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「ノート:任那日本府」の版間の差分

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:::学界では一般的に定説というものが存在し、地球が平らであると主張する人がいるからといって、地球が丸いという事実に議論があるわけではない。[[利用者:Gksyy|Gksyy]]([[利用者‐会話:Gksyy|会話]]) 2024年1月30日 (火) 11:29 (UTC)
:::学界では一般的に定説というものが存在し、地球が平らであると主張する人がいるからといって、地球が丸いという事実に議論があるわけではない。[[利用者:Gksyy|Gksyy]]([[利用者‐会話:Gksyy|会話]]) 2024年1月30日 (火) 11:29 (UTC)
::該当記事「日韓歴史研究報告書の要旨」にそのような記述はありませんね。意見が一致しているのは「当時使われていた用語ではない」という点のみです。改めて差し戻しを行います。--[[利用者:ObeRobe|ObeRobe]]([[利用者‐会話:ObeRobe|会話]]) 2024年1月30日 (火) 19:55 (UTC)
::該当記事「日韓歴史研究報告書の要旨」にそのような記述はありませんね。意見が一致しているのは「当時使われていた用語ではない」という点のみです。改めて差し戻しを行います。--[[利用者:ObeRobe|ObeRobe]]([[利用者‐会話:ObeRobe|会話]]) 2024年1月30日 (火) 19:55 (UTC)
:::https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/4-all2k.pdf--[[利用者:Gksyy|Gksyy]]([[利用者‐会話:Gksyy|会話]]) 2024年1月31日 (水) 04:05 (UTC)
:他の意見がなければ、本来のように編集します。これは私の個人的な意見ではなく、学界の見解です。現在の文書は、一次会議以降の内容を更新していない状態です。--[[利用者:Gksyy|Gksyy]]([[利用者‐会話:Gksyy|会話]]) 2023年11月28日 (火) 12:35 (UTC)
:他の意見がなければ、本来のように編集します。これは私の個人的な意見ではなく、学界の見解です。現在の文書は、一次会議以降の内容を更新していない状態です。--[[利用者:Gksyy|Gksyy]]([[利用者‐会話:Gksyy|会話]]) 2023年11月28日 (火) 12:35 (UTC)



2024年1月31日 (水) 04:05時点における版

朝鮮勾玉と糸魚川遺跡

脚注の「最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した。」 とある部分ですが、朝鮮と糸魚川周辺の組成が一致したという報告の出所がわかりましたらよろしくお願いします。また「東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないことに」 とありますが、中国にはヒスイの加工の歴史がありますが、これは勾玉の工房がないということでしょうか。(バイカル湖の周辺でヒスイかはわかりませんが、勾玉が発見されるそうです)-221.190.235.58 2008年1月5日 (土) 07:02 (UTC)[返信]


まず編集要約欄に書かれた朝鮮の無文土器時代の埋葬から翡翠がでているとのことですが、日本では三内丸山遺跡から縄文中期(BC5,000年)の単なる翡翠でなく翡翠製勾玉が見つかっています。

バイカル湖畔からも勾玉が発見されているとおしゃってますが、いつの物かソースをお願いできますでしょうか?日本では縄文時代(BC6,000)の勾玉が福島県八方塚A遺蹟から出土されており、またその原型は縄文時代初期にまで遡ります(鈴木克彦「縄文勾玉の起源に関する考証」2006『玉文化』3号)。BC6000より古いものは見つかっていないはずです。

中国には翡翠工房があったのでは?朝鮮と糸魚川周辺の組成が一致したという報告の出所は?

中国の工房がいつからあったのかソースを提示していただかないとわかりませんが、翡翠の産地は、世界では日本、ミャンマー、ロシア、カザフスタン、アメリカ、グアテマラと限られており、特に勾玉に使われた宝石レベルの硬玉は、日本とミャンマーなど、より限られる地でしか採掘されず、東アジアでは日本だけです[1]。中国もミャンマーから仕入れて工房を持っていたのかもしれませんが、いつからなのか調べていないのでわかりませんのでソースをお願いしたいです。どちらにしろ工房の1文はあまり必要ないと思います。なぜなら、朝鮮半島には日本よりかなり遅れた工房しか発見されてませんし、産地でもないわけですから、すると中国と日本のどちらから仕入れていたのかが問題となりますが、勾玉は日本が最も古く出土されていること、且つ翡翠製勾玉が見つかるのは倭と関係を持っていた朝鮮半島南部ばかりで発見されていること、極めつけが、半島で見つかる翡翠製勾玉が化学的に日本の糸魚川産の翡翠と証明されたこと等から考えると、日本から朝鮮へ流れたことは明らかではないでしょうか。学会でもそれが定説のようです。

上記発言のソース
  • 「韓国における翡翠製勾玉のなかには、日本出土の翡翠製勾玉を時期的にさかのぼる例が認められない。」「韓国における翡翠製勾玉は4世紀頃をピークに衰退時期が6世紀前半頃を境としており、時期的に日本における衰退時期と平衡する」「現在まで、朝鮮半島において、翡翠原石産地及び翡翠製勾玉製作遺跡は発見されていない。」「現段階では、韓国の三国時代に出土する翡翠製勾玉は日本列島より伝来されたと考えている。そして、数量的には伽耶お呼び新羅などの朝鮮半島南部に多出し、特に新羅の王墓を中心とした古墳から集中的に出土することから、日本から新羅へもたらされたと推定」(門田誠一,2004,「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』)
これは一例の論文で同じような論文は多くあります。
  • 科学測定のソース(早乙女雅博/早川泰弘 日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析 朝鮮学報 朝鮮学会)

以上で納得していただけると思いますが、いかがでしょうか?--Suginamin 2008年1月6日 (日) 08:31 (UTC)[返信]


注釈2において韓国内の翡翠産地がないと書かれていますが、春川東面に翡翠鉱山が存在しますので修正しておきます。--59.150.152.235 2009年4月11日 (土) 07:29 (UTC)[返信]

修正の仕方自体に異論はありませんが、注釈はあくまで出典にある表現を意訳したものですので、かの著書には「ない」と書かれているが実際には春川に存在するといった表記の方がベターかな、と思います。まあ主題は「(当時)工房が韓国内にない」ことですので今の編集でいいと言えばいいのですが。--ろう(Law soma) D C 2009年4月13日 (月) 02:14 (UTC)[返信]
私もそのように思うのですが、どのように変更を行えば良いものか悩みますね。そして更に悩ましいのですが、青銅器時代の翡翠工房が韓国の大坪里で発見されており、ミャンマーではそれよりも更に古い翡翠工房遺跡が発見されているわけでして。論文の正確性に疑問を呈するのはwikipediaの役割ではないと思うのですが、「東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと」というのは……。--59.150.152.235 2009年4月18日 (土) 08:55 (UTC)[返信]
この翡翠産地とは翡翠は翡翠でも勾玉に使われる宝石レベルの「硬玉」のことではないですかね。中国や韓国の春川で出る翡翠は宝石レベルではない「軟玉」だったと思いますが。翡翠を語る場合、日本考古学では硬玉に限定して用いることが多い、という話もあります(大塚初重、戸沢充則編『日本考古学用語事典』柏書房 )。また「翡翠より柔らかい軟玉は、主に角閃石でできており、軟玉に翡翠の名前を使ってはいけない(『翡翠展 東洋の至宝』毎日新聞社)とする見解もあります。そして硬玉の産地はアジアでは日本とミャンマー北部のみです(日本考古学用語辞典)。ですから硬玉と正確に記載し記載復活をさせたいと思います。
また「工房」についてですが、そもそも、この話のポイントとしてあまり重要ではないので消してもよいと思います。ポイントは「半島で見つかる翡翠製勾玉は日本から朝鮮へ渡ったものである」ということであり、その証拠として、「硬玉翡翠」の産地はアジアでは日本とミャンマーのみであり、そして日本では単なる勾玉はもちろん、翡翠製(硬玉)の勾玉が縄文時代から見つかっており、半島では5~6世紀ごろからしか見つからず(しかも倭と関係していた南部のみ[2]で発掘)、且つ、半島南部の翡翠製勾玉は化学的分析で糸魚川のものと同じだった、というところだと思いますので。「工房」部分は除去し、産地について「硬玉」と正確に書き、復活させていただきます。--Dondokken 2009年4月29日 (水) 18:32 (UTC)[返信]

左派系学者と限定してよいのでしょうか

まずは、薔薇騎士団さんの編集を要約欄で虚偽と断じて申し訳ありませんでした。ここで私が言いたかったのは、出典を田中2009としながら、その出典がなんなのか記載されていないこと、田中氏の著作は複数確認していますが「左派系」とする記述が見あたらないことの確認です。ぜひ「任那を統治する機関だと定義する考えを否定する見解」を出している研究者が「左派系」であることの出典をお願いします。

少なくとも私の確認している範囲では、ここ数十年の新しい研究成果で「任那を統治する機関だと定義する考えを否定する見解」以外のものは見受けられません。とは言え、その内実は様々です。吉田氏のように、一時期井上氏や田中氏により否定された4世紀の日本府について、倭国の軍事的外交機関として存在していたとしている方もいらっしゃいます。要は、現在の学会では統治機関説はほぼ存在せず、倭の外交機関説(主に日本史学者)対単なる倭のお使いレベル説(主に朝鮮史学者)という状況です。

現状では任那が統治機関であるとする説は「つくる会」教科書にしか見受けられません。薔薇騎士団さんの要約欄に「講演活動から判断できます」とありましたが、田中氏の講演活動で目立つのは「つくる会」に反対する活動であり、このままでは単に「つくる会」教科書の記述に反対している人全てに「左派系」というレッテルと貼っているように思われてしまいます。そのようなことは薔薇騎士団さんの本意とするところではないと思いますので、ぜひ出典をお願いします。--ろう(Law soma) D C 2009年10月6日 (火) 01:35 (UTC)[返信]

田中氏は、親北朝鮮系の団体と密接な関係があるのは講演や講座の活動を見れば明らかですし、そうした人物は普通は「左派」と認識されます。こうした点については別にネットでも普通に情報が載っているので、本人も隠そうとしているとは思いませんし、それゆえ記事に掲載してかまわないと思います。ちなみに、私は左派だからダメだと言っているわけではありません。ただ誰がどの立場かを明示した方が読者に親切だと思います。あと、もともとの脚注は私が書いたものではありませんが、著作の名前が抜けているので、脚注としては不十分だというのは同意します。--薔薇騎士団 2009年10月6日 (火) 08:15 (UTC)[返信]
経緯と趣旨は了解しました。私個人としては、「右派」・「左派」という言葉は発言者やその時々の時勢によって様々な解釈がなされる言葉なので、明確に「左派」と記載されているような信頼性のおける出典のない限りは「日朝友好促進京都婦人会議と関係のある」などと具体的で出典が出せるような表記の方が誤解が少ないと思います。なお、現状の記述では統治機関説を否定する見解が「左派系」学者からしか出されていないように受け取られかねませんので、「左派」という文言を残すとしても、私としてはせめて「左派系学者などから」や「左派系学者を中心に」などにすべきだと思います(吉田氏は「左派」なのでしょうか?)。なお、ノート:伽耶をご覧頂ければ、この件に関して私が中立であろうとしていることはご了解頂けると思います。ご検討ください。--ろう(Law soma) D C 2009年10月6日 (火) 09:38 (UTC)[返信]
下節とも関連しますが、薔薇騎士団さんの「立場を明示した方が読者に親切」云々は予断を与えるだけのもので記事解説に要求される中立的{{観点}}に合致しません。Law soma氏の「左派系学者などから」も同様で、誰が何の言説を以って「左派」かを特定する明確な根拠も無く、やはりレッテル貼りの域を脱していません。学者本人の記事ではなく歴史事項のそれもリード部にこうした政治党派性を持ち込むことそれ自体がプロパガンダであると考えます。よって「多くの学者から」に改めさせていただきます。また、2009年7月23日 (木) 12:39の編集き杯氏が追加した出典記述の「田中2008」・「田中2009」は参考文献節に文献名が記述されていませんが、田中氏の著作歴から該当すると思われるものがありましたので、追記しました。--121.3.66.64 2009年12月17日 (木) 10:52 (UTC)[返信]
実際親北朝鮮系の団体で講演しているわけですから、左派系でしょう。また「また多くの学者から」というのは出典を示して下さい。一人と多くでは違いがありすぎますから。該当箇所はいったん戻します。--薔薇騎士団 2009年12月17日 (木) 22:28 (UTC)[返信]
編集合戦は好みませんので、直後の編集は差し控えます。私個人としては、「左派系の」学者といった表現は好ましくないという点でIPの方と同意見です。ただ、プロパガンダにならない程度に、どのようなスタンスの学者が唱えている説か、ということを記述しても、必ずしも偏っていない表現にはできるとも思っています。そういう意味で「左派系学者など」という表現にさせていただきました。これは、少なくとも私が確認しうる限りで、いわゆる「左派系」学者以外にも「統治機関」に否定的な研究者はおり(吉田氏)、またここ数十年の研究書、概説書で「統治機関」説を採っているものが見受けられないということがあります。出典欄にあるように複数の研究者が「統治機関」ではないとしており、また学界において「統治機関」であるとの意見に基づく反論がなされていない現状を考えると、「左派系学者など複数の研究者」との表記が考えられると思います。
現状、韓国・北朝鮮の研究者はほぼ一様に任那日本府を否定(乃至極めて限定的な役割と認識)しております。日本国内では、朝鮮史学者は(左派系かどうか分からない方もいらっしゃいますが)ほぼ否定説、日本史学者は(左派系かもしれない方も含めて)外交or軍事機関説が多いように見えます。「統治機関」説はつくる会教科書系にしか見受けられません。これらが適切に記載されているならば問題ないのですが、簡略に書こうとするとどうしても偏った書き方になってしまうのが、これまでの経緯ではないでしょうか。--ろう(Law soma) D C 2009年12月18日 (金) 04:33 (UTC)[返信]

『「任那日本府」研究の歴史』の中立性について

現在の記述は多重アカウントの不適切な使用疑いによるブロックを受けている利用者:き杯氏により記述されたものであり、中立性観点からの逸脱が観られます。特に顕著なのは田中俊明による主張を定説の如く多用していることです。言うまでも無く、田中は一研究者に過ぎず、氏の主張が定説的に扱われるには問題があるでしょう。特に、氏は古代日朝関係についての研究を主としてますが、在日朝鮮人政策問題についても活動を行っている側面があり、思想的な偏りが全くないとは言いきれません。勿論、氏の研究成果への記述を妨げるものではありませんが、中立的観点での記述にあらためるべきと考えます。--StarJumper 2009年12月12日 (土) 14:30 (UTC)[返信]

今回の一連の編集は、一点以外は妥当であり中立的なものと思います。残る一点は、上で私が問題視しております点でして、「左派系学者などから」に修正しておきます。--ろう(Law soma) D C 2009年12月14日 (月) 04:28 (UTC)[返信]
田中氏の著作を出典とする多くの記述は氏自身の「任那日本府」に関する主張を定説的に記述したものではなく、学説史に関わるものであり、StarJumper氏がいうような中立性観点からの逸脱はないと思います。--121.3.66.64 2009年12月17日 (木) 10:52 (UTC)[返信]
そうはおっしゃいますが、現に、戦後節などは田中氏の出典のみによってあたかもそれが確定的事実であるかのように記述構成されている訳です。また、戦後節以外でもやはり特定の観点からの記述が主体となっております。未だ詳細が詳らかでない事象の紹介としては甲論、乙論がバランスよく配されるべきでしょう。似たような観点を有する学者の主張のみで構成されている本記事はとても中立的観点を維持しているとは云えません。--StarJumper 2009年12月17日 (木) 16:08 (UTC)[返信]
中立的な観点による記述というのは二つの意味があり、一つは「事実を書け――だが意見は書くな」で、「誰かの意見として提示することで事実の記述」とするものです。き杯氏の記述はこれに沿ったものです。もう一つは「意見に対立する意見についての事実を述べよ」ですが、これは一編集者に担わせるものでなく、対立する意見があることを承知している編集者が加筆することで補充されるものです。この場合、対立する意見があると主張するStarJumperさん、あなたこそ自らの編集により加筆すべきものだと思います。--121.3.66.64 2009年12月17日 (木) 16:32 (UTC)[返信]
戦後節の本文には「誰の意見か」は記載されておりません。出典を精査して初めて田中氏の意見のみによって構成されているとわかる状況です。御説に従うならばこの記載のされ方はまずいでしょう。(それ以降の記述については「誰の意見か」が本文に付記されているようですが。)私自身がもう少しこの問題に詳しければ加筆によって客観的な内容に差し替えさせていただくのですが、そのような知見が無いため、私自身は若干の編集に留め、詳しい方の登場をお待ちした方が良いとの判断で中立性テンプレートを掲げさせていただきました。対立する意見が皆無であるならば、テンプレートは取り下げていただいても構いませんが、対立する意見がないとは思えません、現につくる会の主張は批判的に触れられておりますし。--StarJumper 2009年12月18日 (金) 08:23 (UTC)[返信]

注釈について

注釈が多用されていますが、一部書き手による説明で終わってしまっています。複数の解釈があってもていいので、出典や資料をつけて記事にしてほしいと思います。-210.174.18.154 2010年2月3日 (水) 13:37 (UTC)[返信]

宋書倭国伝の記述を皆無視している。

宋書倭国伝によると、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと記述している。また、478 年、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けている。まさか宋書倭国伝の複数の記述が全部虚偽・誤記じゃないだろうし、実際支配していないのにこんな号を授けることはありえません。--203.138.139.250 2010年5月3日 (月) 16:59 (UTC)[返信]

やや古いコメントですが、概ね同意します。歴史書に任那についての記録が点在しています。そして宋 (南朝)が二度も倭王に任那という名を含んだ号を授けている以上、倭が実質任那を支配しているか、少なくとも一定影響力を持っていると看做していたことを示すのは明らかだと思います。478年の方の呼び名では六国諸軍事安東大将軍倭國王となっています。上記投稿の方は倭王と記述していますがウィキソースでは倭國王となっています。宋書倭国伝--歴史研究人会話2015年10月18日 (日) 15:59 (UTC)[返信]
肝心な点を書き忘れました。宋書倭国伝の記述を皆無視している点についてですがこれはみなさん賛否両論あるようですね。しかし宋 (南朝)が任那と倭について捏造文書を遺すとは思えません。ここは記述するべきだと思います。--歴史研究人会話2015年10月18日 (日) 16:03 (UTC)[返信]

掲載画像の対馬の色の訂正をお願いします。

掲載されている画像の対馬の色が新羅と同じ紫色です。 対馬が新羅領だったなんてどこを探しても見当たりません。 4世紀 大和朝廷の影響 出居塚古墳(美津島町)は前方後円墳で、銅鏃(矢じり)・管玉等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。 訳で対馬が新羅と同じ紫色であることは誤りです。 灰緑色への訂正をお願いします。--121.2.3.70 2010年11月25日 (木) 09:27 (UTC)[返信]

この画像ファイルは、コモンズに原本がありますが、作成者は中国系の方のようでした。ですので、作成者の中国語版Wikipediaでの会話ページに英語で修正を依頼しました。しばらく待っても修正されないようなら、何とかしてみますが、私は画像作成が得手ではないので、作成者本人が対処するか誰か得意な方が現れてくれるのを期待しています。--ろう(Law soma) D C 2010年11月25日 (木) 12:19 (UTC)[返信]
さっそくありがとうございます。初めての投稿だったので紳士な方に対応していただいて嬉しいです。しばらくは様子見ですね。その間に私もWikiのことをもう少し勉学しておきます。--121.2.3.70 2010年11月25日 (木) 14:10 (UTC)[返信]
どういたしまして。これを機会に、いろいろと執筆してみると面白いと思います。仕組みが分かってくれば、今回のような場合には画像ファイルを自分で修正することも出来るでしょう。--ろう(Law soma) D C 2010年11月26日 (金) 00:43 (UTC)[返信]

118.36.147.60氏の編集

利用者‐会話:118.36.147.60氏の編集を差し戻しました。理由は、まず、ここは韓国政府の宣伝機関ではありません。韓国政府の見解を記載するのであれば、Wikipedia:方針とガイドラインを十分に読み、また、かつここが日本語版ウィキペディアであることを認識してください。韓国語情報源のすべてが記述されないわけではありませんが、IP氏のように、問題ある編集をなされる場合は、十分に出典を明らかにしたうえで、かつ、その情報源を日本語使用者が十分に検証できるような手続きをとってください。--西方 2012年2月18日 (土) 12:17 (UTC)[返信]

同氏がまた差し戻しをするので、今一度、議論に応じてくださることをお願いします。2012年2月19日 (日) 01:35時点における版での具体的な問題を指摘します。
「しかし、新羅百済伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土したと出張しているが、大量ではなく伽耶の一部地域に日本産のヒスイ製勾玉が発見されていて倭国にも南朝鮮からの鉱物や南朝鮮の土器に影響された土器が九州に多く発見された。これはお互いに一種の貿易をしたことで日本産のヒスイ製勾玉が発見されたことで伽耶に倭軍が経済的に軍事的に影響していたとは言えない。」
まず、この部分は、独自研究です。かつ、「出張(主張?)」の主語がないです。

それから
「これは韓国政府が歪曲された歴史を正しく変えようとする努力を怠ったこと、海外への影響力が不足していたことを原因として内部批判があり、大韓民国政府の努力によって段々改善されていく。『Herald news』[3]。」
これも文章曖昧で、かつ特筆性も不明。「韓国政府によって改善されていく」?なにが?歴史認識?冗談はおやめください。もしおなじことを逆に「日本政府がこのような歴史認識問題は解決していくだろう」と書いてあったら、いかがですか?

それと、議論は、私のノートでなく、こちらで、お願いします。すでにそのように呼びかけています。--西方 2012年2月19日 (日) 03:57 (UTC)[返信]

しかも、出典先の記事タイトルは「サイバー外交使節団」のバンク(Voluntary Agency Network of KoreaVANK)の歴史認識「改善」活動についてのものじゃないですか。VANKは、研究者でもなんでもなく、韓国の民族主義に基づいた政治団体でしょう?出典があろうかなかろうが、この記事はいずれにしても、VANKに書くべき内容です。--西方 2012年2月19日 (日) 05:06 (UTC)[返信]

出典があるのなら、それが出典と明記して「○○が~~~~と主張している云々」と書き換えるのは問題ないはず。--megatron 2012年2月19日 (日) 13:48 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性#情報源/ソースには、次のようにあります。
ウィキペディアの記事は、事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源に基いて書くべきです。学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。また、主張する内容に応じて適切な情報源を選ぶべきです(珍奇な主張には強固な情報源が必要です)。 ウィキペディア日本語版では、可能な限り日本語による情報源を示すべきであり、常に日本語による情報源を日本語以外の言語による情報源より優先して使用するべきです。これは、情報源の資料が正しく使用されたことを、日本語版の読者が容易に検証できるようにするためです。
ほか、Wikipedia:検証可能性#但し書きには「ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをご覧下さい」ともあります。
IP氏の加筆内容は、特定の政治集団による主張、それも、任那日本府とどのような関連が具体的に指示されているのか不明な主張でした。私は、特筆性の観点から、なぜそれを書くことが必要なのかを説明してほしいのです。そのためには、出典の記事について、該当箇所を翻訳されるなりされたうえで十分に説明をしてください。異議が唱えられているわけですから。「出典あるでしょ。終わり」みたいな、投げやりな説明の仕方はおやめください。--西方 2012年2月19日 (日) 15:05 (UTC)[返信]
それに、IP氏が加筆された内容というのは、すでに在日朝鮮・韓国人系の歴史学者やあるいは日本の歴史学者も共有していることで、すなわち「任那日本府は、朝鮮総督府のようなものではなかった」「任那日本府があったとする考えは、日本帝国主義的な歴史観である」ということをいいたいわけですよね?だとすれば、それらはすでに本記事に記述されていますし、日本語文献でも多数、同主旨のものはあります。それをまずは優先的に加筆すべきでしょう。--西方 2012年2月19日 (日) 15:13 (UTC)[返信]
韓国のある団体がこういう主張をしている。ということを書いてはいけない訳ではないということですよね?いきなり差し戻すのではなく日本語の資料を示してもらう方向で話してダメなら戻せばいいのでは。長々とかいてますが、差し戻す理由は出典云々より、日本語がおかしいからという所だけいいと思います。--megatron 2012年2月19日 (日) 16:55 (UTC)[返信]
わたしは、VANKの主張の記載について合意できませんね。なぜ本記事に必要なのか、まったく理由が示されてないからです。megatronさんは、IP氏を代弁されておられるのですか?そうであれば、あなたが日本語資料を提示され、かつ日本語で、まずは草稿をこのノートで提示してください。議論はそれからです。差し戻しについては、異議があるのだから、行ったまでです。IP氏の編集は、問題ある編集だったからです。「日本語がおかしい」から問題というよりも、内容が問題なのです。それに、なにか、megatronさんは、ヒスイの文と、VANKの文をその双方とも同じとしてかたづけているのですか?まったく奇妙ですね。前者は、最後の文章「…とはいえない」という箇所は、独自研究です。こちらは出典がまったく示されていません。わたしは、すでに複数の問題提起をしているのですから、それについて、あなたがIP氏を引き継ぐというのであれば、お答え願えますか?--西方 2012年2月20日 (月) 02:32 (UTC)補足--西方 2012年2月20日 (月) 02:38 (UTC)[返信]
わたしもVANKの主張の記載について合意できません。VANKはこの時代の歴史を研究する団体ではなく到底この時代の専門家とは言えません。--歴史研究人会話2015年10月18日 (日) 16:08 (UTC)[返信]

名称について

鎌倉時代に書かれた釈日本紀をもって呼び方が決まる、というのはどういう理解の仕方なのでしょうか?しかも、釈日本紀の注釈に書かれたものとは違う表現の呼び方をしていた、と。よく分からないのでご説明頂ければと思います。あと、アカウント取りませんか?--Seisato会話2013年6月16日 (日) 15:58 (UTC)[返信]

除去された文章を読む限り、あれは岡田説の紹介なのではないでしょうか。確かに分かりにくいとは思いましたのでこのたびの除去に反対まではしませんが、それなりの出典と記事であれば一説として復帰してもよい文章だと思います。--ろう(Law soma) 2013年6月17日 (月) 02:02 (UTC)[返信]
(補足)「日本」という国号の成立が任那日本府時代より後世であるというのは日本史学上の定説ですので、任那日本府の存在を肯定的に捉える立場からは当然「当時の名称」説が出てくると思います。実際、飛鳥時代以前には「日本」という名称がなかったのだから任那日本府もウソだとする意見すらある訳ですから。いやいや、当時は「倭宰」だったんだけど、書紀執筆の際に遡って名称を再構成したんだよ、という、「郡・評」論争と同趣旨の話なのではないでしょうか。--ろう(Law soma) 2013年6月17日 (月) 02:10 (UTC)[返信]

国号については分かりました。私の疑問としては、「鎌倉時代の注釈書に任那倭宰と書いてあるから任那倭宰または倭府と呼んでいた」という表現なのです。なぜ、後の時代に書かれた注釈書が根拠になるんでしょうか?もう一つの疑問として、「任那倭宰」から「倭府」という呼び方になるのはどういう理屈付けでしょうか?「郡・評」論争と同じと言われても、同時代の史料で違った表現をしている、ではないですよね?鎌倉時代なんですし。どうにも分からないのですが、この呼称問題は「郡・評」論争と同じくらいにメジャーな論争なのでしょうか?日本書紀には任那官家とも書いてある、という部分は概要の下あたりに付け加えてもいいかな、と思っています。--Seisato会話2013年6月17日 (月) 14:39 (UTC)[返信]

たぶん岡田氏の著作(何なのかは分からないけど)を要約引用する際に、必要以上に要約しすぎて訳が分からない文章になったのではないかと。たぶんですが岡田氏の論調は、飛鳥時代以前には「日本府」と呼ばれていた筈はない→後世の史料ではあるが釈日本紀には任那倭宰と書かれている→これは日本書紀により「日本府」と訂正される以前の史料に依っているのではないか→だから当時は任那倭宰と呼んでいた可能性がある、って程度かと思います。「郡・評」論争と同じくらいメジャーかどうかは分かりませんが(「郡・評」論争だってマイナーですよ)、日本書紀が遡って「倭」を「日本」に訂正してるのは結構有名だと思います(古事記と読み比べれば誰でも分かる)。--ろう(Law soma) 2013年6月18日 (火) 01:18 (UTC)[返信]

色々と教えて頂きありがとうございます。マイナーな論争なのですね。繰り返しになりますが、国号については分かりました。岡田氏の説について書いた部分は「論理性が無いので除去」でとりあえず合意頂けたと考えます。岡田氏の説を復帰させるかどうかは現状詳細が分からないので、出典を探してくださる方が現れるまで待ちでよいと思います。--Seisato会話2013年6月18日 (火) 12:26 (UTC)[返信]

岡田英弘はあくまで「倭府」説であって「倭宰」説ではありません。ただし岡田説の具体的根拠などはあげられたことはないと思います(たぶん全集にも載ってない)。「倭宰」説は宣長か篤胤か忘れましたが江戸国学に遡る古い説で、戦前までの定説と思います。--126.133.17.7 2019年11月20日 (水) 21:28 (UTC)----[返信]

外部リンク修正

編集者の皆さんこんにちは、

任那日本府」上の4個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月25日 (月) 14:03 (UTC)[返信]

Gksyy氏の編集

「任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関ないし外交使節で、2010年に廃棄された学説だ。」「カテゴリ: 否定された仮説」「カテゴリ:偽史」など、一方的かつ偏った視点からの編集が行われていたため、記事を差し戻しました。Wikipedia:中立的な観点に基づいた編集を行ってください。また、先に提示した記述の文体はWikipedia:表記ガイドにも反しています。--ObeRobe会話2023年11月26日 (日) 16:58 (UTC)[返信]

上記の学説はすでに2010年に廃止されました。
韓日歴史共同研究委員会は2010年3月23日、2期最終研究結果発表で「「イムナイ日本部」が存在したと裏付ける根拠がない」と最終結論下した。[4][5]
これは偏向的な編集ではなく学界で認められた事実であり、その文書は一次研究結果以降の内容を更新していませんでした。
Gksyy会話2023年11月27日 (月) 01:32 (UTC)[返信]
日韓歴史共同研究委員会に於いての結論は学界全てに於いて適用されるわけではないと思うのですが、その点についてはどのようにお考えですか?--Koyasanfish会話2024年1月23日 (火) 06:53 (UTC)[返信]
日韓歷史共同硏究委員会は、2001年10月の日韓首脳会談で歴史問題に関する韓日共同研究が合意され発足したもので、そのうち2010年、林内日本の敷設に関連して、臨日日本本部の存在自体がなかったことに意見を一緒にしました。要するにこれは韓国側の一方的な主張であるか、一部の主張ではなく、各政府の推進で進められた研究会で進行に両側とも合意を見た内容です。
学界では一般的に定説というものが存在し、地球が平らであると主張する人がいるからといって、地球が丸いという事実に議論があるわけではない。Gksyy会話2024年1月30日 (火) 11:29 (UTC)[返信]
該当記事「日韓歴史研究報告書の要旨」にそのような記述はありませんね。意見が一致しているのは「当時使われていた用語ではない」という点のみです。改めて差し戻しを行います。--ObeRobe会話2024年1月30日 (火) 19:55 (UTC)[返信]
https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/4-all2k.pdf--Gksyy会話2024年1月31日 (水) 04:05 (UTC)[返信]
他の意見がなければ、本来のように編集します。これは私の個人的な意見ではなく、学界の見解です。現在の文書は、一次会議以降の内容を更新していない状態です。--Gksyy会話2023年11月28日 (火) 12:35 (UTC)[返信]

提案

現在、「〜実在したかどうかについては論争がある」としていますが、記事の内容を反映して、「〜韓国(側)では任那日本府は存在しなかったという説を唱えるものもいる」に変更することを提案いたします--Koyasanfish会話2024年1月23日 (火) 07:02 (UTC)[返信]

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