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「沖縄県の名字」の版間の差分

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元来、たーす周辺には厳密な意味で、名字に相当するものはなく、[[琉球王国]]時代、琉球の王族・士族は姓(氏)+[[諱]]、家名+称号+名乗という構成で名を持っていた。例えば、向象賢・[[羽地按司朝秀]]の場合、「向」は姓、「象賢」は諱、「羽地」は家名、「[[按司]]」は称号もしくは位階、「朝秀」は名乗である。姓と諱の組み合わせは中国風の姓名という意味で'''[[唐名]]'''(からな)とも言い、主に公文書や中国との外交の際に使用された。
元来、沖縄県周辺には厳密な意味で、名字に相当するものはなく、[[琉球王国]]時代、琉球の王族・士族は姓(氏)+[[諱]]、家名+称号+名乗という構成で名を持っていた。例えば、向象賢・[[羽地按司朝秀]]の場合、「向」は姓、「象賢」は諱、「羽地」は家名、「[[按司]]」は称号もしくは位階、「朝秀」は名乗である。姓と諱の組み合わせは中国風の姓名という意味で'''[[唐名]]'''(からな)とも言い、主に公文書や中国との外交の際に使用された。


家名は名字に相当するが、これは采地名(領地名)をあてるのが原則であった。それゆえ、同一人物であっても、出世などに伴って領地替えが起こると、家名もその都度に変化した。また、親子、兄弟でも領地が異なれば、家名も異なった。'''名乗'''(なのり)は日本風の名で、最初の一字を名乗頭(なのりがしら)と言い、姓ごとに漢字が決まっていた。上記の例では、朝秀の「朝」の字が名乗頭で、[[向氏]](王家子孫)の者は、すべて最初に「朝」の一字が付いた。家名・称号・名乗を合わせた構成は、'''大和名'''(やまとな)と呼ばれた。羽地按司朝秀がこれである。大和名は主に日本との外交の際に用いられた。
家名は名字に相当するが、これは采地名(領地名)をあてるのが原則であった。それゆえ、同一人物であっても、出世などに伴って領地替えが起こると、家名もその都度に変化した。また、親子、兄弟でも領地が異なれば、家名も異なった。'''名乗'''(なのり)は日本風の名で、最初の一字を名乗頭(なのりがしら)と言い、姓ごとに漢字が決まっていた。上記の例では、朝秀の「朝」の字が名乗頭で、[[向氏]](王家子孫)の者は、すべて最初に「朝」の一字が付いた。家名・称号・名乗を合わせた構成は、'''大和名'''(やまとな)と呼ばれた。羽地按司朝秀がこれである。大和名は主に日本との外交の際に用いられた。

2010年11月17日 (水) 10:53時点における版

沖縄県の名字(おきなわけんのみょうじ)では、沖縄県において多く見られる名字について記す。現在では本来の琉球語(琉球方言)読みではなく、標準語読みになっているケースが少なくない。廃藩置県以前は、琉球士族と家名の2つを持ち、家名が名字に相当した。

概要

特徴

家名 称号 名乗
象賢 羽地 按司 朝秀
唐名 大和名

元来、沖縄県周辺には厳密な意味で、名字に相当するものはなく、琉球王国時代、琉球の王族・士族は姓(氏)+、家名+称号+名乗という構成で名を持っていた。例えば、向象賢・羽地按司朝秀の場合、「向」は姓、「象賢」は諱、「羽地」は家名、「按司」は称号もしくは位階、「朝秀」は名乗である。姓と諱の組み合わせは中国風の姓名という意味で唐名(からな)とも言い、主に公文書や中国との外交の際に使用された。

家名は名字に相当するが、これは采地名(領地名)をあてるのが原則であった。それゆえ、同一人物であっても、出世などに伴って領地替えが起こると、家名もその都度に変化した。また、親子、兄弟でも領地が異なれば、家名も異なった。名乗(なのり)は日本風の名で、最初の一字を名乗頭(なのりがしら)と言い、姓ごとに漢字が決まっていた。上記の例では、朝秀の「朝」の字が名乗頭で、向氏(王家子孫)の者は、すべて最初に「朝」の一字が付いた。家名・称号・名乗を合わせた構成は、大和名(やまとな)と呼ばれた。羽地按司朝秀がこれである。大和名は主に日本との外交の際に用いられた。

領地を持たない一般士族は、名島(なじま)という名目だけの領地名を賜り、家名とした。他に童名(わらびな)という名があったが、これは幼名に限定されたものではなく、むしろ普段の通称である。

五大姓

王家分家である向氏、多数の王府高官を輩出した翁氏、馬氏、毛氏池城、毛氏豊見城は、特に五大姓(氏)、五大名門と呼ばれる。毛氏池城・豊見城を合わせて、四大名門とも言う。

向氏 翁氏 馬氏 毛氏池城 毛氏豊見城
元祖 尚円王 国頭親方盛順 大浦添親方良憲 新城親方安基 中城護佐丸盛春
名乗頭
家名 伊江、小禄、本部、読谷山など 永山、玉城、伊舎堂、仲井真など 小禄、与那原、宮平、仲吉、仲眞など 池城、美里、東風平、佐渡山など 豊見城、国頭、富川、亀川など
備考 王家分家(按司家など) 三司官6人を出す 三司官21人を出す 三司官18人を出す 三司官15人を出す

歴史

古琉球期

この時期の家名は平仮名書きによるものがほとんどで、漢字は「中」、「大」、「里」といったごく一部が使用されただけである。「中くすく」、「おろく」、「こちひら」等の例である。

薩摩の侵攻以後

薩摩による侵攻以後、家名に漢字を充てるようになる。また、1624年に「大和めきたる名字の禁止」の通達が出されて、日本風の二字姓でなく、三字姓を使用するように強要された。船越は富名腰、徳川は渡久川、徳山は渡久山、前田は真栄田などの例である。これは琉球を通じた中国との交易を継続する上で、琉球をあえて”異国風”に留めておきたいという狙いが薩摩側にあったものと思われる。もっともこの強制は徹底したものではなく、二字姓の日本風の家名も実際には多く残存した。大村、玉川、義村などの例である。また、地名に対しても同様に二字地名から三字地名への変更を強要された例もある。奄美群島の名字も参照。

明治以降

廃藩置県後、沖縄県でも庶民に姓の使用が許されるようになった。この時、多くは地名などから姓が作られた。また、日本に組み込まれたため、明治以降、姓を日本語読みするようにもなった。喜屋武(キャン)を「キヤタケ」、大城(ウフグスク)を「オオシロ」と読むのごとくである。しかし、戦前までは琉球語(琉球方言)の読みも珍しくなかった。現在は、琉球語の読みは東江(アガリエ)、仲村渠(ナカンダカリ)などごく少数しか残っていない。

1953年の戸籍整備法による改姓

戦争で消失した戸籍を再整備する「戸籍整備法」の施行に伴い、沖縄市山内では、門中(むんちゅう)ごとに話し合い、比嘉姓から、青山・内田・吉田・広山・吉村・宮森・豊田などに改姓した事例がある。他には島袋から島への改姓もあった(沖縄市胡屋)。

沖縄県の名字上位10と著名人

現在の標準語風読みを左にひらがなで、本来の琉球語(沖縄方言)読みを右側にカタカナで書くと次のようになる。 (宮古八重山の方言では発音が異なる場合がある。)

  1. 比嘉(ひが、フィジャ)
  2. 金城(かねしろ・きんじょう、カナグシク・カナグスク)
  3. 大城(おおしろ、ウフグシク・ウフグスク)
  4. 宮城(みやぎ、ナーグシク・ナーグスク・ンミャーグシク)
  5. 新垣(あらかき・あらがき・しんがき・にいがき、アラカチ)
  6. 玉城(たまき・たましろ、タマグシク・タマグスク)
  7. 上原(うえはら、ウィーバル)
  8. 島袋(しまぶくろ、シマブク)
  9. 平良(たいら、ティーラ)
  10. 山城(やましろ、ヤマグシク・ヤマグスク)

その他特徴的な苗字と著名人

その他、沖縄県を代表する特徴的な苗字として以下のようなものがある(下記参考文献のうち、上位250位以内に記載されているものを抜萃しており、上位ほど件数が多い)。

など。他に~嶺、~里、~間、~平や仲~などの苗字が上位に来ている。

それ以外に本州などでも一般的に見られる苗字で沖縄にも多いものとしては石川(25位)、松田(29位)、中村(34位)、山内(35位)、神谷(41位)、岸本(49位)、山田(62位)などがある。

参考文献

  • 『沖縄県姓氏家系大辞典』(角川書店、平成4年)
  • 別冊歴史読本『日本の苗字ベスト30000』(新人物往来社 平成12年)

関連項目

外部リンク

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