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ウィー・キムウィー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィー・キムウィー
黄金辉
第4代シンガポール共和国大統領
任期
1985年9月2日 – 1993年9月1日
首相リー・クアンユー
ゴー・チョクトン
前任者ヨー・ギム・セン英語版(大統領代理)
チェンガラ・ヴェーティル・デヴァン・ナイール(大統領)
後任者オン・テンチョン
駐韓シンガポール大使
任期
1981年2月 – 1984年4月
首相リー・クアンユー
駐日シンガポール大使
任期
1980年9月 – 1984年4月
首相リー・クアンユー
駐マレーシア・シンガポール高等弁務官
任期
1973年 – 1980年9月
首相リー・クアンユー
個人情報
生誕 (1915-11-04) 1915年11月4日
海峡植民地 シンガポール植民地
死没2005年5月2日(2005-05-02)(89歳没)
シンガポール
墓地マンダイ納骨堂
200°
配偶者コ・ソクヒョン
職業政治家
専業ジャーナリスト外交官
宗教仏教

ウィー・キムウィー(Wee Kim Wee、黄金輝黄金辉、日本語読み:こう・きんき、1915年11月4日2005年5月2日)は、シンガポール政治家1985年から1993年まで在任した第4代シンガポール共和国大統領

生い立ち

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1915年11月4日、ウィー・キムウィーは、ウィー・チュンレイ(Wee Choong Lay)とその妻チュア・レイファ(Chua Lay Hua)、ないし、チュア・へイルアン(Chua Hay Luan)の息子として生まれた。父ウィー・チュンレイは船のパーサー(事務責任者)だったが、ウィー・キムウィーが6歳の時に失明した。ウィー・キムウィーが8歳のとき父は死去し、同じく19歳のとき母も死去した。初等教育をパールズ・ヒルの学校で受けた後、ラッフルズ・インスティチューション英語版に進んだ。しかし、2年間在学した後、1930年1月に退学し、卒業はしなかった[1]

経歴

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1930年–1973年:ジャーナリズム

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1930年、ウィーは、『ザ・ストレーツ・タイムズ』紙で事務員として働き始め、後には政治問題を専門とする新聞記者となった。やがて同紙の看板記者のひとりとなる。21歳の記者であった1936年には、コ・ソクヒョン(許淑香、Koh Sok Hiong、许淑香)と結婚した[2]

1941年、ウィーはUP通信社に転じ、1950年代にはシンガポールの主任通信員を務めた。1959年、古巣の『ザ・ストレーツ・タイムズ』紙に戻り、シンガポールの編集長代理となった。1963年には公共服務章 (Pingat Bakti Masyarakat (PBM)) を授章した。1966年、ウィーは、後にインドネシアの大統領となるスハルトにインタビューし、スハルトが、3年間にわたり続いていたマレーシアとの紛争 (Indonesia–Malaysia confrontation) を終わらせたいという意向を持っていることを報じた。このニュースは一面を飾り、スハルト自身の言葉を引用する形で「スハルト「平和、早い程よい」(Suharto: 'Peace: The sooner the better')」[3]

1973年には、『ザ・ストレーツ・タイムズ』紙の編集局長として公共服務星章 (Bintang Bakti Masyarakat (BBM)) を授章した[4]

1973年–1984年:外交

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ウィーは1973年ジャーナリストを引退し[5]マレーシア駐在の高等弁務官イギリス連邦加盟国間で特命全権大使の代わりに交換する外交使節長)となって7年間その任にあった。その後、1980年9月には駐日シンガポール大使1981年2月には駐韓シンガポール大使に、それぞれ任命された。外交官としての職務を終えたウィーは、1984年に、後のメディアコープ・スタジオの前身であるシンガポール放送協会英語版会長に任命された[4]

日本駐在時代にはおしんを視聴しており、帰国後シンガポールで(おしんを)放送出来る様にNHK放送センターと交渉した結果、放送が実現した功績もある。

1985年–1993年:大統領

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1985年、ウィーはシンガポール共和国大統領となり、その任期中においてシンガポール国立大学理事長 (Chancellor) となった。ウィーの2期目の任期まで、大統領候補の選任は国会の専権事項だった。ウィー大統領の2期目の途中だった1991年1月に、国会は憲法を修正し、大統領の直接選挙を導入し、公職者の任命や政府準備金の取り崩しに関する国会の決定に対して大統領が拒否権をもつように制度を改めた。

選挙で選出される大統領職の新設は、シンガポールの歴史において、最も重大な憲政上の変革であり、この憲法修正は政府の予算や公職者の任命についての拒否権によって、大統領の権限を強化するものであった。大統領は、国内保安法 (Internal Security Act) や宗教間の調和に関する諸法に基づいて、政府の権限行使について調査し、腐敗汚職事件の調査を行うこともできるようになった。

シンガポールで初めて実施される、民衆の選挙による大統領選挙を前に、現職のウィーはウィーは出馬せず、大統領としての2期目の任期を全うした上で引退することを決めた。1993年には、ダルジャ・ウタマ・テマセク最高勲章 (Darjah Utama Temasek) を受章した[4]

1994年–2004年:晩年

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大統領退任後のウィーは、結婚登録所英語版の長官代理 (deputy registrar of marriages) に任じられた。また、公共への奉仕と1993年までの大学理事長としての貢献に対して、シンガポール国立大学から名誉学位文学博士を贈られた。

1999年には、キャセイ・オーガニゼーション・ホールディングス英語版の重役となった[4]

2004年、ウィーは自伝『Glimpses and Reflections』を出版した。その印税などから、50万シンガポール・ドルが8つの慈善団体に寄付された。

死と残されたもの

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ウィーは、2005年5月2日シンガポール標準時午前5時10分にシグラップ英語版の自宅で、前立腺癌のため89歳で死去した。生前、ウィーは火葬を望み、重要人物が通常葬られるクランジ戦没者墓地英語版ではなく、一般市民と同じくマンダイ納骨堂英語版に遺灰を収めてほしいと言っていた。ウィーの遺体を安置したシンガポールの大統領官邸「イスタナ英語版」で行われた国葬には、多数が弔問に訪れた。

残された家族は、当時69歳だった妻コ・ソクヒョン(1916年-2018年)[6][7]、息子ビル・ウィーホッキー (Bill Wee Hock Kee) と6人の娘たち、13人の孫、14人のひ孫であった。

2006年南洋理工大学は、コミュニケーション学部 (School of Communication Studies) をウィーに因んでウィー・キムウィー・コミュニケーション情報学部 (Wee Kim Wee School of Communication and Information) と改称した[8]

シンガポールマネージメント大学の文化交流研究センター (Centre for Cross-Cultural Studies) は、ウィーに因んでウィー・キムウィー・センター (Wee Kim Wee Centre) と改称した[9]

南洋理工大学のウィー・キムウィー遺産基金 (Wee Kim Wee Legacy Fund) は、ウィーにちなむ命名である[10]

脚注

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  1. ^ Dr Wee Kim Wee”. Istana Singapore. 2016年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月7日閲覧。
  2. ^ Mrs Wee Kim Wee, late Singapore President’s wife, dies at 102”. 2018年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月8日閲覧。
  3. ^ Excerpt of the interview with Suharto”. Singapore Press Holdings. 2016年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月9日閲覧。
  4. ^ a b c d Wee Kim Wee”. National Library Board. 2015年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月9日閲覧。
  5. ^ Wee Kim Wee”. 2016年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月5日閲覧。
  6. ^ {title}”. 2018年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月8日閲覧。
  7. ^ “Lee Kuan Yew and late president Wee Kim Wee are related”. Veritas. オリジナルの2015-02-14時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150214035631/http://veritas-lux.blogspot.sg/2011/07/lee-kuan-yew-and-late-president-wee-kim.html 2015年1月5日閲覧。. 
  8. ^ History of the Wee Kim Wee School of Communication and Information”. Nanyang Technological University. 2014年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月5日閲覧。
  9. ^ Wee Kim Wee Centre”. 2015年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月5日閲覧。
  10. ^ Wee Kim Wee Legacy Fund”. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月5日閲覧。

参考文献

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  • Wee Kim Wee (2004), Glimpses and Reflections. Landmark Books, Singapore. ISBN 981-3065-87-7
  • On The Record: The Journalistic Legacy of President Wee Kim Wee. Nanyang Technological University, Singapore. ISBN 978-981-05-6707-1, 981-05-6707-3
  • Wee Eng Hwa (2010), "Cooking For The President" - a cookbook of Peranakan recipes from Wee's wife, recorded by his daughter Wee Eng Hwa. The cookbook includes much details of Wee's personal life with photographs.
  • Speech by Wee Eng Hwa at the launch of Wee Kim Wee School Of Communication And Information, 5 December 2006 at The Istana, Singapore.
  • Former President Wee Kim Wee dies at the age of 89, Channel News Asia, 2 May 2005.

外部リンク

[編集]
先代
チェンガラ・ヴェーティル・デヴァン・ナイール
シンガポール共和国大統領
1985年-1993年
次代
オン・テンチョン