Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/玉置神社 20130403
選考終了日時:2013年4月17日 (水) 03:18 (UTC) 2013年5月17日 (水) 03:18 (UTC)選考期限延長。--ikedat76(会話) 2013年4月6日 (土) 09:40 (UTC)
- (推薦)自薦します。祭神・歴史・文化財、および修験道における修行の道である大峯奥駈道における霊地のひとつとしての位置付けまで含めて知るべき事柄は取り込まれているものと考えます。以前査読依頼にかけたとき、写真がほしいというコメントをいただきましたが、利用者:Kansai explorerさんご提供により掲載がかないました(ありがとうございます)。--ikedat76(会話) 2013年4月3日 (水) 03:18 (UTC)
- 賛成 推薦者票。--ikedat76(会話) 2013年4月3日 (水) 03:18 (UTC)
- コメント とても長い歴史のある神社だというのに、歴史の節がややさびしい感じがします。特に、繁栄していたという高牟婁院関連のことはもう少し書けないのでしょうか。どうしてもわからない、文献がないというのであればやむを得ないのでしょうけど。祭神の由来などもわかれば面白いのですけど、古い神社だと昔からこの祭神だったという他は無いのかもしれません。「宿としての玉置神社」の節は興味深く、よく書けた節になっているものと思います。拝所と拝礼対象の位置関係などを地図を用いて説明できたら一番わかりやすいのでしょうが、難しいかもしれませんね。--Tam0031(会話) 2013年4月6日 (土) 05:44 (UTC)
- コメントコメントありがとうございます。文献はひと通りさらえているという認識ですが、高牟婁院含めて歴史はこの程度しか情報量がないようです。現時点で参照していない文献として十津川村の地方史・民俗誌関連のものがいくつかありますので、再度調査して見ます。祭神についても由緒を説いた資料は見当たらないのですが、おそらく修験道の行所であることからいわばトップダウン式に祭神が当てはめられたものとか思われます。拝所の位置関係については今後の課題ということでお許しいただければと思います(一点だけ、宝冠の森だけは地図座標へのリンクを追加しました)。しばらくお時間を頂戴します。--ikedat76(会話) 2013年4月6日 (土) 09:40 (UTC)
- 賛成 内容はほとんど出典がつけられていますし、良質な記事には十分に相当すると思います。ただ、熊野三山本願所でも用いられているようですが、ちょと出典の表記が独特ではないでしょうか。概ね理解はできるのですが、4番や37番の出典で使われている「→」などは何を表しているのかがよくわかりません。先に私の記事の方で説明してしまったため、持論の押し付けと認識されかねないところですが、多くの秀逸な記事で用いられている方式に則ってみてはいかがでしょう。参照:レオシュ・ヤナーチェク、ベンジャミン・ディズレーリ、スコッチ・ウイスキー、オグリキャップ、オスマン帝国など。分野、執筆者にかかわらず、多くの記事で用いられている、現在のwikipediaにおける主要な出典のつけ方だと思い、自分もそのようにしている形式です。ちなみに、これは英語版の秀逸な記事でも用いられている方式です。参照:w:Saffron、w:Holden
- また、()を用いて注釈を行っている部分があるようですが、日本の歴史に関わる記事を書きますと、元号への変換や難読語に対するふり仮名など、()の用途として一般的になっているものが既にありますので、注釈は<ref group="注釈"></ref>などを用いて、()はそれらに充ててあげる、あるいは「修験道では、抖擻(とそう)と呼ばれる、山林中を自らの足で廻峯行する山岳修行が重視されていた」など、記述をちょっと工夫して、注釈をつけずとも記述できるよう配慮すると親切かな、と思いました。
- 最後に、世界遺産となったわけですが、何か変化はあったのでしょうか。観光地としての側面はどうなのでしょうか。そういった現代における玉置神社に関する内容があってもいいのではないかな、と思いました。--Ocdp(会話) 2013年4月6日 (土) 14:28 (UTC)インデント変更(Wikipedia:投稿ブロックの方針#8.2項 他者の発言の改竄例外8項目による)。--ikedat76(会話) 2013年4月7日 (日) 02:37 (UTC)
順不同で回答します。
- 世界遺産に登録されたことによる変化:よく分かりません、というのがお答えです。一例として観光協会のサイトなどを見ると「世界遺産・登山客用予約バス」なるものが運行されている旨が記されており、おそらく世界遺産登録に伴う観光客を見込んで運行を始めたものなのでしょうが、そう断定できる出典を見つけられませんでした。
- 出典の表記:例示として挙げられた記事を見ましたが、いずれも{{Cite}}系のテンプレートの機能呼び出しによるものでスタイルに関するガイドライン等で決められたものではありません。ここで「出典の表記」と言っているもの、すなわちどの参考文献のどの箇所を参照したのかを明記する方法は、一般的な用語では文献参照法と言います。文献参照法として機能的に問題がなければ個々の編集者の習熟した方法でかまわないし、テンプレートやWikipedia:出典を明記する#出典の示し方はそうした特定の文献参照法に習熟していないとか、分野ごとに定着した文献参照法が無い場合に、いわば消極的な選択肢として用意されているものであって、従わなければならないというものではないと考えます。むしろ、専門分野と呼べるものがあり、そこで用いられている方法があるのであれば、そちらに従うべきでしょう。また、ウィキペディアは紙の百科事典と違い、さまざまなバックグラウンドを持った人が集まりますし、そうした人たちが習熟している文献参照法はさまざまです(例えばですが、雑誌論文が基本のいわゆる理系では著者名と刊行年の組み合わせのみを使いページ数は記さなくても全く問題ないという扱いが一般的であるそうです)。機能的に問題がない限り、特定のスタイルを不適当と断定すること(Ocdpさんがそうしようとしている、と言うつもりはありません。誤解なきよう念のため)はウィキペディアではあまり生産的な結果を生まないと思います。「→」ですが、この記事では不要な記述でしたので修正しました。
- ()の解除については見直しました。なお注釈と出典を分割するやり方ですが、前項と同じ理由で分割しません。この記事に関連する専門分野ということでは、宗教学(仏教・神道・山岳信仰)、民俗学、歴史学といったところですが、注釈と出典が混在しているのは普通のことですので専門分野の慣行に従います。ご了承ください。--ikedat76(会話) 2013年4月7日 (日) 02:37 (UTC)
- コメントとくに強要はしません。ただ、熱心な執筆を行いますとどうしても愛着といえるものが大きくなり、他者による改編が無い方が良い、となりかねないところですが、前述の理由(あまり見かけない出典のつけ方)を根拠に、出典のつけ方を改編なさる方がいたとしても、それを拒むことも同様の理由からできないこともご了承ください。私はするつもりは無いですが、それを拒否するには自分が慣れているから、という事ではない、客観的、合理的理由の説明が必要になりますので。--Ocdp(会話) 2013年4月7日 (日) 04:26 (UTC)
- Ocdpさんがとくに強要はしませんというお考えであることは承知しておりますのでご安心ください。専門学会において採用されている、もしくは広く一般に実績が認められている文献参照法に準拠しているというのは客観的・合理的理由であると考えます。実績のない、いわばウィキペディアの内輪の方法でしかないものが優先されるのは適切とは思われませんが、これ以上議論は差し控えます。--ikedat76(会話) 2013年4月7日 (日) 04:45 (UTC)
- コメント 細かい所ですが数点気になった部分があります。
- 冒頭部の「靡」ですが、あまり一般的な漢字でもないようですし読み仮名が欲しいです。「宿としての玉置神社」節まで読み進めて初めて読み仮名が提示されるというのは、順序が逆であった方がいいかと思います。
- 祭神節について、この分野に詳しくないのでそれで問題ないのかもしれませんが、末社若宮社以外は祭神として全て神仏や人物の名前が挙げられているのに末社若宮社だけ神社名になっているのに違和感を覚えました。出典がそうなっているからなのでしょうが、再確認いただければと思います。
- 宿としての玉置神社節には、「金剛童子、大日堂、不動堂といった堂舎は依然存続しているものの」とありますが、祭神節や文化財節には大日堂しか挙げられていません。大日堂以外の堂舎が現存しているならそれらも祭神や文化財として記載した方が良いように思いますし、現存していないのであれば表現を変える必要があるのではないかと思います。
- 祭礼節、出典が示されていないことが気になったので祭神節の表記に合わせて玉置神社公式サイトから出典の提示をしておきました。そのサイトには例大祭の下に神輿を担いだ人たちが山の中を分け入っている写真が掲載されていて、例大祭がどのようなことをする物なのか気になったのですが、この節に祭礼の説明を加えることはできないでしょうか?
- 文化財節、始めの方は充実した記述があるものの後ろの方に行くほど記述が少なくなり、サブセクションのその他節では説明のない列挙になっており、この部分にもどのような経緯でどのように文化財として扱われているのかの説明があった方がいいのではないかと思います。
- 以上、特に2番目と3番目の確認ができれば賛成票としたいと思います。4、5番目に関しては可能であればというレベルの希望です。--重陽(会話) 2013年4月7日 (日) 14:00 (UTC)
コメント利用者:重陽さんのコメントに以下のとおり回答します。2013年4月9日 (火) 06:54 (UTC) の第47266534版および2013年4月9日 (火) 07:00 (UTC) の第47266654版(差分)で対応しました。
1点目、「靡」にはふりがなを振りました。2点目、摂末社の神名は別の資料も踏まえて見直しました。大日堂(大日社)と呼ばれる社堂があるのは確かなようですが[1]文献で確認がとれなかったため、コメントアウトしてあります。
3点目。文献(山本[2007])の該当箇所を読み直しました。「金剛童子、大日堂、不動堂といった堂舎は依然存続し」たのは近世の衰退期にかけての状況を指しての記述であることを確認しました。そのことが分かるように「存続している」→「存続した」と改めました。大日堂については1点目の通りで、「金剛童子」「不動堂」についてはどうなったのか明言されていません。一般論として言えば、明治のいわゆる神仏分離・廃仏毀釈に際して、十津川村では非常に激越な動きによって村内から寺が廃滅せしめられたといい、玉置神社もその例外ではなかったとのことですので、巻き込まれた可能性はあるでしょうが、明確には分かりませんでした。
4点目。祭礼の日付までは複数の文献でたどり着くことができましたが、祭礼の内容まで踏み込んだ文献は発見できませんでした。
5点目。「文化財」のうち「重要文化財」「天然記念物」はそれぞれ文化財保護法、奈良県条例による法令上の指定を受けた物件ですが、「その他」以後はそうした法律上の指定を受けたものではなく、一般語(?)としての文化財です。ミスリーディングな構成が招いた疑問であると考えましたので、「境内」節を新たに設けて移しました。なお、石造宝篋印塔と地蔵石仏については室町期風と一言あるのを見つけましたがそれ以上ではなく、他の物件も報告等が見受けられないため、これ以上の記述は少なくとも現時点では不可能です。--ikedat76(会話) 2013年4月9日 (火) 07:13 (UTC)
- 賛成 早急な対応ありがとうございます。1、2、3、5点目に関して改善頂いたこと確認いたしました。2点目および3点目についてご確認いただけ、問題点は解消したものと思いますので賛成票とさせていただきます。4点目に関しては言及している文献が見られないという点、了解しました。5点目、重要文化財などと並べられていたために仏塔や地蔵といったものも文化財として何らかの保護や指定がされているものと勘違いしてしまっていました。境内節として纏められていると分かりやすくていいですね。--重陽(会話) 2013年4月9日 (火) 15:25 (UTC)
コメント利用者:Tam0031さんのコメントに回答します。
ご質問の件を踏まえて2013-04-07 02:37:00 (UTC)版までに挙げた参考文献から遡及可能な文献を探して見ました。はいくつかの史料名を挙げている文献もありますが、史料から直接記事を書くことは不適当である(史料の信頼性の判断等)から、史料は実見していません。また、いくつかの史料は奈良県立図書館にしか所蔵されていないため、近畿在住ではない身としては調査は困難です。奈良県教育委員会の『大峯奥駈道調査報告書』(2002)には浩瀚な文献リストが付属しており、その中に設けられたは「六 歴史(十一)玉置山」という節に7件の文献が挙げられていました。7件のうち私的な同好会から刊行されているもの2件と摂社三柱神社の稲荷信仰を扱ったもの1件を除く4件のうち、下記2点の内容を確認しました(残り1点は電子化作業中のため閲覧不可、1点は調査漏れ)。
- 佐藤 虎雄、1954、「熊野奥院玉置山」2巻3号、近畿大学人文学会 pp. 24-36
- 佐藤 虎雄、1957、「玉置山」、地方史研究所(編)『熊野』、地方史研究所 pp. 213-244
まだざっくりと目を通しただけですが、上記2件とも内容はほとんど同じです。近世以前については、社伝にあるような神話的な創始各種史料に「玉置(山、社)」の言及があるという程度で、具体的な史実はほぼ分かっていないようです。近世以降の祭神の配祀に変遷があったことが伝わっているようですが、現状の記事のボリュームの中でバランスを失することなく盛り込むことは難しいようです。ひとまず、以上ご報告します。--ikedat76(会話) 2013年4月9日 (火) 11:28 (UTC)
報告 佐藤[1957]の内容にもとづいて加筆しました。加筆の結果、出典として『角川日本地名大辞典』を使う必要がなくなった(佐藤[1957]で置き換えることができた)ので、『角川~』を参考文献から外しました。--ikedat76(会話) 2013年4月9日 (火) 15:34 (UTC)
- 賛成 現時点で可能な範囲で対応いただいたようですので、賛成としたいと思います。ありがとうございました。--Tam0031(会話) 2013年4月9日 (火) 16:24 (UTC)
- 報告 さらに加筆。聖護院支配下に入る経緯とその後の社家の衰退について加筆しました。感想なのですが、社伝の古文書以外に具体的な史実を伝えるものは無さそうです。佐藤[1957]以後の文献を見ても、同論文を越えるものは今のところ見当たらず、よく見返してみたら森沢[2006]の本文中にも佐藤[1957]が明示的に言及されています(ちょっと違うところもある)。山本[2007]は、これは修験道史の研究に考古学の手法を導入して新しいフロンティアを開いた方で大きく視角を異にしてます。まだいくつか実見して見たい文献はありますが、峯中路上の要所とはいえ結局は辺地の小寺社であって、文献的には限界なのかも知れません。--ikedat76(会話) 2013年4月9日 (火) 18:35 (UTC)
賛成のみ3票以上の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031(会話) 2013年4月11日 (木) 15:30 (UTC)