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立智理威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

立智理威(りつちりい、1254年 - 1310年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人の一人。

概要

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立智理威は「チンギス・カン親衛千人隊長」として著名なチャガンの「従孫」で、ナヤンの乱鎮圧などに活躍したイレグ・サカルの弟にあたる[1]

立智理威は長ずると皇太子チンキムに仕えてビチクチとなり、文書行政を掌った。1270年代には南宋領の平定が進み、1281年(至元18年)に兵乱によって打撃を受けた四川地方の撫民を行うため、立智理威は嘉定府路ダルガチに任じられた[2]。雲南で数十万と称する盗賊が成都を目指した時には、立智理威は自ら朝廷に馳せ参じた。大臣は立智理威の訴えを疑ったが、クビライは雲南は自ら征服した地であって、疎かにはできないと述べて立智理威の訴えを認めたという[3]

その後、立智理威は刑部尚書に移り、讒言によって陥れられた劉献を時の権力者サンガに逆らって助けた。この一件によって江東道宣慰使に移され、1296年(元貞2年)には四川行省参知政事となって再び四川地方に赴任した[4]1299年(大徳3年)には湖南宣慰使として湖広行省に赴き、1303年(大徳7年)には四川行省参知政事、1304年(大徳8年)には四川行省左丞となった[5]

1306年(大徳10年)に入朝した際にはオルジェイトゥ・カアンより白金対衣を賜り、資徳大夫・湖広行省左丞とされた[6]1310年(至大3年)、立智理威は在職中に病で亡くなった。享年57。買訥と韓嘉訥という息子がおり、孫のダルマ(達理麻)は内府宰相となった[7]

タングート部チャガン家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「亦力撒合、祖曲也怯律。太祖時、得召見、属皇子察合台、為札魯火赤。父阿波古、事諸王阿魯忽、居西域。……元貞元年、成宗即位、入朝、卒。弟立智理威」
  2. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「立智理威、為裕宗東宮必闍赤、典文書。至元十八年、蜀初定、帝閔其地久受兵、百姓傷残、択近臣撫安之、以立智理威為嘉定府路達魯花赤」
  3. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「時方以闢田・均賦・弭盗・息訟諸事課守令、立智理威奉詔甚謹、民安之、使者交薦其能。会盗起雲南、号数十万、声言欲寇成都。立智理威馳入告急、言辞懇切、継以泣涕。大臣疑其不然、帝曰『雲南朕所経理、未可忽也』。乃推食以労之。又語立智理威曰『南人生長乱離、豈不厭兵畏禍耶御之乖方、保之不以其道、故為乱耳。其帰以朕意告諸将、叛則討之、服則捨之、毋多殺以傷生意、則人必定矣』。立智理威至蜀、宣布上旨」
  4. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「俄召為泉府卿、後遷刑部尚書。有小吏誣告漕臣劉献盗倉粟、宰相桑哥方事聚歛、衆阿其意、鍛煉枉服。立智理威曰『刑部天下持平、今輦轂之下、漕臣以冤死、何以正四方乎』。即以実聞。以是忤丞相、出為江東道宣慰使。在官務興学、諸生有俊秀者、抜而用之、為政厳明、豪民猾吏、縮手不敢犯、然亦無所刑戮而治。元貞二年、遷四川行省参知政事。蜀有婦人殺夫者、繫治数十人、加以箠楚、卒不得其実、立智理威至、尽按得之」
  5. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「大徳三年、以参知政事為湖南宣慰使、継改荊湖。荊湖多弊政、而公田為甚。部内実無田、随民所輸租取之、戸無大小、皆出公田租、雖水旱不免。立智理威問民所不便凡十数事上於朝、而言公田尤切。朝議遣使理之。会有詔、凡官無公田者、始随俸給之、民力少蘇。七年、再遷四川行省参知政事。八年、進左丞。雲南王入朝、所在以駅騎縦猟。立智理威曰『駅騎所以伝命令、事非有急、且不得馳、況猟乎』。王憚、為之止猟。蜀人饑、親勧分以賑之、所活甚衆。有死無葬者、則以己銭買地使葬。且修寛政以撫其民、部内以治」
  6. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「十年、入朝、帝以白金対衣賜之、加資徳大夫・湖広行省左丞。湖広歳織幣上供、以省臣領工作、遣使買絲他郡、多為奸利、工官又為刻剥、故匠戸日貧、造幣益悪。立智理威不遣使、令工視賈人有蔵絲者択買之、工不告病、歳省費数万貫。他郡推用之、皆便」
  7. ^ 『元史』巻120列伝7亦力撒合伝,「至大三年、以疾卒於官、年五十七。初贈資徳大夫・陝西行省右丞・上護軍・寧夏郡公、諡忠恵。再贈推誠亮節崇徳賛治功臣・栄禄大夫・中書平章政事・柱国・秦国公。子二人、長買訥、翰林学士承旨;次韓嘉訥、御史大夫。孫達理麻、内府宰相」

参考文献

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