アンリ1世 (ブルゴーニュ公)
アンリ1世 Henri Ier | |
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ブルゴーニュ公 | |
在位 | 965年 - 1002年 |
出生 |
946年 |
死去 |
1002年 |
配偶者 | ジェルベルジュ・ド・マコン |
ガルサンド・ド・ガスコーニュ | |
マティルド(マオー)・ド・シャロン | |
子女 | アランブルジュ |
家名 | ロベール家 |
父親 | パリ伯ユーグ大公 |
母親 | ハトヴィヒ・フォン・ザクセン |
ブルゴーニュ公アンリ1世(Henri Ier, 946年 - 1002年)は、ヌヴェール伯およびブルゴーニュ公(在位:965年 - 1002年)。大公(le Grand,ル・グラン)とも称される[1]。出生時の名前は「ウード」であり、ブルゴーニュ公に選ばれて以降「アンリ」の名を用いたことから、ウード=アンリ(Eudes-Henri)の名でも知られる。
生涯
[編集]アンリはパリ伯ユーグ大公と東フランク王ハインリヒ1世の娘ハトヴィヒとの間の末息子として生まれ、フランス王ユーグ・カペーの弟にあたる[2]。ウードの名で幼少時に教会に入り、ブルゴーニュ公であった兄オトンが965年2月22日に死去した時には聖職者となっていた[3]。ウードはブルゴーニュの伯から兄オトンの後継者として選ばれ、「アンリ」の名が与えられた。しかし、アンリ自身が領したのは3つの伯領に過ぎず、921年に死去したブルゴーニュ公リシャールの領地を中心とした残りの6つの伯領は、アンリの家臣が領有していた[4]。
972年、アンリはイタリア王アダルベルト2世の寡婦ジェルベルジュ・ド・マコンと結婚した[2]。ジェルベルジュには前夫アダルベルト2世の間にオット=ギヨームという息子がいた。アンリは2番目にガスコーニュ公ギヨーム2世の娘ガルサンドと結婚、さらに3度目にシャロン伯ランベールの娘マティルド(マオー)と結婚した[5]。しかし、アンリはいずれの妃との間にも男子は得られず[2]、初婚の妃ジェルベルジュの継子でイタリア王子のオット=ギヨームが後継者となった[6]。このため、オット=ギヨームの支持者とフランス王ロベール2世の支持者の間で継承争いが起こり、最終的にロベール2世側が勝利した[7]。
子女
[編集]3番目の妃シャロン伯ランベールの娘マティルド(マオー)・ド・シャロンとの間に一女がいる[2]。
- アランブルジュ(999年 - ?) - ダルマス1世・ド・スミュール(Dalmace I de Semur)と結婚[2]
マティルドはアンリ1世との死別後、スミュール卿ジョフロワ1世と再婚した。娘アランブルジュの夫ダルマス1世・ド・スミュールはジョフロワ1世と初婚の妻の息子である[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band II (Marburg, Germany: Verlag von J. A. Stargardt, 1984)
- Jim Bradbury, The Capetians: Kings of France, 987-1328 (London, New York: Hambledon Continuum, 2007)
- Constance Brittain Bouchard, Sword, Miter, and Cloister: Nobility and the Church in Burgundy, 980-1198 (New York: Cornell University Press, 1987)
- Detlev Schwennicke, European Stammtafeln, Neue Folge, Band III.3 (1985)
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