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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ブラジル帝国の歴史 20180811

ブラジル帝国の歴史 - ノート[編集]

選考終了日時:2018年8月24日 (金) 17:59 (UTC)2018年9月7日 (金) 17:59 (UTC)'

  • (自動推薦)2018年7月度の月間新記事賞受賞記事。--totti会話2018年8月10日 (金) 17:59 (UTC)[返信]
  • コメント 非常によく書かれていると思います。ただ、やや細かいことながら用語や日本語の言い回しにちょっと違和感を覚える箇所がいくつかあるので、悩むのですがとりあえずコメントにとどめます。
  • §独立:「これによりポルトガル系ブラジル人(当時は立憲君主派と呼ばれた)と現地派(当時は連邦派と呼ばれた)の2グループが現れた。」とあるのですが、「ポルトガル系ブラジル人」と言う集団が文面からよくわからないです。一般的なニュアンスとしてはポルトガルにルーツを持つブラジル人全般を指し示す用語だと思うのですが、この部分では前後の文脈的にはポルトガル王家と一緒に渡って来た人々を指すのでしょうか?以降の節でもこの語が政治的な派閥を指して使用されているように見えます。「現地派」という派閥と併置される集団を指す表現として若干の疑問を感じます(原文ではthe Luso-Braziliansとなっており、検索する限り「ポルトガル系ブラジル人」という意味の用語ではあるのですが・・)。
  • §摂政時代の問題:「しかし、摂政時代のブラジルは災難的だった。」この部分、災難的と言うのは日本語としておかしいと思います。「摂政(共和派としたほうがいいのかも)による統治はブラジルにとって災害でしかなかった」とかそういう感じになるのではないかと思います。また、その後「共和政ブラジルが~」と言う文章が続き、確かに英語版もそうなってはいるのですが、あくまで外面上帝政であるはずなので、この表現を用いるなら「共和制」と言う用語に何か説明を加える必要があると思います。「as a republic, Brazil was no better than~」とのニュアンスの違いがわからないので何とも言えないのですが、摂政の任命で帝政から共和制に移行したわけではないように思うので、ちょっと文章がおかしく感じます。
  • §崩壊:「最後のわら一本」という表現を検索したところ英語のことわざのようですが、これは何か別の表現に置き換えた方が良いように思います。
また、ブラジル史については日本語の参考文献が無いわけではないと思うので、選考とは別の話ですが今後日本語出典の追加を期待したいところです。
他、大きな問題ではないような細部の表現にについてははぶきます。大きく気になるところとしては以上ですが、1点目の「ポルトガル系ブラジル人」と言う用語についての疑問が解決すれば、良質な記事としては賛成したいと思います。--TEN会話) 2018年8月14日 (火) 17:36 (UTC), --TEN会話2018年8月15日 (水) 15:34 (UTC)[返信]
  • コメント すみません、もう少し時間を要しますので、選考を2週間延長していただければと思います。--ネイ会話2018年8月19日 (日) 08:02 (UTC)[返信]
  • コメント まだ独立節しか読めてませんが、気になった点が多いのでコメントさせていただきます。
    • 1行目、カブラルのブラジル上陸は1500年4月22日なのではないでしょうか。コトバンクでは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を出典として「4月 22日ブラジルに到達,これをポルトガル領とした。[1]」とありますし、外務省通商局発行の伯国移殖民史でも1500年4月22日となっています。日本語情報を色々調べてもブラジル発見を4月23日とするような信頼できる情報源は見られず、単に英語版の誤記なのかもしれません。
    • 「ポルトガルの植民は1534年に始まり、」とありますが、ブラジル植民の歴史は1532年のサン・ヴィセンテ建設が始まりなのではありませんか。先の伯国移殖民史では「1532年に(中略)サンヴィセンテに初めてポルトガル王の名に於いて植民地を建設した」とあります。
    • 「1808年にフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの軍勢がポルトガルに侵攻すると」とありますが、ナポレオンのポルトガル侵攻は1807年であり、ポルトガル王家がポルトガルを脱出したのが1807年11月29日、フランス軍のリスボン入城が1807年11月30日ですよね?確かにポルトガル王家がブラジルに到着してリオをポルトガルの首都にしたのは1808年に入ってからですが、この書き方だとポルトガル侵攻自体が1808年の出来事であると書いているように見えてしまいます。
    • 4段落目のペドロ王子の演説の下りは確かに劇的な場面ではありますが、歴史を説明するのであればむしろこの後に行われたブラジルの独立宣言の方が重要ではないでしょうか。今でも9月7日はブラジルの独立記念日なわけですし、この流れで独立宣言に一切触れられていないのは違和感を覚えます。
    • 最終段落、ドン・ペドロ1世の即位は10月22日でなく10月12日なのではありませんか?王の誕生日と即位日を合わせているのですから、10月12日でないとおかしいはずですし、翻訳元の英語版でも10月12日即位になっています。また、ここの部分で英語版に書かれているブラジル皇帝としてのペドロ1世の称号「Constitutional Emperor and Perpetual Defender of Brazil」を省略している理由は何でしょうか?
  • 初めの1節目だけでこれだけ事実関係に齟齬が出てくるのでは、翻訳元の英語版記事のほうの正確性にかなり疑問符がついてしまいますね。--重陽会話2018年8月25日 (土) 07:49 (UTC)[返信]

選考期間終了時点で賛成票、反対票ともに0票。今回は見送りとなります。--totti会話2018年9月10日 (月) 20:55 (UTC)[返信]