イエン・チリト
イエン・チリト អៀង ធីរិទ្ធ Ieng Thirith | |
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イエン・チリト(2011年) | |
生年月日 | 1932年3月10日 |
出生地 |
フランス領インドシナ カンボジア王国、バタンバン州 |
没年月日 | 2015年8月22日(83歳没) |
死没地 | カンボジア、パイリン州 |
所属政党 |
カンプチア共産党 (クメール・ルージュ) |
配偶者 | イエン・サリ |
親族 | キュー・ポナリー(姉) |
内閣 | キュー・サムファン内閣 |
在任期間 | 1979年12月 - 1982年6月22日 |
国家幹部会議長 | キュー・サムファン |
内閣 | ポル・ポト内閣 |
在任期間 | 1976年4月 - 1979年12月 |
国家幹部会議長 | キュー・サムファン |
内閣 | ペン・ヌート内閣 |
在任期間 | 1973年12月3日 - 1976年4月 |
国家元首 | ノロドム・シハヌーク |
イエン・チリト(クメール語: អៀង ធីរិទ្ធ / Ieng Thirith, 1932年3月10日 - 2015年8月22日)は、カンボジアの政治家。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。
クメール・ルージュの指導者の一員であると同時に、イエン・サリの妻。イエン・シリト、イエン・ティリトとも。
経歴
[編集]イエン・チリトは1932年、フランスの保護国のカンボジアのバタンバン州に、裁判官の娘として生まれた[1]。姉には、後にポル・ポトの最初の妻となるキュー・ポナリーがいる。イエン家は王族とも親しい上流中の上流階級であった[2]。
他のクメール・ルージュの指導者の多くと同じく高学歴で、当時のカンボジアの最高学府であるリセ・シソワットを卒業し[3]、奨学金でパリに留学してシェークスピアを研究した[4]。夫イエン・サリとは国内の学生時代に婚約し、1951年夏にパリ15区役所で結婚している[5]。
帰国後は、自らカンボジア初の英語教育校であるクメール英国高校を設立し、校長として教師生活を送った[6]。しかし、1963年2月の暴動を機に左翼への弾圧が強化されると、夫イエン・サリは地下に潜り、1965年にはチリトも後を追った[7]。
右派ロン・ノル政権との内戦中、1973年12月3日にカンプチア王国民族連合政府人民教育・青年相に任命される[8]。
1976年4月14日に民主カンプチア政権が樹立されると、ポル・ポト内閣の社会問題相に就任し[9]、政権運営に深く関与した。このため、当政権による大量虐殺に責任を負うことになる。
2007年11月12日、夫と共にプノンペン南部の自宅で逮捕され、カンボジア特別法廷において刑事責任が問われることとなった[10]。しかし2012年9月13日、認知症のために「訴訟能力がない」として、訴追せず身柄を釈放された[11]。
2015年8月22日、カンボジア西部のパイリンで死去[12]。83歳没。
脚注
[編集]- ^ 山田(2004年)、17ページ。
- ^ 姉妹の父は、シハヌーク国王の祖父母の家族と親しく、のちに王女の一人と出奔した。山田(2004年)、17ページ。
- ^ 山田(2004年)、18-19ページ。
- ^ 山田(2004年)、91-92ページ。
- ^ チャンドラー(1994年)、62-63ページ。
- ^ 山田(2004年)、26ページ、201ページ。
- ^ 山田(2004年)、30ページ、200ページ。
- ^ “1973年 インドシナ 重要日誌”. アジア動向データベース. ジェトロ・アジア経済研究所. 2013年8月9日閲覧。
- ^ 山田(2004年)、98ページ。
- ^ “ポト派元最高幹部起訴 カンボジア特別法廷,大量虐殺などで4人”. 東京新聞 TOKYO Web (中日新聞社). (2010年9月17日) 2010年9月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “イエン・チリト被告釈放へ カンボジア特別法廷”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2012年9月13日). オリジナルの2012年9月14日時点におけるアーカイブ。
- ^ イエン・チリト氏死去=ポト派元最高幹部-カンボジア 時事ドットコム 2015年8月22日
参考文献
[編集]- デービッド・P・チャンドラー 『ポル・ポト伝』 めこん、1994年。ISBN 9784839600884。
- 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社新書メチエ>、2004年。ISBN 9784062583053。