白木屋 (デパート)
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白木屋(しろきや)とは、かつてあった日本を代表する百貨店。
概要
白木屋は、京都の小間物・呉服問屋として名が知られていた。1662年(寛文2年)に江戸の日本橋通り三丁目に進出し、大村彦太郎によって創業。江戸支店が開かれた。江戸時代初期に小間物商から大呉服店となり、町人から大名・大奥までをも顧客とした。
明治時代以降は百貨店として発展。明治維新以降は服装の洋装化の波に乗り、デパートとしては三越(越後屋)より繁盛していた[1]。百貨店初のエレベーター導入など先進的な取り組みでも知られた。しかし、その後は拡大策を採る一方で創業家族の大村家が経営から手を引くなどトップマネジメントに混乱が見られた。1956年、東京急行電鉄の傘下に入り、1958年には東急傍系の東横百貨店を合併。社名を東横と変更し、店名はそれぞれ「白木屋」(日本橋)、「東横」(渋谷・池袋)と名乗った。1967年、東急百貨店に商号・店名ともに改称し、現在に至る。
ただし、本来の白木屋の跡地に入った東急百貨店日本橋店は1999年1月31日に閉店。跡地はコレド日本橋(日本橋一丁目ビルディング)となり、池袋の東横百貨店は1962年、隣接していた東武百貨店に譲渡している。
店内にあった白木観音や白木名水、日本橋店舗の一角にてソニーが創業したことなどでも知られる。
現在、白木屋の商標はハワイのアラモアナ・ショッピングセンターにShirokiyaを残すのみとなっている。
沿革
東京で百貨店業を始めた白木屋は、1920年、阪神急行電鉄梅田駅構内に出張売店として出店し、本邦初のターミナルデパートになった。
のち、契約満了に伴い閉店となり、改築の上、阪急直営の阪急百貨店となった。また、京阪電気鉄道天満橋駅構内にも開店した。1932年、京阪電気鉄道と共同出資により設立した京阪デパートへ譲渡し、1945年まで営業した。
その後、阪急百貨店天満橋支店となり、1961年に閉店した。京阪デパートの店舗はこの他、京阪電気鉄道新京阪線(現在の阪急千里線)天神橋駅にもあった。
東京では、池上電気鉄道(現在の東急池上線)五反田駅、城東電気軌道(のちの東京都電路線)錦糸町駅等に出店。
1933年には、京浜電気鉄道と共同出資による京浜百貨店を設立し、「京浜デパート」の名前で京浜電気鉄道(現在の京急本線)品川駅、鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)鶴見駅などに出店し、「菊屋デパート」の名前で武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)池袋駅などに出店した。
なお、この菊屋デパート池袋店は1940年堤康次郎が買収し、「武蔵野デパート」と改称。現在の西武百貨店となる。
戦後、京浜百貨店を京浜急行電鉄に譲渡。残った小型店舗は東急傘下入り後白木興業として分社され、現在の東急ストアに合併した。
白木屋火事
日本の都市災害史に残る大火災の一つ。1932年12月16日にクリスマスイルミネーションを出火原因とする火災が発生、14名の死者を出す日本初の高層建築物火災となった。
当時の女子従業員は和服で、下着を着けていないのは珍しいことではなかったが、この時代状況をもとに「下着をつけていなかったため、裾の乱れを気にしてロープによって救助されることを躊躇した者が多く、犠牲者を増やした」という説が、その後広く信じられている。しかし、井上章一の考察(『パンツが見える。――羞恥心の現代史』)は、「記録によると、1人を除いて犠牲者は全て飛び降りや帯・避雷針などで降りようとして失敗したことによる転落死だったことに加え、多くの従業員が消防士の救助で助かっている」などと指摘し、この説は事実無根であるとして強い疑問を唱えている。一方、「白木屋火災が女性の洋風下着が普及するきっかけとなった」とする説は、井上の著作発表以後も、その指摘を踏まえないままにたとえばテレビ番組「トリビアの泉」で「事実に基づくトリビア」として放送されたなどの実例がある。
白木屋乗っ取り騒動
日本の経営史上に残る経営紛争の一つ。
1949年、日本橋交差点の好立地にありながら業績が伸び悩んでいた白木屋に対し、当時繊維関係の商社を経営していた横井英樹が株の買い増しを開始。経営権の獲得を目指し買い占めを行っていたが、1953年に日活社長の堀久作の持株と合わせると同社の過半数の株式を掌握する事が判明したため、両者は共謀。白木屋に対し両者の役員就任等を迫った。間もなく堀は白木屋株を山一証券へ売却してこの一件から手を引いたが、1954年遂に白木屋経営陣と横井は全面対決をすることとなり、両者がそれぞれ株主総会を実施して役員を選出するといった異常事態になった。
当時横井を金融面で支援していたのは堀とも繋がりを持つ千葉銀行であったが、1955年千葉銀行は横井が金策で行き詰まってきたため、東急グループ総帥の五島慶太に支援を要請。五島は熟考の末事態の収拾に当たる事とし、横井および元々堀が保有していた株式を買収して経営権を掌握。結局横井は白木屋から手を引き、東急が業績不振の白木屋を再建する目的で買収する形を取る事となり、乗っ取り騒動は一件落着した。
横井はこの一件で当時「希代の仕手屋」(グリーンメーラー)としてその名を轟かせることとなる。
関連項目
外部リンク
- Shirokiya(英語版)
- 特異火災事例・白木屋火災 (Pdfファイル)
- 白木屋パラダイス下山事件資料館のいちコーナー