アーサー・ディオシー
アーサー・ディオシー(Arthur Diósy[注釈 1]、1856年6月6日 - 1923年1月2日)は、イギリスの講演活動家、著述家。
ロンドン日本協会設立者であり、理事長、副会長を務めた。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1856年6月6日、ロンドンのパディントンで生まれた[1]。父のマーティン (hu:Diósy Márton) はハンガリーの独立運動家コシュート・ラヨシュの秘書を務めた人物で、ハンガリー革命(1848年 - 1849年)の敗北後に死刑宣告を受けてイギリスに亡命し[1]、商業を営みながら亡命ハンガリー人による政治運動に関わり続けた[2]。母レオニーはフランス出身で、アルザスの将校とスペイン人の血を引くという[3]。
幼少時に病弱であったディオシーは、主として家庭で父から教育を受けた[2]。幼少の時から外国語に親しむ環境にあり[2]、長じて英語・ハンガリー語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・日本語に堪能、オランダ語・ポルトガル語も理解可能という言語通になる[4]。
日本への関心は、10歳のころに読んだ中国に関するフランス語の本の中に登場する日本に興味を持ったことにはじまるという[2]。日本に関する本を読むためにオランダ語やポルトガル語を学び、漢仏英対照辞典を自ら編纂、また初歩の口語日本語文法書を手に入れて独習した[2]。1867年ごろには日本人との最初の出会いを得た[2]。劇場で外山正一、林董、菊池大麓ら8人の日本人留学生(幕府派遣留学生の一部)と偶然に出会ったもので、かれら(特に1歳違いの菊池)と言葉を交わした(会話は英語で行ったようである)[2]。
1868年、ロンドン・インターナショナル・カレッジ (London International College) に入学[2]。この学校は各国の学生が集まって学ぶ[2]、国際教育 (International education) の初期の試みを行った学校である。1871年、ドイツに留学し、リップシュタットとデュッセルドルフで高校に通った[2]。帰国後は海軍砲兵隊に志願し、1875年から1882年まで訓練を受けた[2]。
学校を終えるころ、高額のため手に入れられなかったヘボンの辞典を、食費を削るなどの倹約を積み重ねて購入[1]。また1873年にロンドンで出版された馬場辰猪の『日本語文典』を手に入れて独習した[5]。1876年、ディオシーは劇場で偶然隣に座った日本人に生まれて初めて日本語で話しかけたが、その相手が馬場であったというエピソードがある[5]。
活動
[編集]1877年、ロンドンにいる各国留学生の交流を目的に「ジュニア・コスモポリタン・クラブ」を結成[5]。長くは続かなかった会ではあるが[5]、日本人・ハンガリー人・イギリス人を中心とする約70名の会員を擁した[5]。日本人メンバーには、井上勝之助や長岡護美、大越成徳、中上川彦次郎らがいた[5]。
1882年、フロレンス・ヒルと結婚[2]。
1891年9月9日、ロンドンで開催された「国際東洋学者会議」日本分科会においてディオシーは、日本研究促進のための協会設立を提案し、満場一致で可決された[2]。こうして発足したのがロンドン日本協会であり、ディオシーは協会設立以来名誉幹事などとして会務に携わる[5]。1894年には青木周蔵駐英公使の申請により、日本から勲三等旭日章が授与された[5]。日清戦争を受け、イギリスで日本への関心が高まると、ディオシーは各地で日本に関する講演を行った[5]。1898年には『新しい極東 (New Far East)』を出版、好評を博して版を重ねた[6][注釈 2]。
また、ディオシーはドイツ帝国の元外交官であるマックス・フォン・ブラントがヴィルヘルム2世に教唆した黄禍論に対して、三国干渉への正当化のための思想であることを指摘し、黄禍論の寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ』の詳細な解釈も行った[8]。ディオシーは"New Far East"で軍事的な黄禍論に異を唱え、真の黄禍は安価で勤勉な中国人の労働力であることを指摘し、日本や清との友好を主張したが、ディオシーの思惑とは反対に、東洋からの経済的脅威として認識され、黄禍論への裏付けへと代用されてしまった[9]。
1899年、ディオシーは夫人とともに初めて日本を訪問した[6]。2月にロンドンを発ち、アメリカを経由して4月9日に横浜に到着[6]、東京に入ると連日のように日本の各界要人の招待を受けた[7]。4月20日からは名古屋、京都、奈良、大阪、神戸、宮島、江田島と各地を周遊、5月12日に東京に戻った[7]。5月13日には新宿御苑でディオシーを迎えての園遊会が開かれ、ロンドン日本協会の日本人会員や英国滞在経験者[注釈 3]、アーネスト・サトウ公使をはじめとする在日イギリス人の約180名が出席した[10]。その後、東京や横浜での講演を行い、日光での避暑(イギリス出身である三宮義胤男爵夫人の招待による)を楽しんだ[11]。日本の新聞は、流暢な日本語を話し、都都逸までひねる親日家のイギリス人を、おおむね驚きと好意を以て報じた[12]。しかし7月28日、友人の一人と吉原遊廓を視察に訪れたことを、女郎買いの「醜行」と誤報される騒動もあった[11][注釈 4]。8月5日、明治天皇に拝謁(暑中の謁見は異例という)、日本協会設立以来の尽力にねぎらいの言葉を受けた[13]。8月8日、夫妻は帰国の途に就いた[13]。
1901年、ロンドン日本協会理事長 (chairman) に就任、1904年まで務めた[5]。かねて支持していた日英同盟が1902年に結ばれると、大いに歓迎した[13]。理事長退任後は、副会長を務め(会長職には駐英日本公使が就く[5])、日英友好のための活動を続けた[13]。
第一次世界大戦がはじまると、兵士募集のための講演や、戦地での兵士のための講演に奔走した[14]。
1921年5月、日本の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の訪英に際して日本協会は盛大な歓迎パーティを行い、ディオシーも列席した[15]。ディオシーは皇太子の謁見を受け、金時計を賜っている[15]。1923年1月2日、滞在先のニースで没した[15]。
人物
[編集]- ロンドン日本協会のほか、パリ民族誌学会、パリ日仏協会 (Société franco-japonaise de Paris)[16]、中国協会、王立地理学協会にも所属した[4]。
- 交友範囲は広く、多くの人々を歓迎した。
- 一方で、ディオシーには派手に自己宣伝をする性格があった[13]。日本協会の設立や日英同盟の締結を、あたかも自分ひとりの功績であるかのように吹聴する言動もあったため、ディオシーが理事長を務めていた当時の日本協会内で批判が寄せられ、一時は理事長退任後に協会から手を引くことを声明する事態にも発展した[13]。
- 1899年の日本訪問時には各界に競って招待され、日本の新聞・雑誌各紙が大きく取り上げた[4]。しかし、その後日本での報道は、訪英した日本の要人が日本協会で歓迎を受けた際に名前が出る程度となり[4]、存命中から次第に忘れられた人物になった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ Ó のアクセント符号を略し、Arthur Diosyとも綴られる。
- ^ 日本語題は『新極東』ともされる。この書籍は、同時代の日本では「最も公平」に日本を描き「我が国体の国粋国華を発揮」して「従来外国人の誤解謬見を指摘」した(『読売新聞』1899年4月14日付)と絶賛された[7]。イギリスでは日本に対する追従が目立つとする意見もあった[6]。
- ^ なお、かれらのグループはのちに日英協会を組織する。
- ^ 誤報を行った『毎日新聞』(現在の毎日新聞とは無関係)は、廃娼運動に取り組む木下尚江を副編集長に擁していた。これに対して『時事新報』がディオシーの弁明を載せるとともに現地取材を行い、同日に吉原を訪れ一晩を過ごした2名のアメリカ人と混同されたと検証した[11]。
出典
[編集]- ^ a b c 長岡、p.2
- ^ a b c d e f g h i j k l m 長岡、p.3
- ^ 長岡、pp.2-3
- ^ a b c d 長岡、p.1
- ^ a b c d e f g h i j k 長岡、p.4
- ^ a b c d 長岡、p.5
- ^ a b c 長岡、p.6
- ^ 飯倉章「世紀の終りと「黄禍」の誕生 : カイザーとその寓意画,および三国干渉」『国際文化研究所紀要』第3号、城西大学国際文化研究所、1997年7月、1-23頁、doi:10.20566/13412663_3_1、ISSN 1341-2663、NAID 110004871943、2021年5月1日閲覧。
- ^ 橋本順光『英国における黄禍論と小説』Edition Synapse、2012年、10-11頁。ISBN 9784861660337。 NCID BB09531109 。2021年5月1日閲覧。
- ^ 長岡、pp.6-7
- ^ a b c 長岡、p.7
- ^ 長岡、pp.5-6
- ^ a b c d e f g 長岡、p.8
- ^ 長岡、pp.8-9
- ^ a b c 長岡、p.9
- ^ 市川義則「明治期後半における日仏関係―パリ日仏協会を中心として―」(PDF)『アルザス日欧知的交流事業 日本研究セミナー「明治」報告書』、2016年3月3日閲覧。
- ^ a b 新井清司「ロンドンでコナン・ドイルと出会った日本人」『波』2011年12月、2016年3月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 長岡祥三「日本協会の創立者アーサー・ディオシー」『英学史研究』第29号、1996年、1-12頁、doi:10.5024/jeigakushi.1997.1、2016年3月3日閲覧。