イレグ・サカル
イレグ・サカル(モンゴル語: Ilegü saqal、? - 1295年)は、西夏国出身のタングート人で、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』などの漢文史料では亦力撒合(yìlì sāhé)と記され、「多髭」を意味するIlegü saqalの転写ではないかと見られる[1]。弟は立智理威。
概要
[編集]イレグ・サカルは「チンギス・カンの親衛千人隊長」として著名なチャガンの「従孫」で、祖父の曲也怯律はチャガタイ家に仕えてジャルグチとなった人物であった。父の阿波古はチャガタイ家のアルグに仕えて中央アジアにいたが、イレグ・サカルは1273年(至元10年)にクビライに仕える親衛隊(ケシクテイ)のスクルチ(衣服を掌る官)に選ばれ、東方に移住した[2]。
クビライに仕えた後は使者として河西のジビク・テムルの下を訪れたことや、河東提刑按察使として平陽路ダルガチタイ・ブカを逐ったことなどが知られている。以上の功績により黄金100両・銀500両を与えられ、またクビライより直々に宝刀を下賜されている。その後、南台中丞となるとアフマド・ファナーカティーの息子で江浙行省平章政事の忽辛を弾劾している[3]。
1284年(至元21年)には北京宣慰使に転任となったが、そこでオッチギン王家のナヤンが叛乱を企んでいることを最も早く偵知し、密かにこれに備えるよう報告している[4]。1286年(至元23年)には北京宣慰使が遼陽行省に改められてイレグ・サカルも参知政事に任じられたが、この年に遂にナヤンは叛旗を翻した(ナヤンの乱)。ナヤンの乱平定戦においてイレグ・サカルは兵站を担当したが、軍糧を欠乏させることはなく、戦後功績により左丞に昇進となった。1290年(至元27年)には諸王ジャンギの娘を娶って四川行省の左丞に転任となった。1295年(元貞元年)にはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が新たに即位したことで入朝したが、間もなく亡くなった[5]。
タングート部チャガン家
[編集]脚注
[編集]- ^ 堀江1990,81頁
- ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「亦力撒合、祖曲也怯律。太祖時、得召見、属皇子察合台、為札魯火赤。父阿波古、事諸王阿魯忽、居西域。至元十年、択貴族子備宿衛、召亦力撒合至闕下、以為速古児赤、掌服御事、甚見親幸、有大政時以訪之、称之曰秀才而不名」
- ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「嘗奉使河西還、奏諸王只必帖木児用官太濫、帝嘉之。擢河東提刑按察使、逐平陽路達魯花赤泰不花。召還、賜黄金百両・銀五百両、以旌其直。進南台中丞。帝出内中宝刀賜之曰『以鎮外台』。時丞相阿合馬之子忽辛為江浙行省平章政事、恃勢貪穢、亦力撒合発其姦、得贓鈔八十一万錠、奏而誅之。並劾江淮釈教総摂楊輦真加諸不法事、諸道竦動」
- ^ 堀江1990,76-77頁
- ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「[至元]二十一年、改北京宣慰使。諸王乃顔鎮遼東、亦力撒合察其有異志、必反、密請備之。二十三年、罷宣慰司、立遼陽行省、以亦力撒合為参知政事。已而乃顔果反、帝自将征之。時諸軍皆会、亦力撒合掌運糧儲、軍供無乏。東方平、帝嘉其先見、且餉運有労、加左丞。二十七年、命尚諸王算吉女、親為資装以送之、並贈玉帯一。改四川行省左丞。二十九年、再賜玉帯一。元貞元年、成宗即位、入朝、卒。弟立智理威」