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[[2004年]]9月6日、サンズと本契約した。同年11月1日、サンズの開幕メンバーに登録され、日本人として初めてのNBAプレイヤーとなった(なお、日系人としては、それ以前に[[ワッツ・ミサカ]]こと三阪亙という日系アメリカ人選手がいた)。その後、開幕戦を含むレギュラーシーズン4試合出場したが一度も先発出来なかった(プレー時間は合計17分、7得点3アシスト)が、同年12月18日に解雇された。田臥が去ったサンズは同年NBAレギュラーシーズン・ウェスタンカンファレンス・パシフィックデヴィジョン優勝しプレーオフ進出。
[[2004年]]9月6日、サンズと本契約した。同年11月1日、サンズの開幕メンバーに登録され、日本人として初めてのNBAプレイヤーとなった(なお、日系人としては、それ以前に[[ワッツ・ミサカ]]こと三阪亙という日系アメリカ人選手がいた)。その後、開幕戦を含むレギュラーシーズン4試合出場したが一度も先発出来なかった(プレー時間は合計17分、7得点3アシスト)が、同年12月18日に解雇された。田臥が去ったサンズは同年NBAレギュラーシーズン・ウェスタンカンファレンス・パシフィックデヴィジョン優勝しプレーオフ進出。


サンズの新人選手として[[アトランタ・ホークス]]とのレギュラーシーズン開幕戦112-82の勝利に貢献、第4クオーター途中から本拠地[[フットプリント・センター|アメリカウェストアリーナ]]のコートに立ち、満員のスタンドから大きな拍手で迎えられた。第4クオーター5分過ぎにはフリースローで得点2。日本人選手としてNBA初得点を記録した。3点シュートも決め、この試合10分間プレーして7得点1アシスト。日本バスケ界及びスポーツ史にとって歴史的な日となった。自身のNBAレギュラーシーズン通算得点の全てを同試合で記録。11月5日[[ペンシルベニア]]での[[フィラデルフィア・76ers|76ers]]との開幕第二戦はベンチ入りも欠場、11月6日[[ニュージャージー]]での[[ブルックリン・ネッツ|ネッツ]]との開幕第三戦で僅か数分出場し2アシストで開幕三連勝に貢献したが翌11月6日の[[イリイ州]]での[[シカゴ・ブルズ]]相手に開幕四連勝飾った試合から翌月半ば解雇までベンチにも入れない続いた。
サンズの新人選手として[[アトランタ・ホークス]]とのレギュラーシーズン開幕戦112-82の勝利に貢献、第4クオーター途中から本拠地[[フットプリント・センター|アメリカウェストアリーナ]]のコートに立ち、満員のスタンドから大きな拍手で迎えられた。第4クオーター5分過ぎにはフリースローで得点2。日本人選手としてNBA初得点を記録した。3点シュートも決め、この試合10分間プレーして7得点1アシスト。日本バスケ界及びスポーツ史にとって歴史的な日となった。自身のNBAレギュラーシーズン通算得点の全てを同試合で記録。11月5日[[ペンシルベニア]]での[[フィラデルフィア・76ers|76ers]]との開幕第二戦はベンチ入りも欠場、11月6日[[ニュージャージー]]での[[ブルックリン・ネッツ|ネッツ]]との開幕第三戦で僅か数分出場し2アシストで開幕三連勝に貢献したが翌11月6日の[[イリイ州]]での[[シカゴ・ブルズ]]相手に開幕四連勝飾った試合から翌月半ば解雇までベンチにも入れない続いた。


サンズでは後にシーズンMVP、アシスト王になる[[スティーブ・ナッシュ]]の指導も受けた。同月、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。
サンズでは後にシーズンMVP、アシスト王になる[[スティーブ・ナッシュ]]の指導も受けた。同月、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。

2023年4月1日 (土) 04:35時点における版

田臥 勇太
Yuta Tabuse
宇都宮ブレックス  No.0
ポジション PG
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1980-10-05) 1980年10月5日(44歳)
出身地 神奈川県の旗 神奈川県横浜市金沢区
身長 173cm (5 ft 8 in)
体重 76kg (168 lb)
キャリア情報
高校 秋田県立能代工業高等学校
大学 ブリガムヤング大学ハワイ校(中退)
NBAドラフト 2002年 / ドラフト外
プロ選手期間 2002年–現在
経歴
2002-2003トヨタ自動車アルバルク
2003-2004ロングビーチ・ジャム
2004-2005フェニックス・サンズ
2005ロサンゼルス・クリッパーズ
2005-2006アルバカーキ・サンダーバード
2006-2007ベーカーズフィールド・ジャム
2007-2008アナハイム・アーセナル
2008-宇都宮ブレックス(08年時点・リンク栃木ブレックス)
選手情報 ウィキデータを編集 B.LEAGUE.jp
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

田臥 勇太(たぶせ ゆうた、1980年昭和55年〉10月5日 - )は、日本プロバスケットボール選手。神奈川県横浜市金沢区出身。ポジションポイントガードB.LEAGUE宇都宮ブレックスに所属している。

秋田県立能代工業高等学校時代には世界ジュニア選抜に選ばれた。2004年11月、フェニックス・サンズの開幕ロースターに入った日本人初のNBAプレイヤーでサンズ同年レギュラーシーズン開幕戦勝利に途中出場して得点及びアシスト記録含め貢献。身長173cm、体重76kg[2]。業務提携でベンヌ所属。

(04年11月時点でバスケ経験皆無な小一たる八村塁は西アフリカのベナン共和国出身の実父を持つため、純血の日本国民たるNBA新人選手が開幕戦途中出場し得点及びアシスト記録は史上唯一の事例。日本国籍を有するNBA新人選手がレギュラーシーズン開幕戦において所属チームの勝利に途中出場して得点及びアシスト記録含め貢献した唯一の事例でもある。)

経歴

生い立ち

1980年10月5日、神奈川県横浜市金沢区に生まれる。父親は植木職人。高校時代に関東大会まで進んだ母親の影響で小学校2年生(8歳)でバスケットボールを始める。ミニバスケット時代は横浜市戸塚区の矢部小学校ミニで経験を積んだ。[3]小学校3年生からはソフトボール(ポジションはキャッチャー)も掛け持ちで始め、シニアリーグからの誘いもあるほどだったが、中学からはバスケットボールを選んだ[4]1993年4月、横浜市立大道中学校に入学後、1995年8月の第25回全国中学校バスケットボール大会に出場し3位。大会ベスト5に選出された。1995年福武書店のテレビCMでパトリック・ユーイング(1992年ドリームチーム (バスケットボール)の一員としてバルセロナオリンピック金メダル獲得し当時ニューヨーク・ニックス)と共演した。

高校時代

1996年4月、バスケットボールの名門校・能代工に越境入学後、即スタメンとなり、3年連続で高校総体国体全国高校選抜の3大タイトルを制し、史上初の「9冠」を達成(1年生の時の全国高校選抜決勝で同学年で後のチームメイト安齋竜三擁する福島工業と対戦)。公式戦で敗れたのは、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみである(ただし、この試合で田臥は勝負の瀬戸際に5ファールで退場している)。全国高校選抜では3年連続でベスト5に選出された。高校3年生時は地元で開かれたかながわ・ゆめ国体に出場、全国高校選抜では東京体育館に1万人の観客を動員した。また、この9冠目の試合が同校で50回目の全国大会優勝でもあった。高校三年間バスケ部で苦楽を共にした同学年のチームメイトに菊地勇樹や若月徹。

現役高校生としては史上2人目の全日本候補選手に選ばれた。

1998年、男子アジア・ジュニア選手権大会に出場し第3位。男子ジュニア世界選手権に進出した。1999年1月、史上初の特別推薦で能代工が全日本総合選手権に出場した。同年3月、ナイキ・フープサミット(全米ジュニア選抜と世界ジュニア選抜)に日本人として初めて出場した。同年7月、男子ジュニア世界選手権大会に出場し第14位。

大学時代

2000年NCAA2部のブリガムヤング大学ハワイ校へ留学。しかし、2年間は単位取得や怪我(椎間板ヘルニア)のためにプレイが出来なかった。初めて選手登録された2001年には、「日本のジョーダン」と紹介され、全試合に先発出場。MVPに選ばれたゲームもあった。2001年8月、ヤングメン世界選手権に出場し第11位。2002年、大学を3年半で中退した。

スーパーリーグ時代

2002年5月、スーパーリーグトヨタ自動車アルバルクに入団した。同年11月8日、02-03年の開幕戦新潟アルビレックス戦の第3クォーターから出場し、JBLデビュー。14分の出場で8得点、2アシスト。満員御礼となる3,323人の観客を動員した。レギュラーシーズン21試合・プレーオフ4試合すべてに出場し、通算113得点・63アシストを記録。準優勝に大きく貢献し、新人王を受賞、オールスターにもファン投票1位で選出された。

アメリカ挑戦時代

2008年アーセナル時代の田臥

2003年5月、(自身と同い年で前々年世界大会で共に戦い後に再びチームメイトになる網野友雄が新加入した)トヨタ自動車アルバルクを退団し、同年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。同年9月、NBAのデンバー・ナゲッツと契約し、プレシーズン戦3試合に出場したが開幕ロースターには残れず解雇された。ナゲッツのチームメイトには田臥よりも身長の低い165cmのアール・ボイキンスがいたが、ポジションを奪うことはできなかった。同年11月、ABA(アメリカ・独立プロリーグ)のロングビーチ・ジャム・アルビレックスと契約した。ロングビーチ・ジャムではデニス・ロッドマンとも一緒にプレイした。2004年4月、ロングビーチ・ジャムで優勝を果たす。

2004年9月6日、サンズと本契約した。同年11月1日、サンズの開幕メンバーに登録され、日本人として初めてのNBAプレイヤーとなった(なお、日系人としては、それ以前にワッツ・ミサカこと三阪亙という日系アメリカ人選手がいた)。その後、開幕戦を含むレギュラーシーズン4試合出場したが一度も先発出来なかった(プレー時間は合計17分、7得点3アシスト)が、同年12月18日に解雇された。田臥が去ったサンズは同年NBAレギュラーシーズン・ウェスタンカンファレンス・パシフィックデヴィジョン優勝しプレーオフ進出。

サンズの新人選手としてアトランタ・ホークスとのレギュラーシーズン開幕戦112-82の勝利に貢献、第4クオーター途中から本拠地アメリカウェストアリーナのコートに立ち、満員のスタンドから大きな拍手で迎えられた。第4クオーター5分過ぎにはフリースローで得点2。日本人選手としてNBA初得点を記録した。3点シュートも決め、この試合10分間プレーして7得点1アシスト。日本バスケ界及びスポーツ史にとって歴史的な日となった。自身のNBAレギュラーシーズン通算得点の全てを同試合で記録。11月5日ペンシルベニアでの76ersとの開幕第二戦はベンチ入りも欠場、11月6日ニュージャージーでのネッツとの開幕第三戦で僅か数分出場し2アシストで開幕三連勝に貢献したが翌11月6日のイリノイ州でのシカゴ・ブルズ相手に開幕四連勝飾った試合から翌月半ば解雇までベンチにも入れない続いた。

サンズでは後にシーズンMVP、アシスト王になるスティーブ・ナッシュの指導も受けた。同月、ABAのロングビーチ・ジャムと再契約し、NBAへの復帰を目指した。

2005年9月、NBAロサンゼルス・クリッパーズと契約し、プレシーズン戦7試合に出場したがシーズン開幕前の10月31日に経験不足を理由に解雇された。同年11月3日にNBA傘下のNBAデベロップメント・リーグに9巡目70位でドラフト指名され、アルバカーキ・サンダーバーズに入団した。主要選手として活躍したが、シーズン後半に怪我で戦線離脱した。

2006年7月、NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。同年11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位指名を受けて入団した。ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムであるため、2年ぶりの古巣復帰ともいえる。2007年11月にジャムのロースターから外れ、同リーグのアナハイム・アーセナルへ移籍した。

2008年7月、NBAニュージャージー・ネッツのサマーリーグに参加した。

日本復帰後

2008年8月31日、能代工時代の指導者加藤三彦ヘッドコーチが率いるJBLのブレックスに入団し、6年ぶりの国内復帰となった。

開幕から低迷で加藤ヘッドコーチが途中で解任され後任にトーマス・ウィスマンが就任の2008-09年レギュラーシーズンでは、アシスト王・スティール王の2冠に輝き[5]、レギュラーシーズンのベスト5に選出された[6]。しかしブレックスは5位に終わり、プレーオフに進出できなかった。2009年6月、NBAに再挑戦する意向を表明し、NBAダラス・マーベリックスから招待されたミニキャンプに臨んだが、直前の練習で右かかとを打撲し練習に参加できなかった[7]。同年7月、2009-10年シーズンはNBAを断念し、引き続きブレックスでプレーすると発表した。

2009-10年レギュラーシーズンでは、右かかとの怪我のために開幕から1カ月以上欠場した。2009年11月28日に復帰後、レギュラーシーズンを2位で終え、JBL昇格後初のプレーオフに導く。2010年4月のJBLファイナルで、それまで2連覇していたアイシンシーホースを3連勝で破り、初優勝(JBL)を果たした。田臥はブレックスの中心選手として活躍し、プレーオフのMVPに選出された[8]。また、年間ベスト5賞に選出された[9]。2010年4月、ブレックスと来季2010-11年シーズンの契約延長に合意したと発表した。同月17日、本拠地・宇都宮市での優勝パレードに参加、沿道には約1万人の市民が駆けつけた[10]。同年7月、12年ぶりにバスケットボール男子日本代表の試合に出場した[11]

2010年11月、ウィスマン新監督率いる日本代表として初めて主要国際大会である2010年アジア競技大会中国広州)に出場、1994年アジア競技大会広島市)以来16年ぶりのベスト4入りに貢献した[12]。準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦ではイランに敗れたためメダル獲得はならなかった。開催地が中国であることから各試合で激しいブーイングを受けたが、「国内ではできない経験をさせてもらっている」[13]「相当嫌われているんだなと思うけど、見てろよ、とモチベーションになる」[14]と感想を述べた。

2010-11年レギュラーシーズンでは、ブレックスはプレーオフ圏外の6位で終わったが、東日本大震災の影響で3月11日以降の公式試合日程が中止となり、プレーオフ自体が開催されなかった。個人成績では前年よりも落ち、平均アシスト数はリーグ6位の3.35であった[15]。しかし、ターンオーバー数は年々改善し、アシストをターンオーバーで割った数値(A/T)が前年の2.4を上回る3.5であり、安定したプレイをしていたといえる。

2011-12年レギュラーシーズンは、アシストは安定していたものの、3ポイント成功率が2割を下回り、平均得点も近年では最低の6.4ppgに落とし不振の年となった。

2012-13年レギュラーシーズンでは、平均得点は10点台と改善したが、3ポイント成功率が改善されず、アシスト、スティールともに振るわず、出場時間も減ることとなった。

2013-14年レギュラーシーズンからはJBLがNBLとなったが、引き続きブレックスでプレイ。オールスターに選出されるとともに、ポカリスエットNBL月間MVP(11月、4月)受賞、アシスト王、スティール王、ベスト5を獲得した[16]

2014-15年レギュラーシーズンでは、オールスターに選出されるとともに、アシスト王、ベスト5を獲得した[16]

2015年バスケットボール男子アジア選手権2016年リオデジャネイロオリンピックのバスケットボール競技・男子世界最終予選ベオグラード大会においても (2017年7月ブレックスHCに3年契約で就任し結果的に数ヵ月で退任)長谷川健志監督率いる日本代表を主将として牽引し、アジア選手権では四位入賞果たして世界最終予選出場権確保に貢献し、六か国で争う世界最終予選では最下位に終わった。

Bリーグオールスターゲームには2017年・2018年・2019年と三年連続ファン投票選出で出場。

プレイスタイル

トヨタ自動車アルバルクや日本代表で共にプレイした折茂武彦は「勇太は欲しいところにズバッとパスがくる。他の日本人のガードとは違う目を持っている」と評している[17][リンク切れ]

個人成績

略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン

NBA

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2004–05 PHX 4 0 4.3 .167 1.00 1.000 1.0 0.8 0.0 0.0 0.25 1.8

NBAデベロップメント・リーグ

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2005-2006 ABQ 34 4 23.2 .406 .313 .780 2.1 4.0 1.2 0.0 1.21 6.5
2006-2007 BAK 44 3 18.7 .412 .263 .773 1.4 3.5 0.9 0.0 1.20 6.1
2007-2008 ANA 39 0 13.0 .374 .341 .810 1.2 2.0 0.9 0.0 1.07 5.7

JBL

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2008-2009 栃木 33 33 34.2 .475 .226 .742 3.5 5.6 2.3 0.1 2.24 11.0
2009-2010 栃木 26 -- 26.6 .551 .360 .803 3.1 3.5 2.0 0.0 1.46 11.8
2010-2011 栃木 31 -- 28.8 .455 .375 .792 2.6 3.4 1.3 0.1 0.97 8.7
2011-2012 栃木 39 20.9 .488 .156 .741 2.3 2.6 1.2 0.1 1.5 6.4
2012-2013 栃木 22 26.8 .476 .188 .879 2.4 2.7 0.8 0.0 1.5 10.4

NBL

シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2013-2014 栃木 54 32.8 .441 .330 .858 4.2 5.9 2.0 0.1 2.1 15.6
2014-15 栃木 51 26.9 .471 .250 .814 2.2 4.5 1.7 0.1 1.7 10.3
2015-16 栃木 50 23.7 .484 .310 .826 2.0 3.3 1.2 0.0 1.0 7.0

B.LEAGUE

レギュラーシーズン

年度 チーム 所属リーグ GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
2016-17 栃木 B1 59 59 20.8 .497 .278 .839 1.8 3.4 1.0 .1 .9 7.4
2017-18 B1 60 60 17.9 .477 .136 .862 1.7 2.7 .8 .0 .8 5.4
2018-19 B1 15 6 10.0 .500 .000 .909 .8 2.2 .4 .0 .3 4.5
2019-20 宇都宮 B1 13 13 9.1 .500 .200 .000 .6 .7 .3 .0 .2 1.6
2020-21 B1 30 0 3.2 .438 .000 .000 .1 .3 .1 .0 .1 0.5
B1: 通算 177 128 12.2 .482 .123 .900 .5 1.9 .5 .1 .5 3.9

CM出演

著書

その他

  • 人生に影響を与えた本についてインタビューで聞かれた際には、『スラムダンク』を挙げ、高校時代にはバリバリに読んでいたと語っている[18]。その後、2016年にスラムダンクの作者・井上雄彦との対談が実現し、井上から「高校9冠を達成、のちにNBAでプレーすることも含め『漫画だから描ける』と言われそうなことを次々と現実にしてしまう。漫画家泣かせのとんでもない男」と絶賛された[19]
  • サッカー日本代表中澤佑二と親交があり、中澤が2006 FIFAワールドカップ後に代表引退を表明していた時期、田臥のバスケットへの真摯な姿勢や情熱に感銘を受け「オレはこんなに恵まれた環境にいるのに、何をやっているんだろう。もっと挑戦しないと」と代表復帰を決意するきっかけとなった[20]
  • PS2PSPゲームNBA LIVE 06』でエレクトロニック・アーツ社の「EAスポーツ・パートナー」として起用された。同ゲームには日本人選手として初めてFA選手として収録されたほか、日本国内向けの広告やポスター、パッケージに登場した。初回予約特典として、直筆応援メッセージの書かれたポスターおよびステッカーが用意された[21]

脚注

  1. ^ http://www.asahi.com/edu/student/tensai/TKY201007200430.html
  2. ^ https://www.utsunomiyabrex.com/team/players/detail/id=8697?PlayerID=8650
  3. ^ https://www.hamaspo.com/ando/bmid_2008091109570300002
  4. ^ プロバスケットボール選手・田臥勇太のお母さん 節子さん - 天才の育て方、朝日新聞、2010年7月13日配信、2010年9月10日閲覧。
  5. ^ リーダーズ 試合記録 2008-2009、JBL公式サイト、2010年9月10日閲覧。
  6. ^ JBL 2008-2009「JBLアウォード」レギュラーシーズン表彰 受賞者発表、JBL公式サイト、2009年3月12日配信、2010年9月10日閲覧。
  7. ^ 田臥勇太、かかと痛で練習断念 マーベリックスのミニキャンプで、共同通信、2009年6月12日配信、2010年9月10日閲覧。
  8. ^ リンク栃木初V、田臥MVP、日刊スポーツ、2010年4月13日配信、2010年9月10日閲覧。
  9. ^ JBL 2009-2010 シーズン終了、JBL公式サイト、2010年4月13日配信、2010年9月10日閲覧。
  10. ^ 田臥らリンク栃木が優勝パレード、サンケイスポーツ、2010年4月17日配信、2010年9月10日閲覧。
  11. ^ 田臥、12年ぶりジャパン!、サンケイスポーツ、2010年7月8日配信、2010年9月10日閲覧。
  12. ^ “男子バスケ16年ぶり決めた! 田臥で4強”. スポーツニッポン. (2010年11月25日). http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2010/11/25/04.html 2010年12月9日閲覧。 
  13. ^ “アジア大会 バスケ日本に大ブーイング カタールに「加油」”. MSN産経ニュース. (2010年11月21日). オリジナルの2010年11月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101124025054/http://sankei.jp.msn.com/sports/other/101121/oth1011212344071-n1.htm 2010年12月9日閲覧。 
  14. ^ “アジア大会 16年ぶり4強の男子バスケ“反日”ムード吹き飛ばす”. MSN産経ニュース. (2010年11月25日). オリジナルの2010年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101127060120/http://sankei.jp.msn.com/sports/other/101125/oth1011250020003-n1.htm 2010年12月9日閲覧。 
  15. ^ リーダーズ|試合記録|JBL-日本バスケットボールリーグ-、JBL公式、2011年5月5日閲覧。
  16. ^ a b ホーム » チーム・選手 » BREX選手一覧 » #0 田臥勇太”. リンク栃木ブレックス. 2015年8月11日閲覧。
  17. ^ 田臥勇太の復帰は間近! JBL2年目、リンク栃木の躍進、スポーツナビ、2009年11月27日配信、2010年9月10日閲覧。
  18. ^ Heroes File~挑戦者たち~ 田臥勇太さん vol.23”. 朝日新聞×マイナビ転職 (2010年4月2日). 2010年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月10日閲覧。
  19. ^ 田臥勇太「スラムダンクは僕のバイブル」 バスケ愛語る 朝日新聞デジタル 構成・清水寿之 2016年5月22日
  20. ^ 中沢が“恩人”田臥と約束16強メール”. デイリースポーツonline (2010年6月28日). 2010年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月10日閲覧。
  21. ^ EA、田臥勇太選手をEAスポーツ・パートナーに起用、GAME Watch、2005年10月4日配信、2010年9月10日閲覧。

関連項目

外部リンク

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