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エドワード6世 (イングランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドワード6世から転送)
エドワード6世
Edward Ⅵ
イングランド国王
エドワード6世
在位 1547年1月28日 - 1553年7月6日
戴冠式 1547年2月20日
別号 アイルランド王

出生 1537年10月12日
イングランド王国の旗 イングランド王国ハンプトンコート宮殿
死去 (1553-07-06) 1553年7月6日(15歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国グリニッジ、プラセンティア宮殿
埋葬 1553年8月9日 
イングランド王国の旗 イングランド王国ウェストミンスター寺院
次代 ジェーン・グレイ あるいはメアリー1世
家名 テューダー家
王朝 テューダー朝
父親 ヘンリー8世
母親 ジェーン・シーモア
サイン
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エドワード6世Edward VI, 1537年10月12日 - 1553年7月6日[1])は、テューダー朝イングランド王(在位:1547年1月28日(戴冠は2月20日) - 1553年7月6日)。父はヘンリー8世。母は王の3番目の妃であるジェーン・シーモア。異母姉にメアリー1世エリザベス1世

生涯

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ヘンリー8世の嫡出男子で唯一存命していたエドワードは、父の崩御に伴い9歳で即位した。ヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう遺言英語版していたが、エドワードの母方の伯父であるエドワード・シーモアが握りつぶした。エドワード・シーモアはエドワード6世の即位直前にサマセット公位を創設し、自ら護国卿(摂政)となってイングランドの事実上の支配者となった。

ヘンリー8世は生前、エドワードをスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚させ、スコットランドをイングランド管理下に置く構想を持っていた。エドワード・シーモアはこれを引き継ぎ、スコットランドに攻め込んでメアリーを連れ去ろうとした。しかし1548年、メアリーの母でスコットランドの摂政王太后であったメアリー・オブ・ギーズが、自らの母国フランス王太子フランソワ(フランソワ2世)とメアリーを結婚させたため、この計画は実現しなかった。

1552年、エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握り、若き王に政治教育を行った。しかしエドワードの病状から崩御が近いと悟ったジョン・ダドリーは、エドワードの崩御後について画策する。ヘンリー8世が1543年に制定した法律では、継承順位はエドワード、メアリー(後のメアリー1世)、エリザベス(後のエリザベス1世)であったが、1553年5月21日、自分の六男ギルフォードをエドワードの従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイと結婚させ、本来は継承順位が低い[2]ジェーンを後継として指名する遺言を崩御の床にあるエドワードに迫った。結局エドワードはそれを了承し、7月6日に15歳で崩御した。その4日後、ジョン・ダドリーはジェーン・グレイが女王になると宣言し、ジェーンは戴冠式に備えるためロンドン塔に入った。

ダドリー一派の目論見を危険視した政府は、急遽王女メアリー(メアリー1世)をロンドンへ呼び戻し、7月19日、民衆の熱烈な支持を受けながらメアリーは法に基づく正統の女王としてロンドンに帰還した。ジョンとギルフォードのダドリー親子、ジェーン・グレイは反逆罪で斬首刑となった。

治世

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エドワード6世の治世では、2度にわたる礼拝統一法の制定や共通祈祷書の発布により、イングランド国教会の脱カトリックが進んだ。

備考

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  1. ^ Edward VI king of England and Ireland Encyclopædia Britannica
  2. ^ ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの外孫であり、テューダー家の男系の血筋でない上に、母フランセスが存命であった。

参考文献

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  • 小西章子『華麗なる二人の女王の争い』
  • Jane Dunn "Elizabeth& Mary"(年表)
先代
ヘンリー8世
イングランド国王
1547年 - 1553年
次代
メアリー1世