韓嘉訥

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韓嘉訥(カンギャヌ、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人の一人。韓嘉納韓家奴とも。

概要[編集]

韓嘉訥は「チンギス・カン親衛千人隊長」として著名なチャガンの「従孫」の立智理威の次男であった[1]

後至元6年(1340年)、それまで宮中を牛耳っていたバヤンが失脚し服毒自殺すると、バヤン失脚を主導したトクトを中心とする新政権の幹部として抜擢された[2]

元代末期、ベルケ・ブカ、タイピン、韓嘉訥、トゥメンデルら10人は兄弟の契りを結ぶなど密接な関係を結び、韓嘉訥はベルケ・ブカが政界を引退した至正7年(1347年)に中書平章政事を経て[3]、陝西行台の御史大夫となった[4]

至正9年(1349年)7月、中書左丞相となったタイピンと御史大夫の韓嘉訥は監察御史の斡勒海寿を通じてウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の腹心カマとその弟のソソを弾劾させた[5]。韓嘉訥らの動きを察知したカマは斡勒海寿が朝廷に至る前に先んじてウカアト・カアンに自らに罪がないことを訴え出た。その後、斡勒海寿がカマを弾劾すると、カマの自己弁護を先に聞いていたウカアト・カアンは斡勒海寿の言葉を信じず、その訴えを退けた。翌日、斡勒海寿が再び上奏を行うとウカアト・カアンはやむなく僅かにカマとソソの官職を剥奪したが、一方で斡勒海寿を陝西廉訪副使に左遷し、太平は翰林学士承旨を辞めさせ、韓嘉訥に江浙行省平章政事させるなど、カマ弾劾に奔走した一派を中央から追放してしまった[6]

韓嘉訥らの左遷後もトグス皇后は泣きながらカマ弾劾の不当さをウカアト・カアンに訴えたため、更に怒りを募らせたウカアト・カアンは斡勒海寿の官職を奪い、禁固刑に処した。更に、韓嘉訥は贈賄罪を理由として杖罪に処され、遠い極北の地ヌルガンに流されてそこで死んだ[7]。時に至正11年(1351年)のことで、同時期に高昌王イディクート(タイピヌ・テギン)も同時期に流刑になっていたという[8]

タングート部チャガン家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「立智理威……。子二人、長買訥、翰林学士承旨;次韓嘉訥、御史大夫。孫達理麻、内府宰相」
  2. ^ 『庚申外史』巻上「庚辰、至元六年。伯顔行至江西豫章駅、飲薬而死。……命脱脱為左丞相、益都忽為右丞相、韓家奴為御史大夫、汪家奴為枢密使」
  3. ^ 『元史』巻163表第6下宰相年表2,「丁亥、[至正]七年。……平章政事:韓嘉訥、十二月除大夫」
  4. ^ 『元史』巻41順帝本紀4,「[至正七年十一月]己未、以中書省平章政事韓嘉訥為陝西行台御史大夫。迤北荒旱缺食、遣使賑済駅戸」
  5. ^ 『元史』巻42順帝本紀5,「[至正九年]秋七月庚寅朔、監察御史斡勒海寿劾奏殿中侍御史哈麻及其弟雪雪罪悪、御史大夫韓嘉訥以聞、不省、章三上、詔奪哈麻・雪雪官、出海寿為陝西廉訪副使、韓嘉訥為宣政院使」
  6. ^ 『元史』巻205列伝92哈麻伝,「初、別児怯不花与太平・韓嘉納・禿満迭児等十人、結為兄弟、情好甚密。及別児怯不花既罷、九年、太平為左丞相、韓嘉納為御史大夫、乃謀黜哈麻、諷監察御史斡勒海寿、列其罪悪劾奏之。……哈麻知御史有所言、先已於帝前析其非罪、事皆太平・韓嘉納所摭拾。及韓嘉納以御史所言奏、帝大怒、斥弗納。明日、章再上、帝不得已、僅奪哈麻・雪雪官職、居之草地。而斡勒海寿為陝西廉訪副使、於是太平罷為翰林学士承旨、韓嘉納罷為宣政使、尋出為江浙行省平章政事」
  7. ^ 『元史』巻205列伝92哈麻伝,「有頃、脱忽思皇后泣訴帝、謂御史所劾哈麻事為侵己、帝益怒、乃詔奪海寿官、屏帰田里、禁錮之。已而脱脱復為丞相、也先帖木児復為御史大夫、而謫太平居陝西、而加韓嘉納以贓罪、杖流奴児干以死」
  8. ^ 『庚申外史』巻上「辛卯、至正十一年。……于是起大獄、以謀害大臣、置前相高昌王益都忽並韓家奴于死地。未幾、刑賞失措、又興挑河工役、所在肆虐。又併省衙門、沙汰吏胥、無所容跡」

参考文献[編集]