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ウィリアム・ドーネイ (第7代ダウン子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルダースビー英語版聖ジェームズ教会英語版、2007年撮影。

第7代ダウン子爵ウィリアム・ヘンリー・ドーネイ英語: William Henry Dawnay, 7th Viscount Downe1812年5月15日1857年1月26日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族保守党に所属し、1841年から1846年まで庶民院議員を務めた[1]

生涯

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第6代ダウン子爵ウィリアム・ヘンリー・ドーネイと妻リディア(Lydia、旧姓ヒースコート(Heathcote)、1773年 – 1848年3月18日、ジョン・ヒースコートの娘)の息子として、1812年5月15日にメイフェアチャールズ・ストリート英語版で生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版で洗礼を受けた[1]。1824年ごろから1828年ごろまでイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1830年3月31日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1833年にB.A.の学位を、1837年にM.A.の学位を修得した[2]

1834年から1854年までヨークシャー・フザール英語版の士官を務めた[1]

1841年イギリス総選挙保守党候補としてラトランド選挙区英語版から出馬、676票(得票数2位)を得て当選した[3]。1846年初に議員を辞任し、同年2月の補欠選挙では同じく保守党所属のジョージ・フィンチ英語版が無投票で当選した[3]。同年5月23日に父が死去すると、ダウン子爵位を継承した[1]

1857年1月26日にトーキーで死去した[1]。最初はトップクリフ英語版の聖コロンバ教会(The Church of St Columba)に埋葬されたが、1857年9月に自身が建設を命じたバルダースビー英語版聖ジェームズ教会英語版が完成するとそこへ移された[4]。息子ヒュー・リチャード英語版が爵位を継承した[1]

家族と私生活

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1843年7月25日、メアリー・イザベル・バゴット(Mary Isabel Bagot)、1825年4月28日 – 1900年4月14日、聖職者リチャード・バゴット英語版の娘)と結婚[1]、8男2女をもうけた[5]。リチャード・バゴットは教会をいくつか建てることを娘との結婚の条件とした[1]。教会の数については3つ[1]と7つ[4]とする文献がある。

  • ヒュー・リチャード英語版(1844年7月20日 – 1924年1月21日) - 第8代ダウン子爵、初代ドーネイ男爵
  • ルイス・ペイン英語版(1846年4月1日 – 1910年7月20日) - 庶民院議員。1877年6月6日、ヴィクトリア・アレクサンドリナ・エリザベス・グレイ(Victoria Alexandrina Elizabeth Grey、1922年6月15日没、チャールズ・グレイ閣下英語版の娘)と結婚、子供あり
  • アラン・チャールズ(1847年6月15日 – 1853年3月3日)
  • ガイ・カスバート英語版(1848年7月26日 – 1889年2月22日) - 庶民院議員
  • ユースタス・ヘンリー(Eustace Henry、1850年4月15日 – 1928年12月15日) - イーヴリン・ド・ヴィアー・カペル(Evelyn de Vere Capell、モルデン子爵アーサー・ド・ヴィアー・カペルの娘)と結婚、子供あり
  • ウィリアム・フレデリック(1851年10月14日 – 1904年9月29日) - 1875年4月22日、アデレード・ヘレン・パーカー(Adelaide Helen Parker、1941年7月14日没、第6代マクルズフィールド伯爵トマス・パーカーの娘)と結婚、子供あり
  • ジェフリー・ニコラス(Geoffrey Nicolas、1852年12月13日 – 1941年12月31日) - 1887年8月19日、エミリー・ジャニー・バルティール(Emily Janie Bulteel、1935年12月8日、ジョン・バルティールの娘)と結婚、子供あり
  • フランシス・ハーバート(1853年12月11日 – 1914年6月26日)
  • アリス・イザベル(1929年10月没)
  • イーディス・メアリー(Edith Mary、1941年7月15日没) - 1884年2月2日、ロバート・グラント=サッティー(Robert Grant-Suttie、1841年12月18日 – 1933年9月15日、第5代準男爵サー・ジョージ・グラント=サッティー準男爵の息子)と結婚、子供あり

ダウン子爵としてラトランドヨークシャーにおける領地の開発に力を入れ、また妻の父との約束通り、友人の建築家ウィリアム・バターフィールド英語版を招聘して教会を建てた[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 454.
  2. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 354.
  3. ^ a b Craig, F. W. S. (1977). British parliamentary election results 1832–1885 (英語). London: The Macmillan Press. p. 444. ISBN 978-1-349-02349-3
  4. ^ a b c "Our Church". Church of St James, Baldersby (英語). 2021年1月20日閲覧
  5. ^ "Downe, Viscount (I, 1681)". Cracroft's Peerage (英語). 28 March 2011. 2021年1月20日閲覧

外部リンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
サー・ギルバート・ヒースコート準男爵英語版
チャールズ・ジョージ・ノエル閣下英語版
庶民院議員(ラトランド選挙区英語版選出)
1841年 – 1846年
同職:ギルバート・ジョン・ヒースコート英語版
次代
ギルバート・ジョン・ヒースコート英語版
ジョージ・サマセット・フィンチ英語版
アイルランドの爵位
先代
ウィリアム・ヘンリー・ドーネイ
ダウン子爵
1846年 – 1857年
次代
ヒュー・リチャード・ドーネイ英語版