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Wikipedia:井戸端/subj/伝記記事の「略歴」セクションは不要との風潮

伝記記事の「略歴」セクションは不要との風潮

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伝記記事における「略歴」セクションの是非

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人物についての伝記記事なのですが、本文に解説の文章が掲載された後に、年表形式で「略歴」セクションが存在する記事があります。(例:福田康夫麻生太郎など)。伝記なのですからその人物についての略歴はあって当然だと思いますが、一方で「本文に解説の文章が書いてある以上、略歴の内容は本文の文章と重複している。だから略歴セクションは除去すべき」と主張し、声高に「略歴セクションは一律削除すべき」と主張する人もいます。また、「略歴に年表が書いてある以上、本文の文章の内容は略歴と重複している。だから本文の文章は除去すべき」などと主張し、全部年表形式の箇条書きに修正する人もいます。どちらが正しいのでしょうか。福田康夫麻生太郎などのように両方あっていいとおもうのですが。--以上の署名のないコメントは、114.49.15.188会話)さんが 2012年7月12日 (木) 03:10 (UTC) に投稿したものです。[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)などのガイドラインにも、明確な規定はありませんが、一般的な市販の百科事典を眺める限りでは、略歴がないものが多いように見受けられます。とは言え、本文中で略歴を逐一年次順に書き記さなくてはならないものでもありませんし、複数の分野で活躍した方などの場合は活躍分野毎に本文の節が分かれている記事もあります。このような場合のほか、本文だけからは一読して時系列が分かりにくい場合には年表形式の略歴節があった方が読者の利便性のためには、よいように思います。--ろう(Law soma) D C 2012年7月12日 (木) 04:58 (UTC)[返信]
個人的な趣味によるところが大きいとは思いますが...。私の場合は、略歴は不要ですね。というか、ウィキペディアの記事で箇条書きを使用して書いてあるもので、そうする必然性を感じることがほとんどないです。文章で書いてあるほうが読みやすいです。年表形式の箇条書きをいったん始めてしまうと、とにかく何でもかんでも放り込む、というWP:IINFOに抵触するような運用のされ方をして、リストが長大になって後から編集しづらい、ということがよくあります。WP:EMBEDには、箇条書きは適切な場合にのみ用いるべきです。箇条書きされている情報を、文章のかたちで提示したほうがよい場合もありますとあります。これを読む限り、文章で書けるものを箇条書きに仕立て直すことには好ましくないのでは。WP:TRIVIAなども参考にしていただければと。--Bugandhoney会話2012年7月12日 (木) 16:54 (UTC)[返信]
ここでは人物の伝記記事の略歴について限定した質問です。ウィキペディアにおける「年表形式の箇条書き」一般についての話題ではありません。途中から人物の伝記記事の略歴について限ってのご意見ではなく、「年表形式の箇条書き」一般についてのご意見になっちゃったように見えますがが、そこについて誤解してませんか?
?あんまり、メタなことを書いても仕方ないですけど、井戸端は冒頭にあるとおり、プロジェクトの様々な事柄に関してアイデアを交換する場なので。伝記の書き方に限って提案や議論をしたければ、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)のノートなどを利用されるとよいかと。とにかく、人物伝では野田佳彦相田みつを川嶋あい稲恭宏などを編集したことがありますけど、経歴が文章になってない稲さんの記事を除けば年表の必要性は感じられなかったです。相田さんの記事は私の好みですね。川嶋さんの記事は、不用意に箇条書きを始めたせいで修正不能に陥っている記事です。同じく私が加筆した英語版のAi Kawashimaのほうが読む気にさせますし、読みやすいです。文章にすでになっていることのうち、略年表に何を抜き出すかでもめることもあります(例:赤報隊事件)。略歴はあんまり意味があるとは思えないですね。--Bugandhoney会話2012年7月13日 (金) 17:06 (UTC)[返信]
あぁ、略歴と年表の区別がつかない方だったのですね、失礼しました。先に辞書を引いてくださいとお願いした方がよかったですかね。ええと、「井戸端は冒頭にあるとおり、プロジェクトの様々な事柄に関してアイデアを交換する場」だというのはたしかにそのとおりでしょうが、ものには限度があるでしょう。たとえばみんながを著作権をテーマに井戸端で議論しているのに、一人で勝手に全く無関係な和暦・西暦のどちらを優先するかについて語っている人がいたら迷惑以外の何者でもないでしょう。そのセクションのテーマに沿って発言するのが当たり前だと思いますよ。このセクションのタイトル、冒頭の質問文、いずれも「略歴」について質問しています。略歴について質問している以上、人物記事についての話題であることは明らかでしょう(逆に人物以外の記事で略歴というセクションが設けられることなどあるのでしょうか?犬とか猫とかでしょうか?)。このセクション冒頭で伝記について聞いているのに、全く違うテーマについて話しを始めたうえに「伝記の書き方に限って提案や議論をしたければ、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)のノートなどを利用されるとよい」との主張、おそれいりました。「略年表に何を抜き出すかでもめることもあります(例:赤報隊事件)」とのことですが、それは明らかに略歴とは違う話ですよね。赤報隊事件は無生物ですが、赤報隊事件に略歴があるとでも言うのでしょうか。たぶん、略歴と年表の意味がわかっていないかたのようですので、これ以上の質問はひかえて触らないようにいたします。失礼しました。——以上の署名の無いコメントは、114.48.155.47(ノート履歴)さんによるものです。--Bugandhoney会話2012年7月14日 (土) 05:26 (UTC)[返信]
よく分からんのですが、あなたの投稿はこの節のテーマ『伝記記事の「略歴」セクションは不要との風潮』に沿った発言なのでしょうか。なんだか、私個人を単に批判しているようにしか見えないのですが...。前にも書きましたとおり、井戸端では様々なことが話し合われるので、話題から少々逸れるのは仕方ないかなと私自身は思ってますが。さすがに、伝記記事における略歴がトピックのときに和暦・西暦や犬・猫の話をはじめたらちょっと面食らうとは思いますが。それと、ウィキペディアでは略歴と年表の区別がつかない方先に辞書を引いてくださいとお願いした方がよかった略歴と年表の意味がわかっていないかたのようなどといった他の編集者を馬鹿にした発言やおそれいりましたなどという皮肉は避けていただければと。ぜひWP:CIVILを今一度ご確認ください。ちなみに、伝記記事における略歴は箇条書きの濫用の一形態であり、だからWP:EMBEDが判断基準になるという私の見解には変わりはないです。ガイドラインにない以上、その是非は記事ごとに判断することになるとは思いますが。上のほうのアイコンをクリックするか--~~~~と入力すると署名が入ります。--Bugandhoney会話2012年7月14日 (土) 05:26 (UTC)[返信]
「よく分からんのですが」とおっしゃっていますが、「よく分からん」のなら、別に無理してコメントする必要はないと思いますよ。コメントが義務づけられてるわけじゃないのですから、ご自分がわからないことに口を挟む必要性はないでしょう。--以上の署名のないコメントは、111.191.85.176会話)さんが 2012年7月14日 (土) 08:16 (UTC) に投稿したものです。[返信]
私もそのような発言や「区別がつかない方だったのですね」というのは無礼だと思います。二度としてはいけません。「よくわからない」というのは111.191.85.176さんの主張の仕方がおかしいということであって、ここでの議題についてよくわからないということではありません。あとコメントには署名を付けてください。Wikipedia:署名 をお読みください。--Calvero会話2012年7月15日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
「人物の伝記記事の略歴」についてもBugandhoneyさんのご懸念は該当するので、話題は外れていません。人物記事とそうでない記事における年表の違いについても、同様に比較検討できないという根拠が特にありません。拒絶する必然性がないと思います。--Calvero会話2012年7月15日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
私は略歴があった方が見通しが良くなるので好きですね。首相経験者のように情報量が多い記事は、長大な本文を通読して必要な情報を拾い上げるのは苦痛です。雑多な内容にあたるのではないかという指摘もされていますが、略歴は重要なこと時系列順に整理するという目的に基づいているので「箇条書きが適切な場合」に当たると思います。ただし、wikipediaの記事を書く上では特筆性が必要で、「雑多な内容」にならないように気をつける必要があるとおもいます。ちょっと抽象的な話になってしまうので恐縮ですが、本文に書くなら、前後の文章とつながりをもった「流れ」を作ることで特筆性を示しやすいとおもいます。それに対して、箇条書きでは文章が情報が細切れになってしまって、時系列以外の流れを作るのが難しいです。何が言いたいかというと、一文一文に特筆性が認められる重要なことだけで、略歴を構成しないとまずいとおもいます。--Littlefox会話2012年7月12日 (木) 18:16 (UTC)[返信]

「伝記記事における略歴は箇条書きの濫用」との主張について

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伝記記事の略歴セクションの是非について、「伝記記事における略歴は箇条書きの濫用の一形態であり、だからWP:EMBEDが判断基準になる」と主張する人がいるようです。略歴セクションが「箇条書きの濫用」に該当するというなら、今後は「略歴」セクションを設けることは控える方がよろしいでしょうか。伝記記事において、学歴や職歴をまとめることはよくあると思うのですが、まさか略歴の記載そのものが「箇条書きの濫用」に該当するとは思いませんでした。まさか「箇条書きの濫用」との理由でブロック対象になったりするのでしょうか?--以上の署名のないコメントは、111.191.85.176会話)さんが 2012年7月14日 (土) 08:16 (UTC) に投稿したものです。[返信]

本文において既に箇条書きでない形で解説がなされており、それが長大なものであるならば、まとめの意味で年表を記載するのはよいと考えます。これは Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#概要文 と類似した考え方です。単に「略歴」の節だけしかない記事は、WP:EMBEDに従い内容が改善されるべきですし、略す必然性もないのでそのような節名は使わないべきだと考えます。そうでなくとも、略というのは紙幅の都合上やむを得ず略すというニュアンスが感じられますので、長大な記事においても使わないべきだと考えます。--Calvero会話2012年7月15日 (日) 04:25 (UTC)[返信]
それはコミュニティの合意事項ではなく、単に私の意見なので、私の意見が妥当だと思えば控えればよいし、そうでなければ(私としては残念ですが)そういうセクションを設ければよいのでは。実際、WP:FAにある伝記記事を読む限り、経歴を年表に書き出しているものもあれば(藤山一郎ガリレオ・ガリレイなど)、そうでないものもあります(市川雷蔵レオシュ・ヤナーチェクなど)。要するに、形式的には判断できないということです。形式的にはあってもなくてもよい、という場合は記事ごとに判断すべきであって、片っ端から削除して回ったり、逆に片っ端から年表を加筆して回るのは避けたほうがよいです。内容で見解が分かれていることに対する編集のみをもって投稿ブロックを受けるということは心配しなくていいと思います。そういうのは聞いたことがないので。ただ、見解が別れている別の編集者との間で編集合戦や暴言の応酬に発展して投稿ブロックを受けるというのはときどき見かけます。--Bugandhoney会話2012年7月16日 (月) 21:39 (UTC)[返信]