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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/バハラーム6世 20241211

選考終了日時:2024年12月24日 (火) 15:50 (UTC)

コメント サーサーン朝の歴史は守備範囲外でして、よくわかっていないのですが、いくつか疑問があります。
  1. 記事全体で固有名詞のカタカナ表記が中世ペルシア語によるものと近世ペルシア語によるものが混在しているのは、統一できないものなのでしょうか。
  2. 冒頭節の「バハラーム・チョービンの生涯とその勇姿は(中略)民族主義者(ナショナリスト)に語り継がれ、」の部分で、無造作に近代的思想の「ナショナリズム」にリンクされています。これは問題ないのでしょうか。
  3. 「台頭」節の「この少し前まで、宮廷ではバハラーム4世が粛清を行っており、」の部分は、出典の青木健『ペルシア帝国』(講談社〈講談社現代新書〉、2020年) p. 256 を参照すると、オフルマズド4世ですね。
  4. 「治世」節。青木健『ペルシア帝国』によると、ヴァフラーム・チョービーンがテースィフォーンを掌握してからわずか1年でホスロー2世の復辟が成るそうです。このような短い期間を「治世」と呼ぶのは変かもしれないです。記載内容も7割程度がヴァフラーム・チョービーンの対立者がどのように動いたかという話に終始しています。
  5. 「治世」節冒頭の、正当性云々のところ、出典が欲しいです。また、ゾロアスター教終末論とサーサーン家の簒奪(「台頭」節の最後あたりに記載されていること)の関係がよくわかりません。歴史的行為の正当性の主張が2以上存在する場合は、時系列順の説明や主張同士の関係(研究者間で意見が割れているのか、主張が変遷したのか)の説明がないと、読者は混乱するかもしれません。青木健『ペルシア帝国』によると、ヴァフラーム・チョービーンが Kay Bahram Varjavand を称したのは軍事クーデター当初の内だけで、その後はアルシャク朝の正統を主張したそうです。
  6. 「死後の影響」節。「またバハラームの死後、Sunpadhは・・・」以後の2つの文の意味が理解できないです。青木健『ペルシア帝国』p.270 によると、「理想の騎士ヴァフラーム・チョービーン」像が「悲劇の将軍アブー・ムスリム」像の造型にまで継承されているそうなんですが、関係があるでしょうか。
以上です。--ねをなふみそね会話2024年12月20日 (金) 08:26 (UTC)[返信]