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オーリアンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オーリアンズ
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ウッドストック
ジャンル
活動期間
  • 1972年 - 1997年
  • 2001年 -
レーベル
メンバー
  • ジョン・ホール
  • デニス・"フライ"・アメロ
  • ランス・ホッペン
  • レイン・ホッペン
  • ブレイディ・スペンサー
旧メンバー
  • ラリー・ホッペン
  • ウェルズ・ケリー
  • ジェリー・マロッタ
  • ボブ・レインバック
  • ピーター・オブライエン
  • チャーリー・モーガン
  • チップ・マーティン

オーリアンズOrleans[2]は、1972年ニューヨーク州ウッドストックで結成されたアメリカポップ・ロックバンド1975年のアルバム『歌こそすべて (Let There Be Music)』、そこからシングル・カットされたヒット「ダンス・ウィズ・ミー (Dance With Me)」がとくに有名。

キャリア

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1972年2月、ギタリストで作曲家のジョン・ホール(John Hall、後にアメリカ合衆国下院議員)、ギタリストでシンガーのラリー・ホッペン、ドラマーのウェルズ・ケリーを中心に結成される。同年11月、ラリーの弟ランス・ホッペン、ドラマーのジェリー・マロッタが加入。 アメリカ北東部のクラブ、大学を地道にサーキットして後々のコアなファンを開拓、下積み当時にはボニー・レイットトム・ウェイツホール&オーツなど前途有望なアーティストと出会って刺激を受ける。

1973年ABCレコードのダンヒル・レーベルからセルフタイトルのデビュー・アルバムをリリースしたが大した反響は得られず、続く2nd『オーリアンズⅡ (Orleans Ⅱ)』もアメリカ本国ではリリースされず、日本ヨーロッパでのリリースに止まった。

アサイラム・レコードに移籍し、チャック・プロトキンのプロデュースで制作した3rdアルバム『歌こそすべて (Let There Be Music)』(1975年)からシングル・カットした「ダンス・ウィズ・ミー」が同年秋にビルボードの6位まで上昇する大ヒットとなり、一躍注目を浴びる。

続く1976年の4作目『夢のさまよい (Waking and Dreaming)』もビルボードの30位まで上昇し、シングル「スティル・ザ・ワン (Still the One)」はチャートの5位まで上る大ヒットとなった。この曲がチャートを駆け上がると同時期に、バンドはレーベル・メイトのジャクソン・ブラウンと大陸横断ツアーを行った。

本来はアーシーなR&Bロックンロールに根差した音楽を志向していた彼らだが、これらのヒット曲のイメージにより、ボーカル・ハーモニーをサウンドの軸に据えたソフトロックの雄として認知され、メリサ・マンチェスターとのパッケージ・ツアーにも出かけた。 しかし、本来の自分の志向と違う形での成功にストレスを感じたジョン・ホールは、ソロ活動を望んでグループを脱退した。

1979年、ホッペン兄弟とケリーはバンドを立て直し、新たにインフィニティ・レコードと契約。アルバム『フォーエバー』(Forever)からシングル・カットした「友よ再び」(Love Takes Time)はチャートの11位を記録し、スティーヴン・スティルスや、シカゴとのツアーも盛況であった。

1984年ミートローフとのツアー中にウェルズ・ケリーが急死したことをきっかけに、ホッペン兄弟とジョン・ホールは再接近。1986年、ホールが復帰したオーリアンズは、MCAレコードの名プロデューサー、トニー・ブラウンのプロデュースによるアルバム『グロウン・アップ・チルドレン (Grown Up Children )』をリリース。

1991年には2枚組ライブCDを日本でリリース(本国アメリカでのリリースは1993年)、2回にわたる日本ツアー、ウッドストック 1994への出演、1995年の「キャント・ストップ・ロッキン・ツアー」への参加(共演はフリートウッド・マックREOスピードワゴンパット・ベネター)など、90年代も精力的に活動した。

2006年にニューヨーク州から下院議員に選出されたジョン・ホールは、グループ活動に帯同できなくなり、任期中(2007年から2011年)はごく限られた機会にのみ登場するようになった。

2012年7月24日、ラリー・ホッペンが死去。死因は明らかになっていない。同年8月にバンドのウェブサイト上でその後の年内のスケジュールについて、ジョン・ホールが復帰して活動を続行することを発表。その後9月16日にウッドストックのベアズヴィル・シアターにて旧メンバーのボブ・レインバックも参加して追悼ライブが行われた。

ラリー・ホッペン死去後、ジョン・ホール(G,Vo)、ランス・ホッペン(B,Vo)、ホッペン兄弟の末弟レイン・ホッペン(Key)、ホール不在のオーリアンズで後任を務めていたデニス・"フライ"・アメロ(G,Vo)、長くエルトン・ジョンのサポートを務めたチャーリー・モーガン(Ds)の5人編成となった。

2018年にドラムのチャーリー・モーガンが脱退し、後任としてブレイディ・スペンサーが加入した。

2019年7月、ジョン・ホールが演奏活動からの引退を表明し、代わってランス・ホッペンとブレイディ・スペンサーのナッシュビルのミュージシャン仲間であったチップ・マーティン(Vo,G,B)が加入した。しかしその後、一時的なサバティカルであったとして引退を事実上撤回し、2020年よりバンドに復帰している。

ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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  • Orleans (1973)
  • Orleans II (1974)
  • Let There Be Music (1975)
  • Waking and Dreaming (1976)
  • Forever (1979)
  • Orleans (1980)
  • One of a Kind (1982)
  • Grown Up Children (1986)
  • Analog Men (1994)
  • Ride (1996)
  • Dancin' in the Moonlight (2005)
  • Obscurities (2008)
  • Work at Home with Orleans (2020)
  • New Star Shining (2021)

ライブ・アルバム

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  • Live (1991)
  • Still the One, Live (2002)
  • We're Still Having Fun (2007)

コンピレーション

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  • The ABC Collection (1976)
  • Before the Dance (1978)
  • Dance With Me - The Best of Orleans (1997)
  • No More Than You Can Handle: A 40 Year Musical Journey (2013)
  • Playlist: The Very Best of Orleans (2017)

チャート・インしたシングル

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  • 1975 - "Let There Be Music" - U.S. #55 Pop Singles
  • 1975 - 「ダンス・ウィズ・ミー」"Dance With Me" - U.S. #6 Pop Singles; #6 Adult Contemporary
  • 1976 - "Still the One" - U.S. #5 Pop Singles
  • 1977 - "Reach" - U.S. #51 Pop Singles
  • 1979 - 「ラヴ・テイクス・タイム」"Love Takes Time" - U.S. #11 Pop Singles

脚注

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  1. ^ a b Skelly, Richard. Orleans | Biography & History - オールミュージック. 2021年6月21日閲覧。
  2. ^ カナ表記ではこのほか「オルレアンズ」などとするものも散見される。

外部リンク

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Orleans Online.com 公式サイト