若ヘンリー王
若ヘンリー王 Henry the Young King | |
---|---|
イングランド国王 (共治王) | |
若ヘンリー王 | |
在位 | 1170年 - 1183年 |
出生 |
1155年2月28日 イングランド王国、ロンドン |
死去 |
1183年6月11日(28歳没) フランス王国、マルテル城 |
配偶者 | マルグリット・ド・フランス |
子女 | ウィリアム |
家名 | プランタジネット家 |
王朝 | プランタジネット朝(アンジュー朝) |
父親 | ヘンリー2世 |
母親 | アリエノール・ダキテーヌ |
若ヘンリー王(じゃくヘンリーおう)またはヘンリー若王(ヘンリーじゃくおう、英: Henry the Young King, 仏: Henri le Jeune, 1155年2月28日 - 1183年6月11日)は、イングランド王ヘンリー2世の共治王(在位:1170年 - 1183年)。
ヘンリー2世と妃アリエノール・ダキテーヌの次男。異父姉にマリー、アリックス、同父母の兄弟姉妹では兄にウィリアム、弟にリチャード1世、ジェフリー、ジョン、妹にマティルダ、エレノア、ジョーンがいる。
生涯
[編集]兄ウィリアム(ギヨーム)が夭逝したため、実質的な長男として父の後継者に定められ、1158年に父の側近トマス・ベケットの外交交渉でフランス王ルイ7世の娘(フィリップ2世の異母姉)マルグリットと婚約し2年後の1160年に結婚した。1169年に父が領有するアンジュー帝国内の大陸領に関してルイ7世へ臣従を捧げ、父の後継者としてイングランド・ノルマンディー・アンジュー・メーヌを譲られることが決められ、1170年に父の共同君主に立てられた[1]。
しかし、君主としての実権はなく、父への反感から憂さ晴らしにポワティエにある母の宮廷に移り(父と別居していた)、父から離れて母の下で過ごした。ウィリアム・マーシャルを従えて馬上槍試合に参加する日々を送ったが、寛容で礼儀正しい反面、移り気で浪費癖が酷く父を困らせ、父から施された英才教育に無関心で、王家に必要な政治家・軍人どちらの素質も持たず、側近たちの言いなりになっていた[2]。
父が自分の教育係であったベケットを暗殺したことや末弟ジョン(後のジョン王)を偏愛することにも反発し、1173年2月に父がジョンにシノン・ルーダン・ミルボーを与えることを発表すると、自分の領土からこれら3つの要塞を削られることと、一向に実権が無いことの不満から父に反抗、3月に父の下から脱走した。それから母や義父であるルイ7世の後押しを受けて、弟リチャード(フランス語ではリシャール、後のリチャード1世)、ジェフリー(ブルターニュ公ジョフロワ2世)と共に、6月に父に対して反乱を起こした[3]。
ルイ7世やスコットランド王ウィリアム1世、ブロワ伯ティボー5世、ブローニュ伯マチュー・ダルザス・フランドル伯フィリップ・ダルザス兄弟まで加わった反乱は父の迅速な対応で早期鎮圧され、翌1174年に敗北した若ヘンリー王ら3兄弟は父と和解するが母は幽閉され、以後も父子の不和は続いた。マーシャルらと共に再び馬上槍試合に参加しつつも、相変わらず実権が無い立場に不満を募らせる中で、アキテーヌ公として領内の反乱平定に活躍するリチャードに嫉妬、1182年にはリチャードが自分への臣従礼を拒否したことから、ベルトラン・デ・ボルンの教唆もありジェフリーと組んでリチャードと交戦した。しかし翌1183年に若ヘンリー王は熱病に冒され、死の床で父に背いて争いの元となった罪を懺悔、十字軍の誓いを立てたが行けなかった聖地エルサレムへ自分の代わりに巡礼してくれるようマーシャルに頼み、幽閉中の母の自由を願いつつ28歳で病死した[4]。
妃マルグリットとの間には1177年に長男ウィリアムが生まれたが早逝した。マルグリットは後にハンガリー王ベーラ3世と再婚した[5]。
系図
[編集]ヘンリー2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
若ヘンリー | リチャード1世 | ジョン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドワード黒太子 | ライオネル | ジョン | エドマンド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード2世 | (ランカスター朝) | (ヨーク朝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 桐生、P98、P106、P108、P120、P130 - P131、P138 - P139、石井、P223 - P225、P244 - P245、P270 - P274、ペルヌー、P123 - P124、P147、P163、P174 - P175、P178。
- ^ 桐生、P124、P146、P153 - P159、石井、P280、P291 - P294、ペルヌー、P187 - P188、P192 - P197、ギース、P136。
- ^ 桐生、P161 - P166、石井、P297 - P303、ペルヌー、P192 - P197、ギース、P136 - P137。
- ^ 桐生、P166 - P175、P180 - P181、P185 - P195、石井、P303 - P310、P317 - P323、ペルヌー、P197 - P206、P212 - P214、ギース、P137 - P143。
- ^ 石井、P328、ペルヌー、P224。
参考文献
[編集]- 桐生操『王妃アリエノール・ダキテーヌ -リチャード獅子王の母-』新書館、1988年。
- 石井美樹子『王妃エレアノール ふたつの国の王妃となった女』平凡社、1988年。
- レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』パピルス、1996年。
- フランシス・ギース著、椎野淳訳『中世ヨーロッパの騎士』講談社(講談社学術文庫)、2017年。
関連項目
[編集]
|
|