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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ウマイヤ・モスク 20180911

選考終了日時:2018年10月9日 (火) 00:04 (UTC)

  • (自動推薦)2018年8月の月間強化記事賞受賞記事。--Trgbot会話2018年9月11日 (火) 00:04 (UTC)[返信]
  • コメント ちょっと悩むところがあるので、とりあえずコメントです。内容についてはアンリ・スチールラン著、神谷武夫訳『イスラムの建築文化』に記載の「ダマスクスの大モスク」の記述と対照してみましたが、記載されている範囲では大きな齟齬はありませんでした(歴史節はアッバース朝以降、対応する記述はほぼ無いので未確認です)。
    • §歴史の充実度:については十分に詳細な説明が行われていると思います。
    • 脚注の問題について:脚注の中に内部リンクが切れていて参考文献に飛べないものがあります(Darke 2010、Flood 1997、Flood 2001など)。Darke 2010などは参考文献にも対応する物がなく、(探せなくはないですが)事実上出典不明となっています。
    • §建築の充実度:上述の『イスラムの建築文化』の記載の仕方と比較してですが、建築物の記事であるにしては建築自体の記述がやや手薄かなと思います。「§中庭と聖域」や「§尖塔」など、建物の構成要素については一通り記述がありますが、モスク全体の構成と特徴について俯瞰する記述が欲しいです。上述の本から補えそうではあるので、追加してみようとも思いますがとりあえず。
    • 訳語について:ちょっと自信はないのですが、ハラムの説明について疑問を感じます。§中庭と聖域に「一方で南エリアには「ハラム(英語版)」と呼ばれる禁域が配置される。」と言う一文があります。このハラムと言う用語を『イスラムの建築文化』は(フランス語からの重訳だと思われますが)「礼拝室」と翻訳しています(pp. 3, 40)。また同書にはウマイヤ・モスクの平面図が掲載されているのですが、この南エリアにあるハラムは、明らかにイスラームの集団礼拝用の列柱ホールであるように見えます。実際本文にもあるように、主ミフラーブも「モスク南壁の中点にある」のですが、平面図を見る限り要するにこの「モスク南壁」というのはハラム南面のキブラ壁でありその中点と言うのはハラムの中央です。「禁域」と言う説明からは「立ち入ることができない聖所」というような意味合いを感じますが、むしろこれはモスク全般に必須構成要素として備えられるムスリム全体に開かれた祈りの場ではないかと思います。その意味で、現在の記事の説明はこれがウマイヤ・モスクにのみ見られる特徴であるかのような印象を与えるものとなっており、ややミスリーディングなものになっているように感じます。--TEN会話2018年9月11日 (火) 15:46 (UTC)[返信]
  • コメント 8月下旬ごろに英語版からの翻訳で加筆した者です。出典のうち、Darke 2010 はおそらく、Diana Darke 1994 の間違いで、しかも、観光案内の本のようです。和書で出典を補充する必要があると思っています。ご指摘にはありませんが、Qum が出版地になっている本は、おそらくペルシア語で書かれていてシーア派のパッションをモリモリ出した観光案内本の類のようです。手に入りにくいので、このあたりも和書で出典を補充する必要があると思っています。英語訳がネット上にありました。)アンリ・スチールラン著、神谷武夫訳『イスラムの建築文化』は定価22000円の本ですか。稀覯本になってしまっているとか。ちょっと確認できそうにないので、ぜひ、加筆してください。ハラムについては、私の理解では、モスクには必ずあるもの、ミナレットはなくともハラムはあると理解しています。確かに建築の部分は改善の余地があると思っています。なお、英語版で「疑わしいタグ」が貼られていた、"The Dome of the Clock " については、元のアラビア語のクッバ・サーアトのサーアトが宗教用語では「最後の審判」を意味することを辞書で引いて確認しました。--ねをなふみそね会話2018年9月12日 (水) 11:17 (UTC)[返信]
    • コメント カルバラーの事件が680年で、モスクへの改装が715年。シーア派関連の記述はよく出典を確認して書き直すか削除したほうがよさそうに思えてきました。--ねをなふみそね会話2018年9月12日 (水) 13:04 (UTC)[返信]
      • コメント とりあえず構成その他について『イスラムの建築文化』から追記してみました。カルバラーとの時系列の問題は、改築前に既にキリスト教の教会の庭の一部にムスリム用の礼拝施設があったということなので(『世界のイスラーム建築』)、それのことかとも思えますが、手元にある本でこのことに言及しているものがなく確認できませんでした。「§尖塔」節の「西のミナレットとイーサーのミナレットが古代ローマ時代の神殿テメノスの基礎の上に建っているという俗説があるが、実際にそれらの場所に神殿が存在しなかったため学術的には疑わしい」という記述について、加筆に当たって使用した『イスラムの建築文化』と『世界のイスラーム建築』はどちらも「古代の神殿の塔」⇒「キリスト教会の鐘楼」⇒「ミナレット」の順に転用されたように読めるような記述をしているのですが、いずれの書籍も書き方が曖昧なのでとりあえず既存のままにしました。--TEN会話2018年9月15日 (土) 08:31 (UTC)[返信]
        • コメント 追記ありがとうございます。テメノスen:Temenos)とウマイヤ・モスクとの関係については、出典に上がっている Grafman & Rosen-Ayalon 1999 に基づいて、もう少しクリアーに書き直せると思いますので、何とかしたいと思います。あと、上記シーア派の出典は、西暦1917年に書かれたマクタル書でした。「ウマイヤ・モスクのミナレットにフサインの首が晒されたと某女が証言した」などの記載があってなかなか面白い内容ではあるのですが、モスクの建立が705年でミナレットがたつのはもっと後、という客観的歴史的時系列に反するので、enwpでこの出典に基づいて書かれた部分から翻訳したものを削除しました。ところで、スチールランの出典に基づく加筆部分は、「欧米キリスト教知識人の間では『ウマイヤ・モスクがキリスト教のバジリカからそのまま転用されているため縦だったものが横に(礼拝方向の東西が南北に)なった』と信じられているが、そうではない」というストーリーで説明を組み立てているように見受けられたのですが(私の誤解でしたらごめんなさい)、これはキリスト教徒の常識を持ち合わせておらず、キリスト教のバジリカとまったく縁遠い、日本語話者のほとんどには何のことだかわからないであろうので、少し説明を足したほうがいいかも、と思いました。--ねをなふみそね会話2018年9月21日 (金) 13:09 (UTC)[返信]
          • コメント コメントありがとうございます。調査お疲れ様です。スチールランに基づく部分については概ねコメントいただいた通りで「最初期の研究者の中にはウマイヤ・モスクのハラムは(多分イスタンブルのアヤ・ソフィアのように)キリスト教の教会をモスクに転用したもの」と言う意見を言うたくさんいた。その根拠は「メッカ方向ではなく東西方向向きに見える空間構成」⇒「実際には聖ヨハネ聖堂の建物は一度完全に解体されており、ウマイヤ・モスクのハラムは部材を転用して立て直された者であってキリスト教会の転用ではない」という話だと理解しています。出典でこういう書き方がされているわけではないのでちょっと不安ですが、初期キリスト教建築の形式を残しているバシリカの画像を追加してみました。画像から何となく初期の研究者が「キリスト教の教会を転用したもの」という連想をしたことは伝わるかなと思います。ちょっと配置が窮屈な感は否めないですがとりあえず。--TEN会話2018年9月23日 (日) 07:39 (UTC)[返信]
  • 賛成 建造物の記事としては現状かなり良くできた状態だと思うので賛成に変更します。--TEN会話2018年10月7日 (日) 14:37 (UTC)[返信]
  • 賛成 上記でまだ検討もされているようですが、一通りの歴史と、現存の各建造物の解説が書けているので、内容的には良質な記事の段階では十分ではないかと思います。--Tam0031会話2018年9月20日 (木) 12:22 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成2票のため、今回は見送りとなります。--TEN会話2018年10月13日 (土) 15:24 (UTC)[返信]