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アスプロ (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
USS アスプロ
基本情報
建造所 ポーツマス海軍造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 攻撃型潜水艦 (SS) →実験型潜水艦 (AGSS)
級名 バラオ級潜水艦
艦歴
起工 1942年12月27日
進水 1943年4月7日
就役 1: 1943年7月31日
2: 1951年7月6日
3: 1957年5月5日
退役 1: 1946年1月30日
2: 1954年4月30日
3: 1962年9月1日
除籍 1962年9月1日
その後 1962年11月16日サンディエゴ沖で標的艦として海没処分
要目
水上排水量 1,526 トン
水中排水量 2,424 トン
全長 311 ft 9 in (95 m)
水線長 307 ft (93.6 m)
最大幅 27 ft 3 in (8.31 m)
吃水 16 ft 10 in (5.1 m)
主機 フェアバンクス=モース 38D-1/8型10気筒ディーゼルエンジン ×4基
電源 エリオット・モーター英語版発電機×2基
出力 水上:5,400 shp (4.0 MW)
水中:2,740 shp (2.0 MW)
最大速力 水上:20.25 ノット
水中:8.75 ノット
航続距離 11,000 海里/10ノット時
航海日数 潜航2ノット時48時間、哨戒活動75日間
潜航深度 試験時:400 ft (120 m)
乗員 士官6名、兵員60名
兵装
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アスプロ (USS Aspro, SS/AGSS-309) は、アメリカ海軍潜水艦バラオ級潜水艦の一隻。艦名はヨーロッパ本土に分布するペルカ科ジンゲル属英語版4種を中心とした淡水魚に付けられた廃止学名(属名)である。アメリカ公文書は、ローヌ川上流に生息するジンゲル属の一種ローヌ・ストレバー英語版を由来と見なしている。

ローヌ・ストレバー(無効学名Aspro asper)
コモン・ジンゲル(無効学名Aspro zingel)

艦歴

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アスプロは1942年12月27日にメイン州キタリーポーツマス海軍造船所で起工した。1943年4月7日にウィリアム・L・フレズマン夫人によって命名、進水し、7月31日に艦長ハリー・クリントン・スティーヴンソン少佐(アナポリス1931年組)の指揮下就役した。就役後、ニューハンプシャー州ポーツマスロードアイランド州ニューポートコネチカット州ニューロンドン沖で整調訓練を行う。訓練および公試が完了すると、9月17日に真珠湾へ向けて出航する。アスプロは10月18日に真珠湾に到着し、直ちに最初の哨戒準備に入った。

第1の哨戒 1943年11月 - 1944年1月

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11月24日、アスプロは最初の哨戒で東シナ海台湾近海および先島諸島方面に向かった。11月28日にミッドウェー島で燃料を補給した後、哨区に到着。

12月15日には、1隻のタンカーと2隻の貨物船、および2隻の護衛艦から成る日本船団を発見した。アスプロはタンカーに向けて魚雷を発射し、それは命中したが、大きな損傷を与えるには至らなかった、と判断された。

12月17日夜、アスプロは再び攻撃機会に恵まれた。輸送船15隻、護衛艦2隻で編成された第121船団を発見し、アスプロは22時26分に大型タンカーとそれに隣接して航行している貨物船に艦尾発射管を向け、魚雷を発射。魚雷は日鈴丸(日産汽船、5,396トン)に2本が向かってきたが回避された。護衛の駆逐艦汐風が反撃に出て、爆雷を20発投下したが、アスプロは逃げ切ることが出来た[1]。アスプロは魚雷を1本だけ残して哨区を徹した。

1944年1月1日、アスプロは39日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。後に真珠湾に回航された。アスプロは3隻25,600トンの戦果を挙げたと主張したが[2]、戦後の調査ではいずれも認定されなかった。ところで、スティーヴンソン艦長はこの哨戒中に目の病気を患ってしまい、軍務に支障が出るようになった。H・C・スティーヴンソンは帰投後に目の検査を受け、その結果、海上勤務から退くことを命じられた。スティーヴンソン艦長は、後任艦長として弟であるウィリアム・A・スティーヴンソン(アナポリス1934年組)を推薦。この要望は受理され、W・A・スティーヴンソンは1月15日付でアスプロ艦長に着任した。

第2の哨戒 1944年2月 - 3月

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2月3日、アスプロは2回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。

2月15日、アスプロは日本海軍の大型の潜水艦を発見。長い追跡の後に、22時23分に4本の魚雷を発射。魚雷は潜水艦伊43に命中し、乗組員は伊43が爆発を起こし、艦首を上げて沈没する光景を見た。2月17日には対潜攻撃を受けたが、被害はなかった。

3月4日には平安丸日本郵船、11,616トン)型と目された大型船を発見し、魚雷を発射。命中によるものと考えられた爆発はアスプロを激しく振動させた。しかし、この船を沈めることは出来なかったと判断された[3]。3月28日、アスプロは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

第3の哨戒 1944年4月 - 3月

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4月22日、アスプロは3回目の哨戒でパラオ方面に向かった。4月26日にミッドウェー島で給油した後、哨区に到着。

5月14日、アスプロは北緯08度55分 東経133度42分 / 北緯8.917度 東経133.700度 / 8.917; 133.700のパラオ北北西190キロ地点で3隻の護衛艦に囲まれた2隻の貨物船からなる輸送船団を発見。5時54分に最初の目標に向けて魚雷を発射し、魚雷は美山丸(日本郵船、4,667トン)の船尾に命中。同時に僚艦ボーフィン (USS Bowfin, SS-287) も美山丸を攻撃した。美山丸は8時47分に沈没していった[注釈 1]。アスプロはなおも船団を追跡。翌15日未明に再び攻撃を仕掛け、ジョグジャ丸(南洋海運、6,440トン)を撃沈して船団を撃滅した。その後アスプロはフリーマントルに向かった。6月16日、アスプロは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第4の哨戒 1944年7月 - 8月

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7月9日、アスプロは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。7月16日にダーウィンに寄港して給油した後、哨区に進んだ。

7月19日、アスプロはルソン島西岸で4隻の中型貨物船と5隻の護衛艦からなる輸送船団を発見し、5時45分に魚雷を発射した。やがて爆発音が聞こえ、アスプロは1隻を撃沈し1隻に損害を与えたと判断したが[4]、実際の戦果はなかった。

7月28日、アスプロは北緯17度33分 東経120度21分 / 北緯17.550度 東経120.350度 / 17.550; 120.350の地点で、一週間前にこの地に座礁した特設砲艦北京丸(大連汽船、2,288トン)を発見した。アスプロは身動きが取れない北京丸に向けて魚雷を発射し、命中。3度の爆発に続いて、中央部から炎上し右舷側に倒れ、やがて全船が火に包まれた。1週間後、同じ場所を航行したアスプロは、喫水線あたりに2つの大きな穴を開けて残骸と化した北京丸を目撃した。

その後、8月6日には2隻の貨物船を発見して10時15分に魚雷を発射[5]。翌7日には12隻の輸送船団を攻撃し、発射した魚雷は大型貨物船に命中したと判断した[6]。アスプロはこの哨戒で4隻19,500トンの戦果を挙げたと記録した[7]。しかし、彼我の記録が合致したのは北京丸撃沈だけだった。8月18日、アスプロは41日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。

第5の哨戒 1944年9月 - 10月

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9月10日、アスプロは5回目の哨戒で南シナ海に向かった。

9月30日、アスプロはルソン島北西岸で7、8隻の輸送船と4隻の護衛艦からなる輸送船団を発見。最初の雷撃で輸送船に損傷を与えたと判断した[8]。アスプロはこの船団を2日も追い続け、10月2日9時48分に再度雷撃。魚雷は安土山丸三井船舶、6,383トン)に命中し撃沈した。この後、アスプロは潜水艦ホー (USS Hoe, SS-258) 、カブリラ (USS Cabrilla, SS-288) と合流し、ウルフパックを構成した。

10月7日、アスプロはルソン海峡でタマ28船団を発見し、ホー、カブリラとともに攻撃した。アスプロは4時55分にマカッサ丸(南洋海運、4,026トン)に向けて4本の魚雷を発射し、命中させて撃沈した[9][注釈 2]。攻撃後、アスプロは哨区を後にした。10月25日、アスプロは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投した[10]

第6の哨戒 1944年11月 - 1945年2月

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11月21日、アスプロは6回目の哨戒の準備のためにサイパン島に向かったが、1週間後の11月28日に第1主発電機が、部品交換が必要なレベルの故障を起こし、アスプロは修理のために真珠湾に引き返した。1週間に及ぶ修理の後、12月13日に改めて6回目の哨戒でルソン海峡方面に向かった。アスプロは台湾西部沖の哨区で艦船攻撃と第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)による台湾攻撃の支援任務に就いた。

1945年1月3日、アスプロは北緯21度57分 東経119度44分 / 北緯21.950度 東経119.733度 / 21.950; 119.733高雄南南西90キロ地点で、ひどく破損したタンカーと思しき船舶を発見し魚雷を発射、2本が命中して船は沈んでいった。これが陸軍特殊船神州丸の最期であり、神州丸は少し前に第38任務部隊機の攻撃によって大破し炎上、放棄されていたものであった[注釈 3]。アスプロは神州丸を知床型給油艦だと判断していた[11]

1月6日にも小型貨物船2隻に対し攻撃した他、4名のパイロットを救出。アスプロは艦船攻撃と機動部隊支援の両方で成果を出した。2月2日にサイパン島に寄港[12]。2月11日、アスプロは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投。次いでカリフォルニア州ハンターズ・ポイント海軍造船所オーバーホールに入るべく回航された。オーバーホールには3ヵ月が費やされた。艦長がジェームス・H・アシュレー・ジュニア(アナポリス1934年組)に代わった。

第7の哨戒 1945年6月 - 1945年8月

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6月25日、アスプロは7回目の哨戒で日本近海に向かった。7月8日に本州南東海域の哨区に着いたアスプロは、硫黄島から日本攻撃に向かう航空機の支援に従事した。7月25日、アスプロは500トンクラスのタグボートを発見して、結果的に最後となった雷撃を行い、タグボートを撃沈したと主張したが[13]、戦後の調査では該当するものがなかった。8月3日、アスプロはB-17PB4Y-2 プライバティアの支援の下に相模湾の奥深くに進入し[14]、日本機の妨害をかわしつつ撃墜されたパイロットを救出した。8月13日、アスプロは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。2日後、アスプロはここで日本の降伏を知った。

アスプロは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。

戦後

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アスプロは9月1日にミッドウェー島を出航し、カリフォルニアに向かった。9月11日にサンフランシスコに到着し、退役作業に入る。1946年1月30日にアスプロは退役し、メア・アイランド海軍造船所で太平洋予備役艦隊入りした。その後、アスプロは1951年7月6日に再就役し、続く2年に渡って新たな母港であるサンディエゴ沖での作戦活動に従事、西海岸沿いに定期的な任務を行った。1953年11月9日に再び予備役となり、再度太平洋予備役艦隊メア・アイランドグループ入りした後、1954年4月30日に再び退役した。3年後の1957年5月5日、アスプロは三度就役する。整調を完了すると6月8日に艦隊に合流し、西海岸沿いで様々な部隊での任務を再開した。1959年にはクリフ・ロバートソン主演の映画『Battle of the Coral Sea』に登場した。映画の一部はアスプロの艦内で撮影された。その後、同年中旬には西太平洋へ展開した。1960年1月22日にサンディエゴへ帰投したアスプロはオーバーホールが行われた。7月1日、アスプロは AGSS-309 (実験潜水艦)に艦種変更される。その後西海岸沿いの任務を再開した。1962年9月1日にアスプロは三度退役し、1962年10月9日に除籍された。その後、1962年11月16日にサンディエゴ沖で標的艦として潜水艦ポモドン (USS Pomodon, SS-486) によって撃沈された。

脚注

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注釈

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  1. ^ この経緯から、美山丸撃沈はアスプロとボーフィンの共同戦果となっている。
  2. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIではホーの戦果となっている。なお、共同戦果とはなっていない。
  3. ^ この経緯から、神州丸撃沈はアスプロと第38任務部隊機の共同戦果となっている。

出典

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  1. ^ 『佐世保鎮守府戦時日誌』、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II。戦闘の経過は前者による。アメリカ側記録ではさらわく丸(三菱汽船、5,135トン)と天栄丸(日東汽船、10,241トン)に損傷を与えたことになっているが、後者は1944年2月10日に進水しており、疑問が残る。
  2. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.38
  3. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.61,70
  4. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.131,132
  5. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.135,136
  6. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.136,137
  7. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.147
  8. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.181
  9. ^ Roscoe
  10. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.172
  11. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.238
  12. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.231,232
  13. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.273,274,281
  14. ^ 「SS-309, USS ASPRO」p.268

参考文献

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  • SS-309, USS ASPRO(issuuベータ版)
  • 佐世保鎮守府司令部『自昭和十八年十二月一日 至昭和十八年十二月三十一日 佐世保鎮守府戦時日誌』(昭和18年12月1日~昭和18年12月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030350300
  • Theodore Roscoe "United States Submarine Operetions in World War II" Naval Institute press、ISBN 0-87021-731-3
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • Clay Blair,Jr. "Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan" Lippincott、1975年、ISBN 0-397-00753-1
  • 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年

関連項目

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外部リンク

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