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オレグ (クルスク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オレグ(スヴャトスラヴィチ?) またはオレグ・クルスキーロシア語: Олег(Святославич)/ Олег Курский、? - 1228年以降[1])は、チェルニゴフ・オレグ家(ru)スヴャトスラフの子のオレグの子孫)出身のクルスク公である。1223年カルカ河畔の戦いの参加者として言及されている[2]

一説によれば[3]、オレグはルィリスク公スヴャトスラフ・オリゴヴィチの子であるという。また、1223年のカルカ河畔の戦いで死亡したムスチスラフの後にチェルニゴフ公となるが、1226年ミハイルによって追放されたという。

上記の内容とは異なる説として、本頁のオレグは、史料の1226年の項に言及される、チェルニゴフ公イーゴリの子のオレグと同一人物とする説や[4]、ムスチスラフがカルカ河畔の戦いで死亡した後のチェルニゴフ公はコンスタンチンという人物だとする説がある[5]

妻子に関しては、妻の名は不明である。子については、『リューベチ・シノディク[注 1]に名のあるクルスク公ユーリー[9]、クルスク公ドミトリー[10]、『ヴォスクレセンスカヤ年代記』に言及されるヤロスラヴリ公フセヴォロドの妻となったオリガ[11]の三名を、オレグの子とみなす説がある[3]

脚注

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注釈

  1. ^ 地名についてはリューベチ参照。シノディクは露和辞典上は「過去帳」等と訳されているが[6][7][8]、厳密にはru:Синодик参照。

出典

  1. ^ Baumgarten N. Généalogies et mariages occidentaux des Rurikides Russes du X-e au XIII-е siècle // Orientalia Christiana. — Roma, 1927. — № 35. — С. 19—20.
  2. ^ ПСРЛ, т. 2. Ипатьевская летопись / Фототип. изд. 1908 г. — М., 1962. — стб. 744
  3. ^ a b Войтович Л. Ольговичі. Чернігівські і Сіверські князі // Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
  4. ^ Грушевський М. С. Історія України-Руси. Том II. Розділ V
  5. ^ Горский А. А. Русские земли в XIII—XIV веках
  6. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、p996
  7. ^ 東郷正延ら編 『研究社露和辞典(携帯版)』 研究社、1988年、p2089
  8. ^ 和久利誓一ら編 『岩波ロシア語辞典』 岩波書店、1992年、p1762
  9. ^ Любецкий синодик (поз. 64)
  10. ^ Любецкий синодик (поз. 62)
  11. ^ ПСРЛ, т. 7. Воскресенская летопись. — СПб., 1856. — С. 134.

参考文献

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  • Пресняков А.Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь. — М.: Наука, 1993.