カンピオーンス・コンペティーチー
カンピオーンス・コンペティーチー | |
---|---|
開始年 | 1898年 |
終了年 | 1956年 |
主催 | オランダサッカー協会 |
参加チーム数 | 最大6クラブ |
加盟国 | オランダ |
前回優勝 | ラピドJC |
最多優勝 | HVVデン・ハーグ (10回) |
カンピオーンス・コンペティーチー (Kampioenscompetitie)は1898年から1956年までオランダで行われていたネーデルランス・カンピオーンスハップ・フットボールの全国決勝ラウンドである。エールディヴィジの公式サイトでは、カンピオーンス・コンペティーチーはエールディヴィジの「前身 (voorloper)」と記述されている[1]。
本項ではこの全国決勝ラウンドの予選に相当する、当時の地域最上位リーグ「エールステ・クラッセ」の歴史についても記述する。
歴史
[編集]オランダのクラブチーム王者を決める選手権、通称「ネーデルランス・カンピオーンスハップ」(以下「オランダ選手権」)は1888年から行われていた。しかし公式な大会として扱われるのは、オランダサッカー協会 (KNVB)が設立されてから10年後である。KNVBがこの選手権およびカンピオーンス・コンペティーチー (以下「全国決勝」)をエールディヴィジとつながった歴史とみなしていることは、10回優勝するごとに1つの「チャンピオンスター」 (星)をユニフォームの胸につけることを認め、その回数をエールディビジと全国決勝通算でカウントしていることからも明らかである。HVVデン・ハーグはエールディヴィジを1回も制覇したことがないが、全国決勝の優勝10回の実績から星1つをユニフォームに縫い込むことを認められた[2]。
非公式時代のオランダ選手権には、そもそも「全国決勝ラウンド」など存在しなかった。リーグ戦がオランダ西部地域にしか存在しなかったので、そこで優勝したクラブが「オランダ王者」を名乗るのはやむを得ないことで、それに挑戦する他地域の対戦相手がいなかったからである[3]。KNVBがオランダ選手権を管理するようになった20世紀初頭の数年間に、東部地域にリーグ戦が設立されると勢力図が変わり始めた。北ブラバント州からはブレダのCVVベロシタスが西部リーグに、そしてスヘルトーヘンボスのRKVVヴィルヘルミナが東部リーグへと越境参戦してきた。そして1910年代になると、1913年に南部リーグ、1916年に北部リーグが誕生し、東西南北に地域リーグがそろう。西部リーグが「ヴェストⅠ」 (北ホラント州とユトレヒト州)と「ヴェストⅡ」 (南ホラント州)に分けられ、全国決勝を目指す5つの基本的地域グループリーグ (エールステ・クラッセ)がそろった。
5大地域グループができる前の時代のオランダ選手権は、HVVデン・ハーグ、RAPアムステルダム、スパルタ・ロッテルダムが全国優勝を数多くさらった。HVVとRAPは合わせて15回も優勝しているが、そこから先は新興勢力に押されて低迷していった。スパルタも5大地域グループができて以降は、2度と全国優勝できなかった[4]。
第2次世界大戦後最初のシーズンから南部が2ブロックに分かれて合計6ブロックになったが、1950年代には5グループに戻った。1950年代の地域グループは従来の組み分けよりも複雑化しており、そのため方角を表す名称ではなくアルファベットでグループ名がつけられた。その後プロ化されてからエールディビジができるまでの2シーズンは4グループに数が減り、北と南にそれぞれ2つのグループが作られた。そのためアイントホーフェンのPSVとFCアイントホーフェン、ロッテルダムのフェイエノールトとスパルタ、アムステルダムのアヤックスとDWSは、異なるグループに組み込まれた。プロ化直後2シーズンのオランダ選手権はアマチュア時代と大きく変わらなかったが、エールディヴィジができたことで1年を通してホームとアウェイを行き来して戦う、現在の全国リーグの時代が到来した。
脚注
[編集]- ^ “GESCHIEDENIS”. Eredivisie.nl. 2022年5月1日閲覧。
- ^ “HVV: DE VIERDE NEDERLANDSE CLUB MET EEN STER OP HET SHIRT”. オランダサッカー協会. 2022年5月1日閲覧。
- ^ Allard Doesburg. “Netherlands Eerste Klasse West Final League”. RSSSF. 2022年5月1日閲覧。
- ^ a b Karel Stokkermans. “Netherlands First Class Champions 1888-1”. RSSSF. 2022年5月1日閲覧。