アルベルト・シュヴァイツァー
アルベルト・シュヴァイツァー Albert Schweitzer | |
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アルベルト・シュヴァイツァー (1955) | |
生誕 |
1875年1月14日 ドイツ帝国、カイザースベルク (現在のフランス・アルザス、 オー=ラン県) |
死没 |
1965年9月4日(90歳没) ガボン・ランバレネ |
市民権 |
ドイツ (1875–1919) フランス (1919–1965) |
著名な実績 | 音楽・哲学・医学・神学 |
受賞 |
ゲーテ賞 (1928) ドイツ書籍協会平和賞 (1951) ノーベル平和賞 (1952) |
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アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer、1875年1月14日 - 1965年9月4日)は、アルザス人の医師、神学者、哲学者、オルガニスト、音楽学者、博学者。通称に「密林の聖者」がある。
名のAlbertは、フランス語では「アルベール」となる。姓のSchweitzerは、「シュヴァイツェル」「シュバイツァー」[1]とも表記される。
ジャン=ポール・サルトルは伯父シャルル(1844年 - 1935年)の孫で、いとこアン・マリ-の息子である。甥に国際通貨基金専務理事を務めたピエール=ポール・シュバイツァー、その子がルノーの前代表取締役のルイ・シュヴァイツァーである。また、弟パウル・シュヴァイツァーは指揮者シャルル・ミュンシュの姉エマと結婚した。
概要
[編集]20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている[2]。日本においては、内村鑑三などによって古くから紹介され、その生涯は児童向けの偉人伝において親しまれている。
哲学でも業績を残し、「生命への畏敬」の概念で世界平和にも貢献した。「密林の聖者」と呼ばれている。また、音楽にも精通し、バッハ研究でも有名である。「人生の惨めさから逃れる方法は二つある。音楽と猫だ」という言葉を残している[3]。生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。
生命への畏敬とは、シュヴァイツァーの思想と実践の根底にある考え方である。人間をはじめとして生命をもつあらゆる存在を敬い、大切にすることを意味する。彼は生命あるものすべてには、生きようとする意志が見出されるとする。この生きようとする意志は、自己を完全に実現しようとする意志である。シュヴァイツァーはこの事実から出発して、すべての人が自己の生きようとする意志を大切にすると同時に、自分と生きようとしている他の生命をも尊重しなければならないと考えた。それは自己と他者、および生命あるものとの共存をめざす考え方であり、アフリカでの医療活動はまさにその実践であった[4]。
生涯
[編集]シュヴァイツァーは1875年に、当時ドイツ帝国領だったオーバーエルザスのカイザースベルク(Kaisersberg,「皇帝の山」の意。現在のフランス領アルザス・オー=ラン県のケゼルスベール)で牧師の子として生まれる。アルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)地方は独仏の領有争いが行われた紛争地であり、地名の変遷にもそれが表れている。父はルートヴィヒ、母はアデーレ。生後1カ月で家族は南東約60キロほどにあるミュンスタータールに移住した。
当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類であった。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をしてシュヴァイツァーが相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」と叫んだ。これを聞いたシュヴァイツァーは心に激しい衝撃を受け、「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」と人間の社会を支配する不条理な貧富の差を初めて認識し、子供心に本気で苦悩したという。この時にシュヴァイツァーが抱いた苦悩こそ、その後の彼の一生を決定付ける重要な出来事であった。
7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。リセ(Lycée)(正確にはジムナーズ=ギムナジウム(Gymnase))を卒業後、名門ストラスブール大学に入学し、神学博士・哲学博士を取得する。哲学の学位論文は『カントの宗教哲学』、神学の学位論文は『19世紀の科学的研究および歴史記録による聖餐問題』であった。
21歳の時、「30歳までは学問と芸術を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意して[5]、27歳でストラスブール大学神学科講師となった後、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に学ぶ。これは、キリストが30歳から布教活動を始めたという故事に倣ったものであった。神学科の講師でありながら医学部の学生となるのは、特例として認められたものである。
38歳の時に医学博士の学位を取得した。医学の博士論文は「イエス・キリストの精神錯乱」であった[6]。当時、医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって中断され、ガボンがフランス領であったためにドイツ国籍であったシュヴァイツァーは捕虜となり、ヨーロッパへ帰還させられる。
保釈後、ヨーロッパ各地で講演し、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともに、シュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動の行き来を繰り返す。その献身的な医療奉仕活動が評価され、1952年度のノーベル平和賞を受賞する。
1957年後より核への反対を公言するようになる。バートランド・ラッセル、パブロ・カザルス、ノーマン・カズンズらと親しくなり、核反対運動にも参加する。1962年には、アメリカ合衆国大統領であったジョン・F・ケネディに手紙を出し、その中で、「子どもたちへの放射線の遺伝的影響という問題に関心をもってほしい」と依願している。
晩年もランバレネにおける医療活動を継続。1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。
好物は風月堂のゴーフルであり、ランバレネを訪れる日本人はゴーフルを持参するのが通例だった。
思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも日本語訳あり)がある。神学者としての著作の『イエス伝』は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価が高い。
他にゲーテやインド哲学などにも言及しており、日本でも白水社より全集が刊行されている。なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。
音楽
[編集]シュヴァイツァーは、音楽の世界でも価値ある業績を残した。彼はオイゲン・ミュンヒ(指揮者シャルル・ミュンシュの叔父である)と、シャルル・マリー・ヴィドールにオルガンを学び、J.S.バッハに深い傾倒を示した。
その著作『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』(1904年フランス語による初版、1908年ドイツ語による増補版、邦訳あり)は、厳密な歴史研究の点では、既に過去の文献となっている。しかし、随所に彼のバッハへの深い理解と鋭い直感がみられ、魅力的な作曲家像を描くことに成功しており、いまなお一読の価値を失っていない。
また、その序文でヴィドールが述べているように、実践的な音楽家としての視点が反映されているのが大きな特色で、当時一般的だったロマン的な誇張の多いバッハ演奏に異議を唱え、歴史的な根拠を元にした演奏法の研究による解釈の重要性を説いている。これは20世紀の演奏史上画期的な視点であり、今日のいわゆる「オーセンティックな演奏様式」のさきがけとなったものであった。
オルガン奏者としては、若き日にはパリのバッハ協会のオルガニストをつとめたほどの腕を持っており、第二次世界大戦後の晩年にいたるまで公開演奏を行っていた。1935年以降に行った録音も残されているが、解釈の深さに比して技巧的な弱さがみられ、必ずしもその技量を十全に伝えるものにはなっていないといわれている。
評価
[編集]フランスの実存主義の哲学者サルトルの親戚(サルトルの母といとこ同士)でもあるシュヴァイツアーは、哲学的な思想でも知られている。彼はヨーロッパの古き良き人文主義の伝統を引き継ぎながら、20世紀の人類社会が直面する問題を解決するための思想を編み出した。
シュヴァイツアーは、人生世界肯定的でなおかつ倫理的な思想が必要だと考えた。つまりそれは単なる皮相な楽観主義に陥らずなおかつ世界を改良するための思想である。その結果彼が編み出した概念が「生命への畏敬」である。すべての人間はその中に生命の意志をもっているのであり、自分の内外にあるそれを尊重する思想、それが「生命への畏敬」に他ならない。
ウィンストン・チャーチルはシュヴァイツァーを「人間性の天才」と評し、アルベルト・アインシュタインは「この数世紀間最大の人物」と呼んでいた[7]。
その一方で、一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュヴァイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫が伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではないとする見解もある。これに対し、現地で8年間、シュヴァイツァーとともに働いた高橋功医師は「旧式で汚く医術も近代性に欠けるという批判は現実とは全く異なっていた」と述べている[8][9][10]。
また、自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたという批判もあり、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため[11]、ヨーロッパの列強の帝国主義・植民地支配のシンボルと見なしている者もいる。他方、シュヴァイツァーは「われわれがアフリカの黒人に示す善行は白人が植民地主義によって黒人にもたらした悪のつぐないである」と述べている[12]。
真言宗の僧侶、古川泰龍はシュヴァイツァーの遺髪を預かり「生命山シュバイツァー寺」を開いている[13]。
書籍
[編集]著書
[編集]- 『水と原始林のあいだに / 生い立ちの記 / むかしのコルマルの思い出』(浅井真男, 国松孝二訳、白水社、シュヴァイツァー著作集1) 1956
- 『わが生活と思想より』(竹山道雄訳、白水社、シュヴァイツァー著作集2) 1956
- 『ランバレネ通信(1)』(野村実訳、白水社、シュヴァイツァー著作集3) 1957
- 『ランバレネ通信(2) / 植民地アフリカにおけるわたしたちの仕事』(野村実訳、白水社、シュヴァイツァー著作集4) 1957
- 『ペリカンの生活と意見 / 原始林の病院 / アフリカ物語 / イエス / 精神医学的考察』(国松孝二訳、白水社、シュヴァイツァー著作集5) 1957
- 『ゲーテ / 人間の思想の発展と倫理の問題 / 現代における平和の問題 / 文化の頽廃と再建 / 水と原始林のあいだのインタヴュー』(手塚富雄, 国松孝二訳、白水社、シュヴァイツァー著作集6) 1957
- 『文化と倫理:文化哲学第二部』(氷上英廣訳、白水社、シュヴァイツァー著作集7) 1957
- 『キリスト教と世界の宗教 / 現代文明における宗教 / イエス小伝 / 終末論の変遷における神の国の理念』(大島康正, 岸田晩節訳、白水社、シュヴァイツァー著作集8) 1957
- 『インド思想家の世界観:神秘主義と倫理』(中村元, 玉城康四郎訳、白水社、シュヴァイツァー著作集9) 1957
- 『使徒パウロの神秘主義』上・下(武藤一雄, 岸田晩節訳、白水社、シュヴァイツァー著作集10 - 11) 1957
- 『バッハ』上・中・下(浅井真男, 内垣啓一, 杉山好訳、白水社、シュヴァイツァー著作集12 - 14) 1957
- 『カントの宗教哲学』上・下(斎藤義一, 上田閑照訳、白水社、シュヴァイツァー著作集15 - 16) 1959
- 『イエス伝研究史』上・中・下(遠藤彰, 森田雄三郎訳、白水社、シュヴァイツァー著作集17 - 19) 1960
- 『わが生活と思想より - アルベルト・シュヴァイツァー自叙伝』(シュヴァイツァー、竹山道雄訳、白水社) 1953
- 『イエスの生涯 - メシアと受難の秘密』(シュヴァイツェル、波木居斉二訳、岩波書店) 1957
- 『バッハ(白水社創業80周年記念復刊版)』上・中・下(シュヴァイツァー、浅井真男, 杉山好・内垣 啓一訳、白水社) 1995
- 『イエスの精神医学的考察 - 正しい理解のために』(シュヴァイツァー、秋元波留夫訳、「新樹会」創造出版) 2001
- 『イエス伝研究史』(シュヴァイツァー、遠藤彰, 森田雄三郎訳、白水社) 2002
- 『カントの宗教哲学(新装復刊版)』上・下 (斎藤義一, 上田閑照訳、白水社) 2004
- 『バッハ(新装復刊版)』上・中・下 (シュヴァイツァー、浅井真男訳、白水社) 2009
- 『わが生活と思想より』(シュヴァイツァー、竹山道雄訳、白水社、白水Uブックス) 2011
伝記
[編集]- 『シュヴァイツァーのことば』(浅井真男著、白水社) 1965
- 『シュバイツァー』(山室静作、講談社、火の鳥伝記文庫) 1981
- 『シュヴァイツァー その生涯と思想』(笠井恵二著、新教出版社) 1989
- 『シュバイツァー - 医療と伝道に一生をささげた聖者』(川崎堅二, 栗原清作、集英社、学習漫画 世界の伝記) 1990
- 『シュヴァイツァー - 音楽家・著作家の実績をなげうって、アフリカの医者として献身した人』(ジェームズ・ベントリー著、菊島伊久栄訳、偕成社) 1992
- 『シュバイツァー』(杉山勝栄著、ポプラ社、ポプラ社文庫 伝記文庫) 1994
- 『素顔のシュヴァイツァー - ノーベル平和賞の舞台裏』(海老沢功著、近代文芸社) 2000
- 『シュバイツァー』(小牧治, 泉谷周三郎共著、清水書院、センチュリーブックス 人と思想31) 2000
- 『シュバイツァーの倫理思想 - 哲学・宗教・実践をつなぐ「生への畏敬」の倫理』(岩井謙太郎著、三恵社) 2018
その他
[編集]出典
[編集]- ^ 「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)日外アソシエーツ
- ^ 『秘境国 まだ見たことのない絶景』パイインターナショナル、2011年、15頁。ISBN 978-4-7562-4124-5。
- ^ There are two means of refuge from the miseries of life: music and cats. - brainyquote.com
- ^ 清水書院『用語集 倫理 最新第2版』202頁「生命への畏敬」
- ^ 寺村輝夫『アフリカのシュヴァイツァー』童心社、1978年、62頁。ISBN 4494018066。
- ^ 寺村輝夫『アフリカのシュヴァイツァー』童心社、1978年、61頁。ISBN 4494018066。
- ^ 看護学雑誌 29巻11号 特別寄稿 シュワイツァーの面影pp.14-16(文・高橋功、1965年11月発行)
- ^ 高橋功『アルベルト・シュワイツァー』玉川大学出版、1963(初版)、1969(増補改訂版)、196-197頁。
- ^ 金子昭. “『シュヴァイツァーのアフリカ医療伝道再考』”. 宗教倫理学会. p. 14. 2024年9月16日閲覧。
- ^ 川上与志夫. “『旧式医療と白人患者だけへの往診』”. 宗教新聞. シュバイツァーの気づきと実践. 2024年9月16日閲覧。
- ^ 寺村輝夫『アフリカのシュヴァイツァー』童心社、1978年、76-77頁。ISBN 4494018066。
- ^ 『シュバイツァー』清水書院、2023-02-15(新装版第2刷)、151頁。
- ^ 生命山シュバイツァー寺 facebook
外部リンク
[編集]- Obituary, NY Times, September 6, 1965 Albert Schweitzer, 90, Dies at His Hospital
- Albert Schweitzer: a Biography by James Brabazon - the definitive biography
- Albert Schweitzer - information on Albert Schweitzer's life and thought
- Encyclopaedia Britannica, Albert Schweitzer
- [1] - the Schweitzer Institute
- Friends of Albert Schweitzer (UK) - a charity promoting Reverence for Life
- The Albert Schweitzer Page
- Albert Schweitzer Fellowship
- Readings on Reverence for Life
- Biography information on the 1952 Nobel Peace Prize Laureate
- Page at the Nobel e-Museum
- Schweitzer Nobel Presentation Speech by Gunnar Jahn
- Schweitzerforlaget (Norwegian text only)
- Phelps, Lawrence. A Short History of the Organ Revival (describes Schweitzer's work to reform organ building)
- Paul and His Interpreters at The DCL.
- 海外取材番組 アフリカ大陸を行く シュバイツァー博士をたずねて - NHK放送史
- 19世紀ドイツの神学者
- 20世紀ドイツの神学者
- 19世紀ドイツの哲学者
- 20世紀ドイツの哲学者
- 19世紀ドイツの医師
- 20世紀ドイツの医師
- 19世紀フランスの哲学者
- 20世紀フランスの哲学者
- 19世紀フランスの医師
- 20世紀フランスの医師
- 19世紀フランスの神学者
- 20世紀フランスの神学者
- ルター派の神学者
- 環境倫理学者
- 環境哲学者
- ドイツの音楽史家
- 菜食主義者
- キリスト教平和主義者
- フランスの音楽史家
- ノーベル平和賞受賞者
- ドイツ書籍協会平和賞受賞者
- メリット勲章
- レジオンドヌール勲章グラントフィシエ受章者
- レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者
- プール・ル・メリット勲章平和章受章者
- イギリス学士院客員フェロー
- アメリカ芸術科学アカデミー会員
- アメリカ芸術文学アカデミー会員
- プロイセン科学アカデミー会員
- フランスのオルガニスト
- ドイツ系フランス人
- アルザス・ドイツ人
- テュービンゲン大学出身の人物
- ストラスブール大学出身の人物
- ドイツ帝国領エルザス=ロートリンゲン出身の人物
- 1875年生
- 1965年没