マチュー・ダルザス
表示
マチュー・ダルザス Mathieu d'Alsace | |
---|---|
ブローニュ伯 | |
在位 | 1160年 - 1173年 |
出生 |
1137年頃 |
死去 |
1173年7月25日 |
配偶者 | ブローニュ女伯マリー |
ヴェルマンドワ女伯エレオノール | |
子女 |
イド マティルド |
家名 | ロレーヌ家 |
父親 | フランドル伯ティエリー・ダルザス |
母親 | シビーユ・ダンジュー |
マチュー・ダルザス(フランス語:Mathieu d'Alsace, 1137年頃 - 1173年7月25日)は、フランス王国の貴族。ブローニュ伯(在位:1160年 - 1173年)。フランドル伯ティエリー・ダルザスとシビーユ・ダンジューの長男でフランドル伯フィリップ・ダルザスは弟、フランドル女伯マルグリット・ダルザスは妹。
生涯
[編集]マチューは1160年に、修道女であったイングランド王スティーブンの娘マリー・ド・ブローニュを誘拐し、強引に結婚した。そして妻の権利により、ブローニュ伯位を主張した。マリーとの間に2女をもうけた[1]。
- イド(1160年 - 1216年) - ブローニュ女伯(1173年 - 1216年)
- マティルド(1170年 - 1210年) - ブラバント公アンリ1世と結婚[2]、娘アデライード・ド・ブラバンは後にブローニュ伯位を継承(1262年 - 1265年)
この強引な結婚は教会法に違反しており、最終的に1170年に解消された。しかし結婚の解消後もマチューはブローニュ伯として領地を支配した。
1171年、マチューはヴェルマンドワ伯ラウル1世の娘エレオノールと結婚したが、早世した1女をもうけたのみであった[3]。
マチューはイングランド王若ヘンリー王を支援し[4]、イングランドの領地を与えられた。マチューは弟フィリップの主導により行われたヘンリー2世の息子たちによるヘンリー2世に対する反乱の最中に、ドリヤンクールの包囲戦で戦死した[5]。石弓の矢が当たり、回復しなかった[6]。
脚注
[編集]- ^ McDougall 2017, p. 204.
- ^ George 1875, p. table xxix.
- ^ Dyggve 1935, p. 67-68.
- ^ Strickland 2016, p. 139.
- ^ Flori 2007, p. 106.
- ^ Gillingham 1989, p. 67.
参考文献
[編集]- Dyggve, Holger Petersen (1935). “Personnages historiques figurant dans la poésie lyrique française des XII e et XIII e siècles. III: Les dames du »Tournoiement» de Huon d'Oisi” (French). Neuphilologische Mitteilungen 36 (2): 65–91.
- Flori, Jean (2007). Eleanor of Aquitaine: Queen and Rebel. Edinburgh University Press
- George, Hereford Brooke (1875). Genealogical Tables Illustrative of Modern History. Oxford at the Clarendon Press
- Gillingham, John (1989). Richard the Lionheart. Yale University Press
- McDougall, Sara (2017). Royal Bastards: The Birth of Illegitimacy, 800-1230. Oxford University Press
- Strickland, Matthew (2016). Henry the Young King, 1155-1183. Yale University Press
|
|