カルロ・アルメッリーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルロ・アルメッリーニ
Carlo Armellini


ローマ共和国
三頭執政官(Triumviro)
任期 1849年3月29日1849年7月1日

出生 1777年
教皇領ローマ
死去 1863年6月6日
ベルギーの旗 ベルギーサン=ジョス=タン=ノード
子女 アウグスト・アルメッリーニイタリア語版(息子)

カルロ・アルメッリーニ(イタリア語: Carlo Armellini, 1777年 - 1863年6月6日)は、イタリアイタリア統一運動時代の政治家弁護士革命家愛国者である。ジュゼッペ・マッツィーニアウレリオ・サッフィと並ぶ、1849年に樹立されたローマ共和国の三頭執政官である。

生涯[編集]

カルロ・アルメッリーニの旧宅を示す銘板

カルロ・アルメッリーニは1777年には教皇領ローマの裕福な家庭に生まれた[1]。二番目の妻ファウスティナ・ブラッキ英語版イタリア語: Faustina Bracci)は画家[2]、彼女の父の友人であった枢機卿エルコール・コンサルヴィの支持を受け、弁護士としての活動をマルケで開始した[1]

政治的にはイタリア統一を絶対視しない穏健派で、当初は近代化に理解を示し「覚醒教皇」と称された教皇ピウス9世の諸改革を支持していた[1]

しかし後にジュゼッペ・マッツィーニが設立した青年イタリアと接近し、ペッレグリーノ・ロッシが暗殺されピウス9世が国外に逃亡したのちには、教皇領内務大臣に就任して制憲議会を組織した。また新たにローマ共和国が建国されると、これに協力。1849年3月29日よりジュゼッペ・マッツィーニアウレリオ・サッフィと並ぶ三頭執政官として活躍した[3][4][5]弁護士であるアウレリオ・サリチェーティイタリア語版法学者マティア・モンテッキとともに史上初めて死刑を禁止した「ローマ共和国憲法イタリア語版」の起草にも貢献。

フランスによるローマ共和国崩壊後は家族イタリアに残してベルギーに亡命。1863年にはブリュッセルサン=ジョス=タン=ノードで死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Armellini, Carloイタリア人名辞典 (イタリア語)
  2. ^ Profile of Faustina Bracci Armellini(イタリア語)
  3. ^ 藤澤房俊『マッツィーニの思想と行動』 253ページ
  4. ^ 藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』 133ページ
  5. ^ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 157ページ

関連項目[編集]