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甲斐国内に入った織田信忠らは、ただちに信長の代官としての行動を開始した。「[[信長公記]]」巻十五には、織田信忠が武田家家臣を探し出し、捕まえた者を |
甲斐国内に入った織田信忠らは、ただちに信長の代官としての行動を開始した。「[[信長公記]]」巻十五には、織田信忠が武田家家臣を探し出し、捕まえた者や降伏してきた者を皆殺しにしたことが書かれている。 |
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[[海津城]]に入った長可は近隣諸将を鎮撫し、[[上杉景勝]]の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。[[5月27日]]には[[柴田勝家]]らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、[[春日山城]]を指呼の間に望む[[越後国|越後]]の二本木([[上越市]])辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝は急遽、[[春日山城]]に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、[[本能寺の変]]で信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆は武田旧臣の一揆により落命することとなった。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。 |
[[海津城]]に入った長可は近隣諸将を鎮撫し、[[上杉景勝]]の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。[[5月27日]]には[[柴田勝家]]らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、[[春日山城]]を指呼の間に望む[[越後国|越後]]の二本木([[上越市]])辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝は急遽、[[春日山城]]に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、[[本能寺の変]]で信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆は武田旧臣の一揆により落命することとなった。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。 |
2007年7月7日 (土) 23:07時点における版
武田征伐'(たけだせいばつ)は、織田信長が、長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐へ侵攻し、武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。「武田崩れ」とも呼ばれる。
合戦の流れ
戦いの序章
長篠の戦いの後、武田氏の外戚である木曽義昌(武田信玄の娘・真理姫の夫)は武田勝頼より秋山信友が守る美濃岩村城の支援を命じられたが、財政的な理由で勝頼に反抗した。当時勝頼は相次いだ出兵にかかった費用を穴埋めすべく、尋常ならざる割合の年貢や賦役を課しており、人心が徐々にではあるが勝頼から離れつつあったという。それから7年後の天正10年(1582年)2月1日、新府城築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた義昌はついに勝頼を裏切り、織田信忠(信長の長男)に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。秋山支援に動かなかった時から義昌に不信感を抱いていた勝頼は、真理姫から義昌の謀反を知らされると、これに激怒し従兄弟の武田信豊(信玄の弟・武田信繁の子)を先手とする木曽征伐の軍勢5000余を先発として差し向け、さらに義昌の側室と子供を磔にして処刑。そして勝頼自身の軍勢1万5000余も出陣した。
信長は2月3日に義昌の反乱を知ると武田勝頼討伐を決定、動員令を発した。信長・信忠父子は伊那から進軍。信長の家臣金森長近が飛騨方面から、同盟者の徳川家康が駿河方面から、御館の乱を契機に武田とは交戦状態となっていた北条氏政(妹は勝頼夫人)も相模・伊豆・上野から甲斐・信濃へ進軍する事に決定した。
織田側の編成
天正元年(1572年)以降、織田信忠を筆頭に池田恒興、森長可(森蘭丸の兄)、河尻秀隆らを主力とする、所謂「信忠軍団」が編成されており(池田は後に軍団を離脱→摂津へ)、主に、東美濃に勢力を張っていた武田の影響を排除する戦いをしていた。武田征伐時には以下のような陣容であった。
また、後から続く信長直率の軍団は以下のような陣容であった。
武田軍団の崩壊
2月3日、まず長可、忠正の先鋒が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条九兵衛が信氏を追放して織田軍に寝返り、さらに松尾城(飯田市)城主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
2月12日、本隊の信忠と一益がそれぞれ岐阜城と伊勢長島城を出陣し、翌々日の2月14日には美濃岩村城に兵を進めた。翌日には信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた義昌勢に敗北を喫した。翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城城主保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(信玄の弟)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。
同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲すると、城内に使者を送り開城を促した。依田信蕃は故郷の三沢小屋に退去し田中城は開城、2月21日には駿府城に進出した。
氏政は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の一つである戸倉城・三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では北条氏邦が厩橋城の北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。
高遠城への攻撃
2月28日、河尻秀隆は信長から高遠城を攻略のために陣城を築けとの命を受ける。翌3月1日、織田信忠は武田勝頼の弟・仁科盛信の籠城する高遠城を包囲。信忠は地元の僧侶を使者とし、盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。しかし盛信はこの要求を拒絶。使者の僧侶は耳と鼻を削ぎとられて送り返された。
翌3月2日、織田軍30000余は総攻撃を開始し、仁科盛信や小山田昌行らは少数ながらも勇戦奮闘し、織田軍と激闘を繰り広げた。しかし城門を突破した織田軍にじりじりと押され、ついに仁科盛信は自刃。高遠城は落城した。
武田勢がことごとく逃亡する中で、徹底抗戦を貫き、武田武士の力を見せつけたのはこの仁科盛信だけであった。盛信の首の無い遺体は彼を崇める地元の領民によって埋葬され、そこは今も「五郎山」と呼ばれている。
勝頼逃亡
2月28日、木曽義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し、新府城(韮崎市)に逃亡した。勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曽義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。 3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始した。
翌3月5日、織田信長は安土城を出発。3月6日には揖斐川に到達。ここで嫡男・織田信忠から高遠城主仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。
3月3日、武田勝頼は新府城で真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(大月市)に逃亡するか軍議を開いた。 昌幸は岩櫃城が要害であることを説明して岩櫃城行きを勧めたが、信茂が、岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを力説、最終的に勝頼は昌幸よりも、一族の信茂が支配する岩殿行きを決意する。そして、未完成の新府城に火を放つと、岩殿城目指して逃亡した。
天目山の戦い
3月7日に信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類・家老たちを探し出してこれを全て処刑した。この時に処刑されたのは一条信竜・諏訪頼豊・小山田信有・武田信廉など。
3月9日に勝頼とその嫡男の武田信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(山梨県大月市)で小山田信茂に攻撃され、岩殿城入城を拒まれる。これには諸説あり、小山田信茂は武田家と主従関係でなく盟友関係にあり、郡内領を有する一大名という考え方から、戦禍を恐れる領民の反対などを受け、領地を守るためにとった行動であるという説や、実は小山田信茂が笹子峠から勝頼を攻撃したという事実は無いという説もある(笹子峠から攻撃したのは織田軍であるとも)。いずれにせよ、勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(山梨県甲州市大和町)を目指して逃亡した。逃亡の際、家宝の旗・楯無鎧を塩山等の寺に隠し、難を逃れさせた。
3月11日、徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。
しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・北条夫人は自害し、長坂光堅、土屋兄弟、秋山紀伊守らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門甲斐武田氏は滅亡した。
甲斐武田氏の終焉
信長は、勝頼自刃の時には国境すら越えておらず岩村城に滞在していた。やがて、浪合に進出していた信長の元に勝頼・信勝父子の首が届いたのは3月14日のことであった。
3月16日には武田信豊が家臣の下曽根覚雲斎(信恒)に背かれて殺され、小山田信茂も「主君を裏切った」と言う理由で甲斐善光寺で処刑された。武田信廉も捕らわれて斬首の憂き目にあった。依田信蕃も信長の命により処刑されそうになったが、武田氏の人材を求めていた徳川家康は彼を逃がし、信蕃は本能寺の変後、空白地帯となった信濃・甲斐に家康を手引きし、その占領に貢献した。
信玄の次男で盲目ゆえ仏門に入っていた海野信親(竜芳)は、息子の顕了信道を逃した後、自刃した。信道の系統は大久保長安の業績に絡み、数奇な運命を辿りながらも後世にその血脈を伝えている。
論功行賞と武田残党の追討
3月21日に織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受け取った。3月23日と3月29日には参加諸将に対する論功行賞が発表された。
- 滝川一益:上野、小県郡・佐久郡
- 河尻秀隆:甲斐(穴山梅雪本貫地を除く)、諏訪郡
- 徳川家康:駿河
- 木曽義昌:木曽谷を安堵、筑摩郡・安曇郡
- 森長可:高井・水内・更科・埴科四郡
- 毛利長秀:伊那郡
- 穴山梅雪:本領安堵、嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、武田氏当主とすることが認められた
- 森蘭丸:美濃兼山城(長可の旧居城)
- 団忠正:岩村城(秀隆の旧居城)
一益は「安土名物」と言われた茶器の「珠光小茄子」を所望していたとも言われ、「茶の湯の冥加が尽きてしまう」と嘆いていたとも言われている。また、北条氏政は「駿河でひとかどの働きをした」という評価を得たものの、これといった恩賞はなかった。
4月に入り織田信長は甲斐に向かい、その途中の台ヶ原(北杜市)で、生涯初めて富士山を見たとされる。4月3日には、武田氏歴代の本拠である躑躅ヶ崎館の焼け跡に到着した。一方、織田信忠勢は武田残党の追討を開始し、残党が逃げ込んだ恵林寺(甲州市)を包囲。残党を引き渡すよう要求したが寺側は拒否した。織田信忠は寺を焼き討ちし、寺の和尚である快川紹喜は「心頭滅却すれば火も自ら涼し…」という辞世を残し炎の中に消えた。
4月10日に織田信長は甲府を出発し、東海道遊覧に向かった。4月13日に江尻(静岡市清水区)、16日に浜松へ到り、21日に安土城に凱旋した。
合戦の後
甲斐国内に入った織田信忠らは、ただちに信長の代官としての行動を開始した。「信長公記」巻十五には、織田信忠が武田家家臣を探し出し、捕まえた者や降伏してきた者を皆殺しにしたことが書かれている。
海津城に入った長可は近隣諸将を鎮撫し、上杉景勝の侵入を防ぎつつ、一方では上杉氏への攻勢を強めていた。5月27日には柴田勝家らの北国勢の支援のために信越国境を越えて、春日山城を指呼の間に望む越後の二本木(上越市)辺りまでに乱入。その報を受けた上杉景勝は急遽、春日山城に引き返す必要に迫られることとなった。しかし、本能寺の変で信長が討たれると、森長可は海津城を捨て本領地に逃げ帰り、河尻秀隆は武田旧臣の一揆により落命することとなった。そのため、武田遺領は一時的に政治的・軍事的空白状態となった。
滝川一益、北条氏政のその後の動きは神流川の戦いを、徳川家康、氏政、真田昌幸のその後の動きは天正壬午の乱を参照されたい。
参考文献
- 小和田哲男「信長と同盟、今川・武田氏を撃破」『歴史群像シリーズ 徳川家康』学習研究社、1989年
- 近衛龍春『織田信忠―「本能寺の変」に散った信長の嫡男』PHP研究所:ISBN 4-56-966138-6
- 谷口克広『信長軍の司令官』中央公論新社中公新書1782、2005年:ISBN 4-12-101782-X
- 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社中公文庫1809、2005年、ISBN 4-12-101809-5