Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中川イセ 20160111
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選考終了日時:2016年1月24日 (日) 20:05 (UTC)
- (自動推薦)2015年12月度の月間新記事賞受賞記事。--totti(会話) 2016年1月10日 (日) 20:05 (UTC)
- 賛成 幼少期から多くの苦労を重ね、その経験をもとに人々のために尽くされた人物だったのですね。多くの文献を元に生涯、人柄、業績、評価などが分かりやすく整理されており、感銘を受けました。良質な記事への選出に賛成します。ここからは個人的希望ですが、イセの里子時代にはどのような養育を受けたのか分かるでしょうか。後年、想像を絶する数々の困難を乗り越えていますが、どこかで自己肯定感を育む機会があったのか知りたく思いました。それから、大変細かいことなのですが、「経歴」節、「そこで札幌へ向かい、銀行の頭取に直談判して熱弁を振るい、50年月賦で返済すると約束した。」は主語は、中川イセ、中川卓治、夫婦のいずれでしょうか?もし明確に分かるようでしたら補記いただけるとありがたいです。--Mogumin(会話) 2016年1月16日 (土) 03:31 (UTC)
- 初版投稿者です。少し加筆・修正させていただきました。手元の資料によれば、預かり先では養母に愛情を注がれ、晩年になっても養母には恩義を感じていたそうですので、里子時代の養育は養母の賜物といえるようです。今回の主要参考文献は伝記『オホーツク凄春記 雑草の女・中川イセ物語』(ISBN 978-4-06-202513-3)でして、そちらにはもっと記述があるかもしれませんが、すでに図書館に返却してしまいました……また借りてみます。ほかに情報源として氏の伝記には、記事中にも触れています『雪と風と青い天』(NCID BN14303436)のほか、『あぐらばあちゃん 流氷の女・中川イセ』(NCID BB01531987)がありますが、双方とも入手困難でまだお目にかかれておりません……。借金の件で札幌の銀行で直談判したのは中川イセ氏本人です。確かに主語がなくてわかりにくかったですよね、失礼しました。--逃亡者(会話) 2016年1月16日 (土) 09:25 (UTC)
- 逃亡者さん、早速ご対応くださり、ありがとうございます。やはり養母から愛情を受けていたのですね。他にも文献があるとのこと、現状でも人物の説明として一定の水準に達していると思いますが、もし一層の強化ができれば素晴らしいですね、入手ルートがかなり限られていますが、チャンスがあれば私も読んでみたいです。--Mogumin(会話) 2016年1月17日 (日) 12:39 (UTC)
- 初版投稿者です。少し加筆・修正させていただきました。手元の資料によれば、預かり先では養母に愛情を注がれ、晩年になっても養母には恩義を感じていたそうですので、里子時代の養育は養母の賜物といえるようです。今回の主要参考文献は伝記『オホーツク凄春記 雑草の女・中川イセ物語』(ISBN 978-4-06-202513-3)でして、そちらにはもっと記述があるかもしれませんが、すでに図書館に返却してしまいました……また借りてみます。ほかに情報源として氏の伝記には、記事中にも触れています『雪と風と青い天』(NCID BN14303436)のほか、『あぐらばあちゃん 流氷の女・中川イセ』(NCID BB01531987)がありますが、双方とも入手困難でまだお目にかかれておりません……。借金の件で札幌の銀行で直談判したのは中川イセ氏本人です。確かに主語がなくてわかりにくかったですよね、失礼しました。--逃亡者(会話) 2016年1月16日 (土) 09:25 (UTC)
- コメント この方の経歴や業績を伝えるには十分なレベルの内容とは思いますが、ところどころ、掘り下げ不足を感じる部分があります。一般的な百科事典ならこれでも十分な内容なのですが、Wikipediaで良質な記事に選考された他の人物伝と比べると、どうしてももの足りない感が拭えません。以下、気になった点を挙げておきます。
- 借金について
- 14万円と言ったら、参考表示されている他の物価と比較してみると、現在の貨幣価値なら十数億円に相当しますね。必死で働いたとはいえ、50年返済の約束をしたほどの金を20年で返済できるものでしょうか。毎年いくらいくら位返済していたのでしょうか。完済の一年前の1946年(昭和21年)2月に新円切替がありましたが、それによる何らかの恩恵があったのではないでしょうか。
- 夫について
- 本人の伝記に他人のことをあまり詳細に書く必要はないとは思いますが、この人の場合、やはり夫の行動や人となりについてもう少し詳しく知りたいところです。そもそもなぜ彼女に出馬を薦めたのか。当時の男性なら、むしろ自分が出馬するとか、妻が出馬しようとすれば反対するなどの方が普通の反応のように思われます。また、それほど乗り気でなかった彼女に出馬を薦めたくらいですから、選挙活動やその後の政治活動に関しても夫の「内助の功」はかなりあったのではないかと想像されます。夫について独立の節を設ける必要まではありませんが、そういったことも折にふれて文章の中に散らしてあれば、中川イセという人の姿がもっと浮き彫りになって見えてくると思います。
- 自民党への入党
- これも、入党したのはいつなのか、どういう理由で入党したのか、まったく書かれておらず不明です。これも政治家としての経歴上重要なことだと思うのですが。彼女の経歴や当時の風潮から考えればむしろ共産党に入党してもおかしくなかったように思われますが、なぜ自民党だったのか、いつどういうきっかけで入党したのか、政治家として活躍した人だけにその部分はもっと詳しく掘り下げて欲しいです。
- 向陽ケ丘病院の誘致
- この節は全体的に説明不足ですっきり理解できません。「誘致」ということは、北海道が広域医療拠点となるような病院に補助金を出すような計画か何かがあり、それを知った中川が誘致の陳情に行った、ということでしょうか。それとも、そういう話など何もないところに「当市には病院がないから建てさせてほしい」と陳情に行ったのでしょうか。後者であれば「誘致」という言葉はおかしいと思います。
- また、北海道立向陽ケ丘病院を見たら、これは精神科・神経科の専門病院だそうですが、最初から(市立向陽ケ丘病院の時から)そうだったわけではないのですよね。おまけに市立病院として開設してからたった2年後には道立に移管しているし、いろいろ複雑な事情もありそうです。この辺の事情は、本来なら北海道立向陽ケ丘病院の方に書かれるべきでしょうが、上水道敷設に並ぶ彼女の業績とされているのならば、もう少し前後の事情を掘り下げて、すっきり理解できるように加筆をお願いしたいと思います。
- あと、細かいことですが、『7期にわたって市議会議員を務めた』ではなく『7期28年にわたって市議会議員を務めた』の方がよい。もちろん在任期間はinfoboxに書かれているし、通常の議員任期は4年ですから「7期」なら28年が普通ですが、時には出直し選挙などで任期が短縮される場合もありますから、年も書いていただいた方がよいと思います。
- 選考期間中に上記の問題点を解消するような十分な加筆をすることは困難だと思いますので、実質的に反対票になってしますが、今後の加筆の参考にしていただければ幸いです。--Loasa(会話) 2016年1月18日 (月) 10:00 (UTC)
- 大部分の出典はいつものごとく図書館頼りですので、週末に図書館へ行く予定を立てているところですが、差当り手元のある資料のコピーで確認可能な限り、「夫」「自民党」など少し書き足しております。あまり無暗に版を重ねるのは好きでないので、まず下書きレベルで書き直し、図書館で仕上げてから本記事に上げる予定です(⇒利用者:逃亡者/sandbox)。
- 夫についてはおっしゃる通りどの程度詳細に書くべきか迷ったのですが、北海道新聞1993年10月の連載記事「私のなかの歴史」によれば、酒を飲めば暴れ出して手が付けられない性格、『文藝春秋』での村島健一氏との対談記事では、アル中で酒乱で何もできない人物とあり、選挙や議員活動の手助けはまったくなかったようです(汗)。
- 自民党の件は残念ながら、『AERA』第5巻第14号の小檜山博による「現代の肖像」に、「自民党入りの理由は特になかった」と記述があるのみでした(特に理由もなく自民党入りしたのなら、その後に熱心に活動した理由は何なのかな……と私も疑問に思います)。
- また向陽ケ丘病院の件の発端については『AERA』に、中川イセ氏が田中敏文氏のもとへ病院の陳情に行った……としか書かれておらず、計画云々や、病院自体に絡む複雑な事情の記述は一切ありませんでした。「誘致」の言葉は元資料に「誘致」とあったのでそのまま用いた次第です。ただ、最も代表的な実績といわれる上水道の件はネットで確認可能な天童市のサイトを始め多数資料に記述がある一方、病院の件は『AERA』以外に確認できませんので、代表的といえる業績は複数の資料に記述のあるものにしぼって書くべきだったか、とも考え直しています(WP:RS#情報源の評価)。--逃亡者(会話) 2016年1月18日 (月) 19:47 (UTC)
- 賛成 Loasaさんの指摘はもっともですが、今の内容でもある程度まとまっており、良質な記事としても問題がないと考えます。やはり、夫や娘はその後どうなったのかは気になるところなので、もし書けるのであれば家族の節を作って簡単な説明をしてもいいかもしれません。--Tam0031(会話) 2016年1月20日 (水) 04:14 (UTC)
- 図書館資料をもとに加筆修正してみました。
- 借金については、牧場関係など様々な仕事をこなしたほか、戦時中は軍馬、戦後も農耕馬の需要が増えて商売繁盛、さらに戦後インフレで借金が返済しやすくなった、という事情があるそうです。毎年どのくらい返済していたか、という具体的な数字はありませんでした。新円切替は、『オホーツク凄春記』に「新円切替の影響はなかった」とありました。
- 自民党入党理由と向陽ケ丘病院誘致の件は、先に述べた以上の情報はなし、です。今回調査の資料分を含めても、病院の件は『AERA』にしか記述がありませんでしたので、「……といわれている」という文章表現は言い過ぎかと思い、表現を変えました。
- ご家族はどこまで書くべきか迷いましたが、ひとまず節をもうけ、あまり過剰にならない程度に書いてみました。
- これで、現在調査可能な資料類はほぼあたったつもりです。北海道の網走や札幌の図書館、出身地である山形の図書館にはほかにもあるようなのですが、さすがにおいそれと行ける場所ではありません……。--逃亡者(会話) 2016年1月23日 (土) 11:12 (UTC)【一部修正】--逃亡者(会話) 2016年1月23日 (土) 20:35 (UTC)
- 賛成 加筆された内容を拝見しました。これだけの資料をあたるのはなかなか大変なことだったと思います。ありがとうございます。そしてお疲れさまでした。借金、家族、自民党への入党についてはほぼ十分な内容になったと感じましたので賛成票といたします。病院についてはまだ不満が残るものの、資料がないのではどうしようもないですね。病院に関しては今後の加筆に期待いたします。なお、新たに加筆された部分に関して細かいことですがいくつか
- 軍曹待遇までされた
- もちろん兵士として軍曹になったわけではなく、軍曹に相当する待遇という意味でしょうが、旧日本軍の内実に詳しくない物としては、そもそも民間人が軍曹に相当する待遇を受けるというのはどういう扱いをされるものなのか、軍曹を読んでもピンと来ません。もう少し具体的な内容をお願いしたいと思います。
- 中川の愛馬姿が全国紙に大きく掲載された。
- 意味不明です。彼女が愛馬にまたがった姿という意味でしょうか。それとも彼女の愛馬の写真が掲載されたということでしょうか。
- --Loasa(会話) 2016年1月24日 (日) 01:24 (UTC)
- こちらこそ確認して頂きありがとうございます。また少し加筆修正しました。
- 軍曹待遇ですが、『婦人倶楽部』に「“軍曹待遇”にまでされてしまった」とあるのみで、それがどのような待遇だったかは記述なしでした。『オホーツク凄春記』ですと「軍曹待遇という資格を与えられた」とあり、第7師団慰問時「中川軍曹、慰問に参りました!」みたいな感じで敬礼した、とあるのみで、これ以上はほかの資料でも確認できておりません。残念ながら旧日本軍については私も詳しくないです……。
- 「愛馬姿」は完全に私の書き間違いでした。『オホーツク凄春記』による正しい表現は「乗馬姿」であり、紙面にはすぐそばに「愛馬婦人会」の記述があるので混ざってしまいました。失礼しました。--逃亡者(会話) 2016年1月24日 (日) 02:09 (UTC)
選考終了時点で賛成3票のため、通過となります。--ぱたごん(会話) 2016年1月25日 (月) 15:40 (UTC)