浜野弥四郎
はまの やしろう 浜野弥四郎 | |
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生誕 |
1869年10月13日 葛飾県(現:千葉県成田市) |
死没 |
1932年12月30日(63歳没) 東京都 |
国籍 | 日本 |
別名 | 黒川 弥次郎 |
職業 | 水利技術者 |
著名な実績 | 台湾各地での都市計画、上下水道建設 |
影響を受けたもの | 浜野昇、ウィリアム・K・バートン |
影響を与えたもの | 八田與一 |
浜野 弥四郎(はまの やしろう、旧字体:濱野 彌四郞、1869年10月13日(明治2年9月9日) - 1932年(昭和7年)12月30日[1])は、日本の衛生工学、土木工学者。日本統治時代の台湾で台湾総督府土木部の技師として多くの上下水道インフラを手がけたことから、「台湾水道の父(繁体字中国語: 台灣水道之父、台灣自來水之父[2])」と評されている。
人物
[編集]経歴
[編集]- 1869年10月13日(明治2年9月9日) - 佐倉藩寺台村(現:千葉県成田市寺台)で農家の二男、黒川 弥次郎(くろかわ やじろう)として出生[1]。
- 1876年 - 成田小学校(現:成田市立成田小学校)入学[2](p76)。
- 1882年 - 千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)入学[2]。
- 1886年 - 東京の旧制第一高等学校に入学[1]
- 1888年 - 医師の浜野昇(のちに政治家)に養子入り[2](p77)。浜野 弥四郎と改名[1]。
- 1893年 - 帝国大学工科大学(現:東京大学大学院工学系研究科・工学部)に入学し、イギリス(スコットランド)出身のお雇い技師ウィリアム・K・バートン(バルトンとも。以下バートン)に師事[1]。
- 1896年 - 帝国大学卒業[1]、バートンとともに台湾へ赴任する。
- 1919年 - 台湾から帰国[1]。
- 1932年12月30日 - 東京で死去[1]。
養父・浜野
[編集]帝国大学出身で政治家も務めた浜野昇は後継ぎがいなかったことから、当時20歳だった弥四郎を養子とした。1890年に帝国議会衆議院議員となり、当時唯一の医師兼業代議士だった。肺結核予防など近代医療体系構築に尽力していた。その後二選目を狙った選挙では落選し、1895年に大日本帝国軍の軍医として台湾へ赴任した。大日本台湾病院(現・国立台湾大学附属医院、通称:台大医院)の院長に任命されている。養父・昇は弥四郎に「都市を人体に喩えると、健康な都市に必用なのは清潔な飲料水、新鮮な空気と緑地空間である。衛生工学は都市生活者に必須の技術であり、衛生工学者は『都市の医師』だ」と度々説いていた。医師・昇の影響は大きく、その後弥四郎が台湾で衛生インフラ整備に従事するようになる。
[2](p76)
台湾での業績
[編集]帝大の衛生工学特別講師だったバートンに師事し東京帝国大学工学部土木学科を卒業後の1896年(明治29年)、バートンが民政長官後藤新平の要請で台湾での衛生インフラ整備事業で顧問を務めることになり助手として同行した。台湾に赴任すると、台湾総督府民政部土木局の技師に従事。帝国大学で後輩だった堀見末子と同僚だった[3](p51)。
台北と南部で衛生状況調査、台中で都市計画調査を行う傍ら、同時並行でイギリス統治下の上海、香港、シンガポールなどを視察し英国式の衛生行政を学んだ。そしてバートンと浜野は台湾で衛生問題を解決する方策は上下水道の整備にあると結論付けた[3]。
1899年(明治33年)、バートンは基隆水道貯水池(現・基隆市暖暖区の西勢水庫)設計中に風土病に倒れ、東京へ戻りつつも帰らぬ人となった[2](p78)。悲しみに暮れつつも浜野はバートンの遺志を継いで台湾に残り上下水道の整備を継続した[3]。
23年に及ぶ駐在期間で基隆、台北、台中、彰化、嘉義、台南、屏東などの主要都市および士林、金包里(現・新北市金山区)、北投、斗六、大甲、花蓮港などの中小都市で水道事業に携わった[3](p49)。
水源調査、取水場・浄水場・濾過装置・上下水道の整備計画をまとめあげただけでなく、バートンの教えに従い新しい理論、概念の学習を欠かさず毎年定期的に開催されていた全国上水協議会などで他の技師と交流もしていた[3](p50)。
また、在台日本人の健康増進、精神鍛練などを目的に設立され、台湾で武徳殿などを運営していた「台湾体育協会」で理事も務めている[4]。
1902年に竣工した基隆水道は21世紀の今なお現役であり、当時の姿を残す八角井楼とポンプ室は市定歴史建築に登録されている[5]。
1908年に完成した台北水道は日本の東京や名古屋よりも早く供用された水源で、12万人分の水を供給し、台北市の水事情、衛生事情の改善に大きく寄与した。役目を終えた現在は台北市政府の市指定古蹟に登録され、「自来水博物館」として生まれ変わっている[6]。
1911年7月9日には士林、北投でも水道が完成[7]、1912年には第28回帝国議会で総督府が要請していた総額263万円の台南水道の予算案が通過した。翌年に実地調査を開始し。予算が433万円に超過したり、第一次世界大戦の影響などで予定していた4年の工期が遅れたものの[3](p49)、7年以上の工期を経て1922年(大正11年)に10万人の供給能力をもつ水道インフラが完成している。台南水道は戦後に市内で大型の施設が稼働し主要な役割を譲ったものの、1982年まで稼働し続けた[8]。こちらも2005年に国定古蹟となっている[9]。
台南水道事業では上司として八田與一と出会い、八田は浜野から多くのことを学んだ[2](p79)。その後八田は同じ台南で嘉南大圳と烏山頭水庫の大事業を完成させている。
1919年、浜野は健康状態の悪化を理由に総督府の職務を辞し、帰国することを決意。また、恩師バートンの功績を世に留めるべくその銅像を建てようと募金に奔走し、台湾総督明石元二郎にも台北水道水源地内の用地確保を申請している[2](p79)。3月30日に無事バートン像の除幕式を開くことができた[2](p79)。4月に帰国のために台湾を去る際には官民合わせて150人以上が集い送別会を開いている[3](p50)。
23年間の駐在中、16ヶ所の上下水道システム構築、16ヶ所の都市計画に携わったことで後世では「都市の医師」と評されるに至っている[3](p51)。 没後の1937年時点で主要都市を含めて全土に111ヶ所の水道インフラが整備されている[10] 。
日本へ戻った浜野は帝国大学学長だった佐野藤次郎の紹介で神戸市都市計画課課長として市内の上下水道整備に携わり、引き続きその手腕を国内で発揮した[3](p51)。
浜野の帰国後、八田は師である浜野の功績を称えようと台南水道の山上水源地(現・台南市山上区)に銅像を設置を呼びかけた[3](p50)。そして1921年に胸像が建立され、台北と台南で師弟の像が揃うことになった。しかし第二次世界大戦中の金属供出令により、バートン像だけでなく[3](p44)、浜野像も撤去されている[2](p80)。その後、水源地を訪問した台南の実業家で奇美実業創業者の許文龍は像の不在を嘆き、浜野の胸像を製作、水源地に寄贈している[11]。
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基隆水道の基幹ダム「西勢水庫」
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台北水道水源地
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現在は自来水博物館となっている台北水道水源地の内部
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旧台南水道(台南市山上区)
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竹寮取水站(高雄市大樹区)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 台湾台南市山上区長が来訪 2013年9月27日,佐倉市役所企画政策部広報課
- ^ a b c d e f g h i j 自來水會刊第 36 卷第 4 期 臺灣現代化自來水建設之開拓者 都市的醫師-濱野彌四郎. 中華民國自來水協會(CTWWA) 2018年9月2日閲覧。 吳世紀 (2017-11).
- ^ a b c d e f g h i j k 回顧七十 前瞻永續 水利人的足跡. 中華民国経済部水利署. (2017-05). pp. 47-52. ISBN 9789860525120 2018年9月9日閲覧。
- ^ 觀念、組織與實踐-日治時期臺灣體育運動之發展 (第三章 體育統制機構:從武德會體育俱樂部到臺灣體育協會). 国家教育研究院. pp. 115-118. ISBN 9789866078118 2018年9月9日閲覧。 林丁國 (2012-2).
- ^ 日本統治時代建設の水道施設 100年経った今も現役/台湾・基隆2017-11-01,フォーカス台湾
- ^ 臺北水道水源地 文化部文化資産局国家文化資産網
- ^ 台灣回憶探險團》【歷史的今天】1911.7.9 士林北投水道舉行竣工式2017-07-09,自由時報
- ^ 日本統治時代「台南水道」の建築、台南市に寄贈/台湾2014-09-06,フォーカス台湾
- ^ 原臺南水道 文化部文化資産局 国家文化資産網
- ^ 林明仁、賴建宇《乾淨用水對長期健康及教育成就的影響:以1909-1933年日治時期台灣的水道建設為例》經濟論文叢刊 (Taiwan Economic Review), 40:1 (2012), 1–35。國立台灣大學經濟學系出版
- ^ 捐贈雕像給磯小屋的奇美許文龍先生2013-08-14,PeoPo公民新聞
関連書籍
[編集]- 稲場紀久雄 (1993). 《都市の医師―浜野弥四郎の軌跡》. 水道産業新聞社. ISBN 4915276120
- 馬以工 主講 (2008). “把文化景觀變資產” (中国語). 《全民大講堂》(第36集 ). 中國電視公司
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 台湾を変えた日本人シリーズ:台湾の上下水道を整備した日本人・浜野弥四郎 2018-05-03 古川勝三/nippon.com