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御影町

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みかげちょう
御影町
廃止日 1950年4月1日
廃止理由 編入合併
住吉村御影町魚崎町神戸市
現在の自治体 神戸市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 兵庫県
武庫郡
面積 2.59 km2.
総人口 14,656
(『東灘区25年』、昭和25年10月1日)
隣接自治体 神戸市武庫郡住吉村
御影町役場
所在地 兵庫県武庫郡御影町御影字上中七百八番地ノ三
特記事項
御影町町章(昭和4年1月制定)。「世にあらば又帰り來む津の國の御影の松よ面かわりすな」と古歌に詠われる「御影の松」に因んで3本の松葉を組み合わせた。
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御影町(みかげちょう)は、兵庫県武庫郡に属したであり、現在の町名では御影本町御影中町御影石町御影塚町御影御影郡家御影山手にあたる区域に存在した。

1889年(明治22年)に町村制に従い、御影村、郡家村、平野村、石屋村、東明村を合わせて成立した。当時は菟原郡所属であったが、1896年(明治29年)郡制施行に伴い同郡は武庫郡に編入された。

平野村の一部であった西平野は1875年(明治8年)に六甲村高羽に合したが、1929年(昭和4年)に六甲村が神戸市に併合される時に御影町へ再統合し、当初高羽と称していたが、1934年(昭和9年)1月に西平野と改称した。

東灘区域2町3村及び精道村(現・芦屋市)の神戸市への合併計画は戦前より持ち上がっていたが、1950年、ついに神戸市に編入され、東灘区の一部となった。町有財産は御影財産区と郡家財産区の2つの財産区に引き継がれた。

御影町略図(『御影町誌』より)

行政

行政区分

御影町の大字・区・小字は1936年(昭和11年)当時、以下の通りである(字体、振り仮名の箇所および仮名遣いは『御影町誌』の原文ママ)。

大字 小字
御影 東ノ町 濱東、上東、柳、申御田(さるごでん)、但馬口
弓ノ場町 濱弓場、上弓場、十ヶ坪(じふがつぼ)、宇柳(うやなぎ)
中ノ町 濱中、上中、坂地、掛田
西ノ町 濱西、上西、一里塚、榿(はりのき)、掛田
平野 篠坪(しのつぼ)、城ノ前、岸本、榎本、瀧ヶ鼻、平野、上ノ山、池ノ上、深田、御影山、師範
石屋 石屋 八色岡(やいろをか)、御量(ごりよう)、左美也(さみや)、狹間(はざま)、工具地(くがいち)、旭ノ詰、三反田、公方公(くぼうこう)、喜寅、辰巳、磯ノ邊(いそのべ)、川西、具尻、イカヅカ
東明 東明 二番、三番、四番、五番、六番、七番、八番
郡家 郡家 宇殿(うどの)、兼安、大藏(おほくら)、地藏元、下山田、上山田、馬場添(ばヽぞひ)、千本田(せんぼんだ)、寺ノ前、堂ノ裏、堂ノ前、下リ(くだり)、庄田(しようだ)、庄ノ元、垣内(かきうち)、石野、宮ノ裏、村田、弓弦羽ノ森
西平野 西平野 一ノ坪、伊賀塚(いかづか)、平野、東松本、西松本、大原、寅新田、大佛ヶ平、天神山、後裏、大谷、宮谷山、ゲシメ、イカツカ、平野村飛地

区は町村制第六十八條により処務便宜のために設けられたもので地名の呼称に関係はないが、当時の各地区の通称であるため、今日でもだんじり祭りの区域割りにみることができる。旧大字は東明を除いた4つが存続していたが、2008年11月11日に行われた住居表示実施に伴って御影1~3丁目と御影郡家1~2丁目に再編されたため消滅した。

町役場

御影町役場は当初、初代東灘区役所と同じ場所である御影町御影字上中七百八番地ノ三(現・神戸市東灘区御影本町6丁目5番7号、浜御影保育所のある場所)、元御影尋常小学校の一角にあった。1891年(明治24年)に御影町御影字上中七百十番地(後の御影診療所)に移った。

爾来、町民人口は膨れ上がり、3倍近くなった人口に対応すべく吏員も3倍以上となり、庁舎が狭隘極まりなくなった1923年(大正12年)、改築の発議が起こった。同年3月の町会において予め積み立てた新築準備金7万円と繰越金8万円の合わせて15万円を財源に、翌1924年(大正13年)、御影公会堂で知られた清水栄二の設計で近世ドイツ風を加味した鉄筋コンクリート建築の2階建て新庁舎が最初の町役場と同じ場所に完成した。

この庁舎は神戸市への合併後も東灘区役所として用いられ、1955年(昭和30年)に住吉東町に移転するまで区政の中心であった。移転後は区役所御影出張所として機能し、出張所が廃されてからは東灘建設事務所区画整理課が使用。1972年(昭和47年)からは財団法人兵庫県予防医学協会が使用。1978年(昭和53年)に老朽化で取り壊された。

歴代町長

  • 渡邊撤[1]
  • 嘉納治郎右衛門[1]
  • 木原勇[1]
  • 木原熊吉[1]
  • 殿村善四郎[1]
  • 角谷政吉[1]
  • 瀬村喜四郎[1]
  • 水野征夫[1]
  • 谷田平治郎[1]

人口動態

年次\大字 御影 石屋 東明 郡家 高羽 合計 一戸当り
平均人口
人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数
明治22年 5,816 1,318 4.41
明治23年 5,807 1,304 4.45
明治24年 5,755 1,185 4.86
明治25年 5,596 1,203 4.65
明治26年 5,724 1,209 4.73
明治27年 5,936 1,155 5.14
明治28年 6,155 1,191 5.17
明治29年 6,373 1,184 5.38
明治30年 6,373 1,184 5.38
明治31年 6,110 1,164 5.25
明治32年 6,197 1,177 5.26
明治33年 6,309 1,180 5.35
明治34年 6,352 1,212 5.24
明治35年 6,521 1,248 5.23
明治36年 4,068 835 1,148 187 1,043 200 263 73 6,518 1,293 5.03
明治37年 4,149 852 1,180 195 1,083 208 279 77 6,691 1,331 5.02
明治38年 4,322 903 1,198 199 1,125 216 303 81 6,948 1,399 4.97
明治39年 4,378 932 1,222 204 1,176 233 400 105 7,176 1,473 4.19
明治40年 4,514 1,007 1,176 235 1,135 293 390 121 7,214 1,656 4.37
明治41年 4,513 1,051 1,182 248 1,235 279 537 136 7,467 1,714 4.36
明治42年 4,767 1,134 1,230 263 1,224 278 612 145 7,833 1,820 4.30
明治43年 5,138 1,218 1,349 291 1,213 290 676 152 8,376 1,951 4,29
明治44年 5,485 1,326 1,389 319 1,185 284 735 169 8,794 2,098 4.19
大正元年 5,870 1,431 1,490 341 1,242 394 734 177 9,326 2,243 4.16
大正2年 6,239 1,469 1,598 351 1,311 291 869 188 10,017 2,299 4.36
大正3年 6,324 1,468 1,610 342 1,315 274 919 188 10,168 2,272 4.48
大正4年 6,757 1,491 1,672 378 1,313 295 1,040 201 10,782 2,365 4.56
大正5年 7,138 1,551 1,739 395 1,401 317 1,104 203 11,382 2,466 4.62
大正6年 7,428 1,639 1,766 408 1,430 341 1,161 202 11,785 2,585 4.56
大正7年 8,043 1,716 1,947 470 1,543 379 1,142 211 12,677 2,776 4.57
大正8年 8,273 1,744 2,066 500 1,599 396 1,215 225 13,153 2,865 4.59
大正9年 8,573 1,813 2,045 532 1,505 392 1,185 233 13,308 2,970 4.48
大正10年 8,701 1,825 2,267 565 1,614 402 1,177 231 13,759 3,024 4.55
大正11年 8,901 1,868 2,424 616 1,727 437 1,227 261 14,279 3,182 4.49
大正12年 9,225 1,910 2,517 648 1,791 446 1,254 284 14,841 3,288 4.51
大正13年 9,414 2,005 2,746 679 1,817 457 1,280 289 15,311 3,430 4.46
大正14年 9,939 2,046 3,012 713 1,993 471 1,353 296 16,297 3,532 4.60
昭和元年 9,978 2,105 2,969 693 2,000 457 1,357 301 16,304 3,556 4.58
昭和2年 10,167 2,119 3,127 714 1,955 466 1,377 315 16,626 3,614 4.60
昭和3年 10,259 2,129 3,356 751 1,947 485 1,493 337 17,426 3,702 4.63
昭和4年 10,259 2,177 3,488 808 1,938 527 1,532 341 209 51 17,426 3,904 4.46
昭和5年 9,938 2,136 3,420 781 1,979 512 1,471 330 238 60 17,456 3,819 4.46
昭和6年 10,148 2,193 3,595 787 2,000 516 1,501 329 272 66 17,516 3,891 4.50
昭和7年 10,135 2,176 3,583 799 2,068 532 1,483 326 254 64 17,523 3,897 4.50
昭和8年 10,195 2,177 3,705 824 2,147 533 1,532 319 331 62 17,910 3,909 4.58

当時の様子

経済

産業

農業

農産物は、[1]。他に蔬菜があるが、自給すら尚不足する[1]。『大日本篤農家名鑑』によれば御影町の篤農家は、「殿村善四郎」のみである[2]

商工業

酒造は古き歴史を有し、両京阪神地方を主とし、又全国に販路を有するに至る[1]。商業は酒造業を中心に発達[1]。靴、足袋、外箱、下駄、酒樽、石材等を製造する[1]

企業
  • 大塚合名会社[1]
  • 嘉納合名会社[1]
  • 高島合名会社[1]
  • 嘉納商店[1]
  • 河東本家商店[1]

出身・ゆかりのある人物

政治・経済

酒醸造業の新居嘉右衛門、石田孫七郎、泉喜之介、泉仙介、嘉納治郎右衛門、河北俊治、木村喜兵衛、小網輿八郎、菅井角之助、安福武之助や樽丸販売業の中田松兵衛などは貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した[3]

奈良県人で、御影町御影字申御田に居住した[4]

学術

芸能

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』245-246頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月3日閲覧。
  2. ^ 『大日本篤農家名鑑』124頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『貴族院多額納税者名鑑』81-101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月7日閲覧。
  4. ^ a b 『人事興信録 第8版』ウ34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月21日閲覧。
  5. ^ a b c 『日本紳士録 第38版』神戸タの部105頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年8月15日閲覧。

参考文献

  • 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
  • 織田正誠編『貴族院多額納税者名鑑』太洋堂出版部、1926年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 篠田皇民著『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』東京都民新聞社地方自治調査会、1932年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
  • 編輯兼発行者 御影町長 玉木敬太郎『御影町誌』発行 御影町役場、1936年。
  • 原田 健『東灘区25年』東灘区役所、1976年。

関連項目

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