ウィリアム・K・バートン
ウィリアム・キニンモンド・バートン(William Kinninmond Burton, 1856年5月11日 - 1899年8月5日)は、スコットランド・エディンバラ生まれの技術者・写真家。
「W.K.バルトン」の表記のように、在日中はバルトンの呼称の方が一般的であった。
略歴
[編集]バートンは法律家で文筆家のジョン・ヒル・バートン (John Hill Burton) とカサリーン・イネス[1]の夫妻のもとに生まれた。高校卒業後、エディンバラのブラウン・ブラザーズ社で水道技術工見習いとなり、1879年、叔父のコスモ・イネス[2]を頼りロンドンに移った。イネスは技術事務所を営む傍ら、衛生保護協会 (Sanitary Protection Association) 事務局長を務めており、バートンは、1881年には衛生保護協会の主任技師となった。イネスは1869年から3年間、インド植民地公共事業局の技師を務めており、その間、明治政府の工部省測量司に配下の測量師3名をお雇いに推薦したことがあった[3]。
大学教育は受けておらず、とくに目ぼしい実績もなかったが、渡欧中の永井久一郎(永井荷風の父)と知り合ったことで、彼の推薦を得て[4]、当時コレラなどの流行病の対処に苦慮していた明治政府の内務省衛生局のお雇い外国人技師として1887年(明治20年)来日。衛生局のただ一人の顧問技師として東京市の上下水道取調主任に着任するとともに、帝国大学工科大学(のちの東京大学工学部)で衛生工学の講座ももち(正式な教授ではなく特別講師的なもの)、浜野弥四郎など何人かの著名な上下水道技師を育てた[5]。バートンの設計は、実地工事上の段階で大幅に変更せざるを得ないものではあったが、帝都上下水道の基本計画となり[4]、東京[6]、神戸[7]、福岡[8]、岡山[4]などの上下水道の基本調査などを担当した。バートンが基本プランを作成した下関市高尾浄水場は瀧川釼二の設計により明治39年(1906年)に給水開始。以来、1世紀以上使用され、平成10年(1998年)に着水井(ちゃくすいせい)、濾過池(ろかち)、濾過池付設調節井、配水地(はいすいち)など一連の施設が登録有形文化財に登録された [9]。下関市が頒布している災害備蓄用飲料水のボトルにはバートンの顔が印刷されている[10]。凌雲閣の基本設計者でもある。
バートンは母方の祖父が地元では名の知られた写真愛好家であったことから、カメラや写真に詳しくなった。来日前には臭化ゼラチン乾板の原理に関する著書や論文で著名であり、当時の乾板の発明を行ったロンドンの写真技術者の一人として評価された[11]。その後、日本で写真撮影に関する本も出版した。日本の写真家小川一真らと親しい関係を結び、小川や鹿島清兵衛らについての論説をイギリスの写真誌に寄稿した。バートンは小川や鹿島のほか、菊池大麓、ウィリアム・スタージス・ビゲロー、石川巌、小倉倹司、中島精一、江崎礼二らとともに、1889年(明治22年)5月に榎本武揚を会長として設立された日本寫眞會(在留外国人や日本人富裕層のアマチュア写真家・職業写真師のための日本初の同好会)の創立メンバーとなっている[12]。1888年の磐梯山噴火、1891年の濃尾地震という大災害に際しては、大学の依頼で被災地に赴き、惨状を撮影した。
1896年、バートンは台湾総督府民政長官だった後藤新平の要請で教え子の浜野弥四郎とともに日清戦争の勝利によって日本の領土となった台湾に向かい[13]、台湾の公衆衛生向上のための調査に当たった。台湾でよい水源地の発見に苦慮し、炎暑の中を調査中に風土病にかかり[4]、1899年8月5日に43歳で没した。1894年に結婚した日本人妻と、別の女性との間に生まれた娘[14]を伴って英国への帰国を準備していた目前であったため、帰国を果たせず、東京の青山霊園に葬られている。
教え子の浜野は師の訃報で悲しみに暮れながらも、台湾での事業を継続[13]。基隆水道貯水池(現・基隆市暖暖区の西勢水庫)や台北水道(現・台北市中正区)、台南水道(現・台南市山上区)などを次々と完成させていった[13]。
1919年、浜野は健康状態の悪化を理由に総督府の職務を辞し帰国することを決意すると、恩師バートンの功績を世に留めるべくその銅像を建てようと募金に奔走し、台湾総督明石元二郎にも台北水道水源地内の用地確保を申請している[15](p79)。3月30日に無事バートン像の除幕式を開くことができたが[15](p79)、戦時中に資材供出令により撤去されている[13](p44)。
2006年には、バートン生誕150周年を記念して、バートンの実家であり、現在はエジンバラ・ネイピア大学に寄付されているクレイグ・ハウス内に記念プレートが遺族によって設置された[16]。
交流
[編集]- イギリスの小説家アーサー・コナン・ドイルは、幼少時バートン家に預けられていたことがあり、ドイルとバートンは、バートンが来日した後も親交があった。ドイルのシャーロック・ホームズシリーズに、日本に関する正確な知識が登場するのは、バートンとの交流によるものだといわれている[17][18][19]。ドイルは1890年に長編小説『ガードルストーン商会』をバートンに献呈している[20][18][19]。
- 夏目漱石らに英語を教えたジェームズ・マードックとは同じ歳、同郷で、共著もある。
脚注
[編集]- ^ 父親は高名な法律家でエディンバラ大学教授のコスモ・イネス (Cosmo Innes) 、同名の長男は土木技師.
- ^ Obituary: Cosmo Innes, 1841-188, 7Minutes of the Proceedings of the Institution of Civil Engineers, Volume 90 Issue 1887, 1887, pp. 433-434.
- ^ 工部省測量師長となっていたマクヴェインとは親友関係にあった。マクヴェインは帰国後も、工部省と内務省の旧同僚と連絡を取り合っていた.
- ^ a b c d 『岡山市水道通史』岡山市水道課 編 (合同新聞社出版部, 1944)
- ^ 台湾台南市山上区長が来訪 2013年9月27日,佐倉市役所企画政策部広報課
- ^ 『東京市区改正委員会議事録』(東京市区改正委員会, 1900)
- ^ 『神戸市水道用書』(神戸市水道事務所, 1896)
- ^ 『福岡市市制施行五十年史』福岡市編 (福岡市, 1939)
- ^ “WaterTalk Vol.43”. 2018年1月26日閲覧。
- ^ “下関市ホームページ”. 2018年1月26日閲覧。
- ^ 松山巌『乱歩と東京―1920都市の貌』,1984
- ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 (2005): 1888 磐梯山噴火 報告書 付論
- ^ a b c d 回顧七十 前瞻永續 水利人的足跡. 中華民国経済部水利署. (2017-05). pp. 47-52. ISBN 9789860525120 2018年9月9日閲覧。
- ^ バルトン先生、明治の日本を駆ける! (2016年) - 平凡社
- ^ a b 吳世紀 (2017-11). 自來水會刊第 36 卷第 4 期 臺灣現代化自來水建設之開拓者 都市的醫師-濱野彌四郎. 中華民國自來水協會(CTWWA) 2018年9月2日閲覧。
- ^ Memorial for pioneer who transformed Japan skylineEdinburgh News, September 12, 2006
- ^ 清水健 (2007年10月25日). “シャーロキアンが誘う知的遊戯の世界”. 英国ニュースダイジェスト. 2012年6月3日閲覧。
- ^ a b 岡部昌幸「バルトン(ドイルの恩人)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、629-630頁
- ^ a b 笹野史隆「バルトン(ドイルの親友)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、630-631頁
- ^ コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、618頁
外部リンク
[編集]- W.K.Burton "Britain and Japan: Biographical Portraits", 第 4 巻, Hugh Cortazzi編, Routledge刊, 2013年
- 『実地写真術』バルトン著 (敬業社, 1891)