荒木大輔
2012年8月17日、明治神宮野球場にて | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都調布市 |
生年月日 | 1964年5月6日(60歳) |
身長 体重 |
179 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト1位 |
初出場 | 1983年4月26日 |
最終出場 | 1996年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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荒木 大輔(あらき だいすけ、1964年5月6日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。
経歴
プロ入り前
工務店の3人兄弟の三男として生まれる。二人の兄と同じリトルリーグ・調布リトルに入団。小学6年生の時にはエースとして日本選手権、極東大会に優勝し世界大会でも優勝。世界大会準決勝のプエルトリコ戦ではノーヒット・ノーランも達成した。なお二人の兄も調布リトルで日本一になっている。
調布市立神代中学校在学時も調布シニアで活躍、高校は早稲田実業を受験し合格、兄に続いての早実入学を果たした。 尚、早稲田実の同級生には1年時よりともに活躍をした小沢章一や石井丈裕に松本達夫、1学年下には中学校、調布リトル・シニアを通じての後輩でもある板倉賢司や上福元勤らがいた。
早稲田実入学後の第62回全国高等学校野球選手権大会、東東京大会では1年生ながら控えの三塁手としてベンチ入り。準決勝で選抜準優勝の優勝候補の帝京を三安打完封、この勝利はのちに巻き起こる大輔ブームの幕開けを予見させる。2年生エース芳賀誠(早大ー日本IBM)の故障により・二松学舎大付との決勝では急遽先発を任されることとなる。 試合は二松学舎大付に先制を許すも自軍の活発な打線と荒木の堂々たる完投勝利により早実が10-4で快勝。チームを2年ぶりの夏の甲子園に導くとともに、荒木自身にとってもチームにとっても様々な観点から重要な意味を持つ試合となった。
甲子園大会では初戦の北陽(大阪)戦を含めた5試合に先発し4完封、44回1/3連続無失点の力投で決勝進出の大きな原動力となるが、決勝ではエース愛甲猛、好守好打の安西健二を擁する優勝候補の横浜に初回先制され無失点記録をストップ、連投による疲労もあってか生命線の制球力に微妙な狂いが生じ、結果その後も小刻みに追加点を許し4-6で敗れ惜しくも準優勝に終わった。
この時の甲子園での大活躍に加え端正かつ爽やかなルックスとが相まって中高生を中心とした幅広い女性ファンから絶大なる支持と人気を集め、以降、荒木が高校野球を引退するまで移動のバスや練習グラウンド、試合前後の球場内外を大勢の女性ファンが取り囲むという光景がこの時代の風物詩になるとともに一大ムーヴメントとなった。 この大会より早実は荒木が在学中の春夏甲子園大会に5季連続で出場。世間では「大輔」が新生児の人気名前ランキングの1位に上がるなど空前ともいえる「大ちゃんフィーバー」が社会現象として巻き起こった[1]。
1982年夏の甲子園準々決勝では畠山準や水野雄仁、江上光治らを擁する徳島・池田と対戦するが、試合前に降った降雨の影響によるグラウンドコンディションの悪化や池田の活発な長打と本塁打攻勢の前に先発の荒木、リリーフの石井ともに飲み込まれてしまう結果となり、終わってみれば2-14という戦前の予想を大きく覆す大差をつけられる形で高校野球生活最後の夏を終えた。
ちなみに学年が上がるごとに甲子園での成績が伸び悩んでしまったことについて荒木本人は、「1年時は球に適度に球威がなかったことで打者の手元で伸びず、ナチュラルに沈んでバットの芯を外れていた球が、学年が上がるにつれ球速、投球技術の向上に伴い逆に打者にとっては打ち頃のボールが多くなってしまっていたのではないか。」と後年分析している。
プロ入り後
1982年秋のドラフト会議ではヤクルトスワローズ(2006年より東京ヤクルトスワローズ)と読売ジャイアンツが1位指名し競合、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得。当初は早大への進学を表明していたが球団や周囲からの説得の末にヤクルトに入団[2]。背番号は11。
ヤクルトスワローズ入団後も高校時代を上回る空前絶後の人気となり、荒木を囲むファンの混乱を避けるため、神宮球場のクラブハウスと球場を結ぶ専用の移動用地下道が作られた。これは「荒木トンネル」と呼ばれ、その後もヤクルトの選手が球場に向かうときに使用することがある[3]。
3年目の1985年後半から先発ローテーション入りし、1986年には開幕投手を務める。ファン投票第1位で選出された同年のオールスターゲームでは第1戦に先発登板し、打者10人に対し1安打失点0に抑えた。1987年も開幕投手のほか10勝を挙げるなどヤクルトの主軸投手として活躍するが、1988年シーズン中盤にヒジ痛を発症。8月27日、アメリカでフランク・ジョーブ執刀の下で側副靱帯再建手術を受ける。しかし、リハビリを急いだため症状が悪化し、翌年に再手術。更に1991年には椎間板ヘルニアの治療も受けた[4]。
怪我から約4年後の1992年9月24日に1541日ぶりの一軍登板。シーズン終盤の復帰であったが、2試合に先発し2勝を挙げる活躍をみせ、チームも14年ぶりのリーグ優勝を果たした。
1993年は規定投球回には届かなかったものの101回を投げて防御率3.92、8勝(4敗)の成績を残す。西武ライオンズとの日本シリーズでは初戦で先発勝利を挙げ、チームも日本一となる。1994年は後半からローテーションを外れ、1995年は一軍登板が無くチームの戦力構想から外れる。
同年オフ、早実の先輩でもあり自身がルーキー時代にバッテリーを組んだこともある大矢明彦新監督率いる横浜ベイスターズへ無償トレードで移籍したが、1996年を最後に現役生活を引退。
引退後
引退後はテレビ朝日・文化放送解説者、日刊スポーツ評論家(1997年 - 1998年)を務めた。{by|1999{年}}にはメジャーリーグのクリーブランド・インディアンズ傘下(2A)であるアクロン・エアロズにコーチ留学し、帰国後は2000年から2003年までNHK解説者・日刊スポーツ評論家を務めた({by|2001{年}}第34回IBAFワールドカップ日本代表投手コーチも経験)。2004年に西武ライオンズ一軍投手コーチへ就任し、2007年、成績不振の責任を取り監督の伊東勤と共に辞任。同年オフ、古巣・ヤクルトへ一軍投手コーチとして復帰。2011年からはチーフコーチを兼任し、2012年には「疲れているなかでも投げなくてはいけない役割になっている」と述べ日高亮を9連投させ、翌年の靭帯損傷により離脱する一因を作った[5][6]。2013年から投手コーチ専任、救援防御率リーグ最下位、チーム防御率は3年連続リーグ5位と低迷し[7]、最下位低迷の一因となった[8]。同年10月9日に球団から契約満了に伴い退団する事が発表された[9]。
2014年からは、NHK・BSのメジャーリーグ中継で解説を担当。サンケイスポーツの評論家も務める。 また、早実時代の甲子園大会における大活躍から、今年(何年?)はNHK大阪放送局の『ニューステラス関西』(平日夕方の関西ローカルニュース番組)という番組内において、「荒木大輔の高校野球100年」という特集のナビゲーターとして元・高校球児への取材活動を幅広く行っている。2015年度からNHK福岡の夕方6時台のニュース番組「ロクいち福岡」ではソフトバンクホークスの解説を節目に行っている。2016年からはNHKのプロ野球解説者を務めている。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1983 | ヤクルト | 15 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 137 | 28.2 | 32 | 4 | 19 | 1 | 1 | 14 | 2 | 0 | 20 | 19 | 5.97 | 1.78 |
1984 | 22 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | -- | .000 | 245 | 52.2 | 64 | 14 | 22 | 2 | 4 | 27 | 3 | 1 | 43 | 42 | 7.18 | 1.63 | |
1985 | 19 | 16 | 4 | 1 | 0 | 6 | 7 | 0 | -- | .462 | 466 | 108.2 | 104 | 18 | 35 | 2 | 5 | 47 | 2 | 0 | 57 | 52 | 4.31 | 1.28 | |
1986 | 32 | 22 | 6 | 1 | 0 | 8 | 13 | 2 | -- | .381 | 668 | 157.2 | 176 | 16 | 41 | 4 | 2 | 83 | 3 | 1 | 89 | 80 | 4.57 | 1.38 | |
1987 | 31 | 25 | 5 | 0 | 1 | 10 | 9 | 0 | -- | .526 | 641 | 151.0 | 168 | 29 | 32 | 3 | 4 | 72 | 6 | 0 | 90 | 85 | 5.07 | 1.32 | |
1988 | 12 | 8 | 3 | 0 | 0 | 3 | 3 | 0 | -- | .500 | 231 | 55.2 | 50 | 13 | 9 | 1 | 2 | 21 | 2 | 0 | 31 | 27 | 4.37 | 1.06 | |
1992 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 47 | 13.0 | 8 | 0 | 4 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0.69 | 0.92 | |
1993 | 21 | 17 | 2 | 1 | 0 | 8 | 4 | 0 | -- | .667 | 427 | 101.0 | 114 | 20 | 22 | 3 | 2 | 56 | 1 | 0 | 44 | 44 | 3.92 | 1.35 | |
1994 | 19 | 11 | 1 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | -- | .143 | 323 | 74.1 | 87 | 11 | 16 | 2 | 1 | 24 | 2 | 0 | 43 | 42 | 5.09 | 1.39 | |
1996 | 横浜 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 54 | 12.2 | 15 | 5 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 11 | 11 | 7.82 | 1.50 |
通算:10年 | 180 | 116 | 21 | 3 | 1 | 39 | 49 | 2 | -- | .443 | 3239 | 755.1 | 818 | 130 | 204 | 18 | 21 | 359 | 21 | 2 | 429 | 403 | 4.80 | 1.35 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初登板:1983年4月26日、対広島東洋カープ1回戦(明治神宮野球場)、8回表に4番手として救援登板・完了、2回2失点
- 初奪三振:同上、8回表に衣笠祥雄から
- 初先発・初勝利:1983年5月19日、対阪神タイガース6回戦(明治神宮野球場)、5回無失点
- 初完投勝利:1985年8月9日、対読売ジャイアンツ18回戦(後楽園球場)、9回3失点
- 初完封勝利:1985年9月26日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場)
- 初セーブ:1986年5月21日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に3番手として救援登板・完了、2回無失点
- オールスターゲーム選出:1回 (1986年)
背番号
- 11 (1983年 - 1995年)
- 47 (1996年)
- 75 (2004年 - 2007年)
- 72 (2008年 - 2013年)
関連情報
歌
出演番組
いずれも、野球解説者としてのもの。
書籍
脚注
- ^ 1980年9月に生まれた松坂大輔も母親が荒木の大ファンで「大輔」と命名したとされる。
- ^ プロ野球”黒いドラフト”封印された真相「荒木大輔は巨人志望だったが…」
- ^ 「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『Sports Graphic Number』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、53頁。
- ^ 「幻のドラフト1位」が選んだ野球と会社人生
- ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 第8回 日高亮、“お日様”の季節 二宮清純責任編集スポーツコラムサイト
- ^ 燕・由規が右肩手術成功、日高は左肘靱帯損傷 2013年4月12日スポニチ
- ^ ヤクルト 荒木投手コーチら退団「責任を取るのが当たり前」スポーツニッポン2013年10月10日
- ^ ヤクルト、荒木コーチら退団へデイリースポーツ2013年10月9日
- ^ 契約満了のお知らせ(コーチ)ヤクルト球団公式サイト2013年10月9日配信
関連項目
外部リンク
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)