使われている名です。
中辺路(紀伊路)の出発点については、紀伊路を見ていただけばよろしいと考えています。中辺路(紀伊路)の出発点と終端がどこなのかという問題は多少面倒な面があるため、記事の主題と直接には関係の無いところで煩雑な記述をすることは避けるべきと考えました。
以上、回答といたします。--ikedat76 2009年10月11日 (日) 02:10 (UTC)[返信]
【その他】 ──表記・文体など
表現方法、文体に関して
  1. 脚注での出典と注釈は読者にとって利用目的が異なるため分離した方が良いと思います。
  2. 元号表記の不一致。1903年(明治36年)、明治5年(1872年)、2004年など。Wikipedia:表記ガイドでは旧暦であっても和暦のカッコ内併記が例として挙げられています。
  3. 雲取越えの峠節で地図としてそれぞれ画像表示されていますが、縮尺が日本では違いがわかり辛いです。日本地理上のおおまかな場所を明記したいという意図であれば当該地図は冒頭に表示し、現在冒頭にある詳細地図で大雲取越え、小雲取越えを強調したものを当該節の画像とすべきではないでしょうか。
以上、気になった三点を指摘させて頂きます。--R.Lucy 2009年9月16日 (水) 00:36 (UTC)[返信]
ご指摘ありがとうございます。遅くなりましたが、回答いたします。
  1. 「脚注での出典と注釈〔略〕分離した」方式(以下、「出典注釈分離方式」)が最近流行の様ですが、採用するつもりはありません。この記事だけのことではないので、ノートにて回答を差し上げます。
# 表記ガイドは承知しています。また、編集上のチェック漏れでもありません。いくつかの点から、西暦以外の暦が通用していた時代や社会に関する記事を書く場合、機械的に従うことは問題が生じるように思われます。
    1. 大まかな言い方になりますが、旧暦とグレゴリオ暦は、年月日が1対1で対応しません。多くの文献で西暦と元号の対照(併記)はされているので、年は問題ないでしょう。しかし、何月何日まで言及する場合はどうでしょうか。まず確実な換算の手段がありません。また、換算の手段があったとしても、年月日入りの史料を引用する場合はどうするのでしょうか。太陰暦日付と太陽暦日付をその都度いちいち併記すればよいのかも知れませんが、そうすることにメリットがあるとは理解できません。読み手にとって不必要に煩雑な情報を提示することになるように思います。
    2. こうした問題があるため、太陰暦と太陽暦の不整合が(日本で)解消する明治5年を境に、西暦メインの表記と元号メインの表記を意図した上で混在させています。個人的な感覚を交えて書くと、歴史学を専攻したことの無い人(私自身を含みます)にとっては元号で書かれるよりも西暦で年が書かれているほうが、感覚的に親切であるように思います。不整合の問題さえなければ、西暦メインで一貫させることができるでしょう。
  1. 「日本地理上のおおまかな場所を明記したいという意図」ではありません。使用した{{mapplot}}というテンプレートは、引数として与えられた経度緯度のプロットと、Google Mapおよびウォッちず(国土地理院地図閲覧サービス)へのリンクを生成します。プロットと地図へのリンクを提供することが付加の意図です。
以上です。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 04:18 (UTC)一部打消し線--ikedat76 2009年9月21日 (月) 17:37 (UTC)[返信]
いったんお答えをしたのですが、質問の趣意が2様に取れることに気がつきました。
2点目の年号表記の不統一は
  1. 「元号(西暦)」表記自体がそもそもまかりならない
  2. 「元号(西暦)」か「西暦(元号)」か、どちらかに統一するべき
と2通りに解釈できるように思います。どちらの趣旨なのでしょうか。なお、前回の答えにいったん打ち消し線をいれました。--ikedat76 2009年9月21日 (月) 17:37 (UTC)[返信]
例えば、大和屋一行の行程に出てくる2月9日は旧暦で、長塚の行程に出てくる8月11日は新暦ということですよね?表記ガイドに元号をメインにすることで該当部分の表記を旧暦と解釈するといった解説が無いため、与えられた情報のみからの推察は難しく、記事を読んだ際に違和感を感じます。自分としては統一していただいた方が読みやすいです。
月日は変換せずとも、特筆性のある月日なら、2月9日と旧暦にリンクさせて表記するなど、表現の工夫で意図した情報を伝えることは可能なようにも思います。雲取越えにある全ての月日に特筆性があるかどうか、私は判断しかねますが、必要の無い月日の情報を書かないというのも選択肢のひとつとしてはアリかと。
どうするかは悩ましいですが、私からの指摘の意図は2(表記ガイドに基づく表記の統一)になります。ちなみに引用の場合は引用体裁を取ってそのまま書けば良いかと思いますので、本指摘に絡む部分は無視して頂いて構いません。
地図の件含め、意図は了解しました。こちらでの回答を忘れていました。ご説明ありがとうございました。--R.Lucy 2009年9月21日 (月) 18:36 (UTC)typo--R.Lucy 2009年9月21日 (月) 18:41 (UTC)[返信]
「特筆性」というのは記事を作るか否かにかかわる特性なのですが、という点はさておき
日本では1872年(明治5年)で旧暦が廃され、翌1873年から新暦に移行します。したがって、それ以前の人々は議論の余地なく旧暦で日付を記していました。本文中で参詣記の記載にもとづいて記された日付が旧暦であることは、史料の引用とか参照という観点からすれば当然のことです(逆にわざわざ新暦に換算する必要もないし、換算してある場合に限り特記するべきでしょう)。新暦・旧暦をことさら記す必要はやはり無いと考えます。--ikedat76 2009年10月11日 (日) 02:31 (UTC)[返信]