大久保清子
おおくぼ きよこ 大久保 清子 | |
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1934年 | |
本名 |
笹井 朝子 (ささい あさこ、出生名) 伊藤 朝子 (いとう あさこ) |
生年月日 | 1911年1月30日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 京都府京都市(現在の同府同市中京区) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 劇映画(時代劇・剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1933年 - 1937年 |
配偶者 | 伊藤大輔 |
著名な家族 |
笹井幸二郎 (父) 笹井武彦 (弟) 笹井三左衛門 (伯父) 笹井末三郎 (従兄) |
大久保 清子(おおくぼ きよこ、1911年1月30日 - 2000年代)は、日本の女優である[1][2][3]。出生名笹井 朝子(ささい あさこ)、結婚後の本名は伊藤 朝子(いとう あさこ)[1][2]。女優引退後は、伊藤大輔夫人として知られる[2]。
人物・来歴
1911年(明治44年)1月30日、京都府京都市上京区三条通千本(現在の同府同市中京区三条通千本)に生まれる[1][2]。父は笹井幸二郎、伯父は千本組当主の笹井三左衛門、従兄に笹井末三郎がいる[2]。旧制小学校(現在の京都市立朱雀第一小学校)、同市東山区の華頂高等女学校(現在の華頂女子高等学校)を卒業した[2]。『芸能人物事典 明治大正昭和』等には「精華高等女学校」を卒業した旨の記述があるが[1]、同校は現在の精華高等学校であり、当時は大阪市住吉区(現在の阿倍野区)晴明通に実在した学校であるが、誤りである[2]。
満22歳になった1933年(昭和8年)、従兄の末三郎に勧められて日活京都撮影所に入社、翌1934年(昭和9年)5月10日に公開された、辻吉朗監督の『修羅道春秋』に出演して、「大久保 清子」の名で映画界にデビューした[1][2][3]。同年8月末、永田雅一が独立して第一映画社を設立すると、これに参加した[1][2][3]。
1935年(昭和10年)12月末、マキノ正博が撮影所長、従兄の末三郎が理事となって設立したマキノトーキー製作所に、第二期入社として移籍した[2][3][4]。同社には、実弟の笹井武彦が経理部に所属していた[2][4]。1937年(昭和12年)4月末、同社が解散し、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、同期の水原洋一、田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子らとともに、日活京都撮影所に移籍した[4]。満26歳になる同年6月、映画監督の伊藤大輔(当時満38歳、伊藤は再婚)と結婚した[2]。
1981年(昭和56年)7月19日、夫の伊藤大輔が死去する[5]。1985年(昭和60年)、『伊藤大輔シナリオ集』全4巻を上梓、監修する[2]。1989年(平成元年)、伊藤大輔の旧蔵資料約4万点を京都府京都文化博物館に寄贈した[2]。
フィルモグラフィ
すべてクレジットは「出演」である[3]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
日活京都撮影所
すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[3][7]。
- 『新月かつら川』 : 監督清瀬英次郎、1934年4月19日公開[1] - からくりお芳[7]
- 『修羅道春秋 前篇』 : 監督辻吉朗、1934年5月10日公開 - 芸妓万雨
- 『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』 : 監督伊藤大輔、応援監督伊丹万作・尾崎純、1934年5月17日公開 - 茶屋仲居 お清
- 『すてうり勘兵衛』 : 監督清瀬英次郎、1934年6月7日公開 - 女役者中村鶴吉
- 『修羅道春秋 後篇』 : 監督辻吉朗、1934年7月26日公開[7] - 芸妓万雨
- 『旅姿桂小五郎』 : 監督久見田喬次、1934年9月1日公開[7] - 五月雨お駒(密偵)
第一映画
特筆以外すべて製作は「第一映画社」、配給は「松竹キネマ」である[3]。
- 『建設の人々』 : 監督伊藤大輔、録音マキノ正博、1934年11月29日公開 - 紅梅亭 お梅
- 『銭形平次捕物控 濡れた千両箱』 : 監督押本七之輔、録音マキノ正博、製作新興キネマ京都撮影所、配給新興キネマ、1935年2月28日公開 - 水茶屋の女お通
- 『お六櫛』 : 監督伊藤大輔、1935年5月9日公開 - 櫛屋の嫁、現存(NFC所蔵[6])
- 『恋慕草鞋』 : 監督押本七之輔、製作新興キネマ京都撮影所、配給新興キネマ、1935年5月15日公開 - お峰
- 『十六夜日記』 : 監督山内英三、製作新興キネマ京都撮影所、配給新興キネマ、1935年7月25日公開 - 町家の娘お光
- 『鞍馬天狗 江戸日記 前篇』 : 監督山本松男、録音マキノ正博、製作嵐寛寿郎プロダクション、配給新興キネマ、1935年10月3日公開 - さみだれお藤
- 『父帰る母の心』 : 監督寺門静吉、1935年10月8日公開 - 曲馬団の女、現存(NFC所蔵[6])
- 『箱根八里』 : 監督中川信夫、製作市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ、1935年12月12日公開[8](11月27日公開[9][10])
- 『文武太平記』 : 監督吉田信三、製作嵐寛寿郎プロダクション、配給新興キネマ、1935年12月14日公開 - 殿の愛妾お浦の方
- 『江戸みやげ子守唄』 : 監督伊藤大輔、録音マキノ正博、1935年12月30日公開 - 峻々軒の女房・おもと
マキノトーキー製作所
初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[3]。
- 『丹下左膳 乾雲必殺の巻 第一篇』 : 監督マキノ正博、応援監督久保為義・松田定次・広瀬五郎、配給千鳥興行、1936年3月15日公開 - 弥生
- 『丹下左膳 坤竜呪縛之巻』 : 監督マキノ正博、応援監督久保為義・松田定次・広瀬五郎、配給千鳥興行、1936年4月1日公開 - 弥生
- 『三ン下剣法』 : 監督マキノ正博・根岸東一郎・久保為義、配給千鳥興行、1936年4月22日公開
- 『浪華悲歌』 : 監督溝口健二、製作第一映画嵯峨野撮影所、配給松竹キネマ、1936年5月28日公開 - 医師夫人・横尾さだ子、現存(NFC所蔵[6])
- 『江戸の花和尚』 : 監督根岸東一郎・マキノ正博、配給千鳥興行、1936年6月13日公開
- 『修羅八荒 第一篇』 : 監督マキノ正博、応援監督中川信夫、配給千鳥興行、1936年7月1日公開 - 鏡月院
- 『修羅八荒 第二篇』 : 監督マキノ正博・久保為義、配給千鳥興行、1936年7月15日公開 - 鏡月院
- 『修羅八荒 第三篇』 : 監督マキノ正博・中川信夫、配給千鳥興行、1936年7月31日公開 - 鏡月院
- 『怪盗影法師』 : 監督マキノ正博、配給千鳥興行、1936年9月23日公開
- 『ごろんぼ街』 : 監督マキノ正博・根岸東一郎、1936年10月15日公開 - お仙
- 『忠治活殺剣』 : 監督久保為義・マキノ正博、1936年12月6日公開 - 勝造女房お富、現存(NFC所蔵[6])
- 『神州斬魔剣』 : 監督姓丸浩、1937年1月24日公開
- 『旗本八萬騎』 : 監督中川信夫、1937年1月31日公開 - 蓮月院
- 『喧嘩菩薩』 : 監督牧陶六(マキノ正博)、1937年2月28日公開
- 『花婿百万石』 : 監督マキノ正博、応援監督姓丸浩、1937年3月10日公開
ビブリオグラフィ
国立国会図書館蔵書を中心とした書誌である。クレジットはすべて「伊藤朝子」名義。
- 『伊藤大輔シナリオ集 1』、伊藤大輔、淡交社、1985年5月 ISBN 4473008975 - 編著
- 『伊藤大輔シナリオ集 2』、伊藤大輔、淡交社、1985年7月 ISBN 4473008983 - 編著
- 『伊藤大輔シナリオ集 3』、伊藤大輔、淡交社、1985年9月 ISBN 4473008991 - 編著
- 『伊藤大輔シナリオ集 4』、伊藤大輔、淡交社、1985年12月 ISBN 4473009009 - 編著
- 『伊藤大輔文庫目録』、編著・出版京都府京都文化博物館、1990年9月 - 注記(寄贈者)
脚注
- ^ a b c d e f g 大久保清子、jlogos.com, エア、2012年11月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 伊藤朝子氏談話、立命館大学、2012年11月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 大久保清子、日本映画データベース、2012年11月28日閲覧。
- ^ a b c マキノ[1977]、p.338-374.
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『伊藤大輔』 - コトバンク、2012年11月28日閲覧。
- ^ a b c d e 大久保清子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月28日閲覧。
- ^ a b c d 大久保清子、日活データベース、2012年11月28日閲覧。
- ^ 箱根八里、映連データベース、日本映画製作者連盟、2012年11月28日閲覧。
- ^ 箱根八里、日本映画データベース、2012年11月28日閲覧。
- ^ 箱根八里、日本映画情報システム、文化庁、2012年11月28日閲覧。
参考文献
- 『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅裕、平凡社、1977年 / 新装版、2002年 ISBN 4582282016
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133