水野守隆
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長3年4月21日(1598年5月26日) |
別名 | 守次、直盛、守高、八郎次郎(通称)、監物丞、監物入道 |
戒名 | 全慶 |
墓所 | 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の天龍寺 |
官位 | 従五位下、監物 |
主君 | 織田信長→明智光秀 |
氏族 | 水野氏 |
妻 | 水野信元娘 |
子 | 新七、守信 |
水野 守隆(みずの もりたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、茶人。織田氏の家臣。尾張国常滑城主。諱は直盛、守高などが伝わるが、文書で確かめられるのは守隆であり[1]、『寛政重修諸家譜』では守次としている[2]。
略歴
[編集]常滑水野氏は緒川水野氏や刈谷水野氏の分家筋に当たる。
はじめ織田信長に仕え、元亀元年(1570年)8月、野田城・福島城の戦いでは平手久秀とともに川口砦に置かれ、天正2年(1574年)7月の長島攻めでは他の尾張衆とともに船から攻撃を行った[1]。
天正4年(1576年)5月、佐久間信盛らとともに天王寺砦の定番となり、天正5年(1577年)3月8日には信長より住吉城の普請に対して労を犒われている[1]。
天正8年(1580年)8月、信盛・信栄父子が追放されると、守隆は織田信忠の麾下に組み込まれ、天正9年(1581年)1月には水野忠重とともに遠江国横須賀城の番手として派遣され、天正10年(1582年)の甲州征伐では信忠に従軍している[1]。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変では安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された(『当代記』)[3]。その後は山城国嵯峨に隠遁し、慶長3年(1598年)4月21日に没した[1]。
人物・逸話
[編集]- 守隆は茶道に造詣が深く、津田宗及の茶会に度々出席している他、自らも宗及や佐久間一族を招いて茶会を催している[1]。また、天正2年(1574年)5月8日には里村紹巴・昌叱・心前らを招いて連歌会を興行しており(『水野監物守隆興行山何百韻 』)、文芸にも造詣が深かった[4]。
水野守隆を描いた作品
[編集]小説
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年11月1日、463-464頁。ISBN 9784642014571。
- ^ “寛政重脩諸家譜 第2輯”. 國民圖書. 2023年4月2日閲覧。
- ^ 谷口克広『信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反-』中公新書、2007年4月25日、246,248頁。ISBN 9784121019073。
- ^ 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣、1999年9月5日、254頁。ISBN 9784639016328。